第1章:湖上都市イルタヴィナ
3.すべては水底に
春めいた日差しのけぶる、暖かな昼下がり。
ミーナは、大学構内を縦断する石畳の並木道を歩いていた。
目指すのは、敷地の外れにぽつんとたたずむ一本のマロニエの木。ミーナが初めてクライスに出会った、あの場所だ。
基本的に人通りの少ないそこは、この辺りに棲みついていると思しき精霊たちがたびたび現れる。それゆえ昼休みには、使い込んだ分厚い帳面とペンを片手に、彼らの言葉の解読に励むクライスを、木の下に置かれた古びたベンチに見つけるのが常だった。
そして今日も例に漏れず――と思ったのだが、どうも様子がおかしい。
男は、何をするでもなくぼんやりとマロニエの梢を見上げていた。いつもなら膝の上に広げられているはずの帳面は、かたく閉じられたまま。ともすれば、教壇に立つとき以外肌身離さず身に着けているはずのあの集音器すら、閉じた本の上にぞんざいに投げ出されていた。
精霊たちは今日も姿を見せ、鈴の音のような《歌》を奏でているのだけれど、今のクライスには届くはずもなく。小さな鳥のような姿をした精霊たちは、どこか構ってほしそうに彼の周囲をふわふわと飛び回っている。
その様子が可愛らしく、ミーナは小さく笑みをこぼした。
「ルイン先生、こんにちは」
声をかけると、クライスは緩慢な仕草で視線をよこした。
「ああ……ミーナ君か」
「浮かないお顔ですねぇ」
「君ならその理由もわかるだろう」
「まあ、そうですね」
ミーナは苦笑して、クライスの隣に腰を下ろした。
「かつて湖上に栄えた都市イルタヴィナ。その時代において異質ともいえる技術水準の高さ、機械都市を動かすエネルギーをどこから得ていたのか。その鍵は精霊との共生にあった――この論文は、ひと波乱起こせただろうな」
精霊の手がかりを求めて赴いた湖岸の遺跡。
湖に沈んだいにしえの都市が、あろうことか湖上に再び蘇った。ミーナたちは確かに足を踏み入れ、都市を統べる精霊と対峙し、言葉を交わしたのだ。
そんな目まぐるしい出来事も、もはや夢の跡。
都市は夜明けとともに再び水底で眠りにつき、もう二度と目醒めることはない。
「すべては水の中。僕たちが訪れる前と、傍目には何も変わらないというわけだ。――残された痕跡はといえば、これぐらいか」
クライスはしわくちゃで使い物にならなくなった帳面を持ち上げ、肩をすくめた。持ち主もろとも水に浸かったのである。
「とはいえ、あの湖の静寂が守られることが、ウンディーネの一番の望みだろうから。あの都市のことは、僕と君だけの秘密にしておくしかない」
それでも、そう語る横顔はどこか清々しかった。懐かしむような未練はあれど、後悔は微塵もない、そういうことなのだろう。
だからミーナも、微笑みうなずいてみせた。
「では、これも私と先生だけの秘密ですね」
ミーナは、鞄の中から一冊のスケッチブックを取り出した。
「描いてみたんです、あの日見た景色を」
表紙をめくると、現れるのは青く澄んだ湖の全景。
クライスが大きく目をみはった。
「これは……驚いたな。君、そういう才能があったのか」
「昔から絵を描くこととお茶を淹れることは得意なのです」
さらにページをめくると、今度は浮上した湖上都市の中へと進んでいく。
あの日踏みしめたイルタヴィナの街路、その一つ一つを思い出しながら描いた。そこかしこに、ミーナが目にしたさまざまな姿の精霊たちが描き込まれている。
「これが、君が見ている精霊たちの姿なのか。――ああ、これがあのとき君が言ってた……なるほどな」
息抜きのようにページの片隅に描いた、マグカップの中に魚形の精霊がちょこんと収まった落書きを見て、クライスがふっと相好を崩す。
「ふふ、可愛いでしょう?」
「皆どことなく造形が愛らしいのは、本当にそのような姿をしているのか、君の画風なのか。……ああ、だが、水鏡に映ったウンディーネは確かにこんな感じだったな」
「クライスさんにお伝えすることが目的ですから、できるだけ写実的に描いたつもりです」
その後も彼は、時に懐かしそうに顔をほころばせ、時に食い入るように見つめ、一つ一つの絵をじっくりと眺めていた。
先ほどまで肩を落として消沈していた男の目が、宝物を見つけた少年のように輝くさまに、ミーナもなんとなく嬉しくなる。
「君は……とても美しい世界に生きているんだな」
言葉を忘れたように見入っていたクライスが、本当に何気なくこぼした一言。
――美しい。
何のてらいもないその言葉に、なぜだかミーナは泣きたくなった。
だってそれは、幼き日のミーナが欲しくてたまらなかった言葉だ。目に映る世界はこんなにもきらきらと美しい。美しいと思う、そのありのままの気持ちを、ずっと――ずっと誰かと分かち合いたくてたまらなかったのだ。
「望むと望まざるとにかかわらず〝視えてしまう〟君に、こう言うのは無神経かもしれないが……正直、羨ましいと思っているんだ」
「ふふ。私の絵でよければ、いつだって描いて差し上げます」
目に見えるものを偽ることを覚えて、それでも時折息苦しくなって、捌け口のように描き散らしては虚しくなるばかりだったこの絵を、これからはこの人のために描いていこう。
スケッチブックを受け取りながら、ミーナは満ち足りた思いでその決意を結んだ。
「では、次はちゃんと画材を持参しなくてはですね」
拳を握って意気込むミーナに、けれどクライスは怪訝そうに眉を寄せる。
「次、とは?」
「先生のことですから、きっと他にも精霊さんにまつわる手がかりを見つけていらっしゃるかと思いまして」
「ああ……まあ、一応は」
ミーナはわくわくしながら言葉の続きを待った。
しかし――どれだけ待てども、妙な沈黙が続くばかりだ。
「言っておくが、君には教えないぞ」
「えーっ、なんでですか!?」
「だって君、ついてくる気満々じゃないか」
「そんなのクライスさんの助手として当たり前じゃないですか~」
「だからその助手というのはどこから。……いいか、ミーナ君」
ふいに、クライスの眼差しが真摯さを帯びた。
「湖上都市では危うく溺れるところだっただろう。そもそもあんな人里離れた山奥まで君がたった一人でやって来たっていうだけで、こっちはどれだけ肝を冷やしたか。イルタヴィナの件で君の力に助けられたのは事実だし、感謝している。それでも――僕の個人的な興味でやっていることで、大切な君の身を危険にさらすわけにはいかないんだ」
――大切な。
告げられたその響きに、ミーナの鼓動が跳ねたのも束の間。
「こちらには、未来ある学生を守る責任がある」
「……あぁ……そういう……」
至極まっとうなことをきっぱりと言い切られ、抱きかけた甘い期待はぷすぷすとしぼんでいった。
大学教員と学生。そこには見えない境界線が――少なくとも彼にとっては厳然と存在しているようで、現状どうあがいても、ミーナはその外側に位置付けられてしまうのである。
「あー……ミーナ君」
肩を落としていると、とりなすような調子で声をかけられた。
「その、あれだ……ついてくるなというのは、あくまでも危険な調査にという意味であってだな」
「……?」
彼にしては珍しくはっきりとしない語調が気になり、ミーナは隣に座る男を振り返った。
こちらに向けられる眼差しには、妙な真剣さがあった。
「別に君を拒絶する意図はない。先日伝えたとおり、僕にできることなら力になりたいと思っている。そのことは、どうか忘れないでほしい」
「はい。……えっと?」
気圧されるようにうなずいたものの、意図が読めずに聞き返してしまう。
「いや、君が何か落ち込んでいる気がしたから。気のせいなら構わないけど」
「ふふ……大丈夫です。ありがとうございます」
こちらの気落ちの理由が全く伝わらないどころか、明後日の方向に気を回されていたことが可笑しく、ミーナは顔をほころばせた。
何より、こうして寄り添ってくれることは素直に嬉しいので。
「では、クライスさん。私は私にできることを頑張りますので、これからもどうぞよろしくお願いしますね」
「……? ああ、こちらこそ」
この目に映る風景を、胸の奥に湧き上がるこの想いを、ありのままに描き続けよう。
いつか――ほんの少しでも、あなたの目に映ればいいと願いながら。