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 講堂の裏手にひっそりと佇む、マロニエの古木。その木陰に置かれたベンチはすっかり色褪せ、訪れる者の少なさを物語っている。
 けれどもミーナは、確信を持って探し人の姿をそこに見つけるのだった。


「こんにちは、ルイン先生」


 声をかけると、クライスは手元の帳面に落とした視線を持ち上げた。藍晶石の色をした瞳がミーナを捉え、やわく細められる。


「ああ、ミーナ君か」


 考古学者であり、ミーナの通う大学で教壇に立つ男は、今は糊のきいたシャツの襟元を崩している。
 彼がこの場所を好む理由は、ひとけが少なく静かだから……他の学生が見かけたらそのように考えるだろうか。けれども決してそうではないことを、ミーナだけが知っている。
 木陰には、鳥のさえずりにも似た《歌》が断続的に降り注ぐ。彼はそれを捉え、言葉を読み解くためにここにいる。


「こちらにいらっしゃると思ってました」
「僕に何か用事が?」
「いえ、そういうわけでもないんですけど……」


 言いよどむミーナに、クライスは特に何も聞かず、ベンチの上に広げていた鞄や本を傍らに寄せ、一人分のスペースを空けてくれた。
 軽く礼を述べ、ハンカチを敷いてそっと腰を下ろす。


「精霊さん、なんて言ってるんですか?」

「そんな簡単に分かったら苦労しないよ」


 苦笑混じりにぼやいて、クライスは使い込まれた帳面を繰り始めた。そこにびっしりと書き込まれた文字は、今も響くこの《歌》を日々書き留めたものだ。
 クライスが精霊と名付け、その謎を解き明かさんとする存在は、本来は人の五感で捉えることが叶わない。彼が《歌》を聞くのとて、片耳に着けた小さな機械を介している。
 けれどもどうしたわけか、ミーナはごく当たり前のようにそれらを視認し、《歌》を聞き取ってしまう。
 今もマロニエの枝先を仰ぎ見れば、木漏れ日とは明らかに違う、何かの生き物めいた光がふわり、ふわりと揺れ動くのが見てとれた。
 そんな体質を、友人はおろか家族にすらひた隠しにしながら、ふと気まぐれを起こして〝目に映るまま〟の光景をキャンバスに描いては、〝独創的な〟絵だと評されたりする。
 そういう日常を送るミーナを、ただ一人事情を知るクライスは、少なからず気にかけているらしい。


『君がその目に映るものを偽ることに疲れた時は、話し相手くらいにはなろう』


 そう言われたのは、およそ半月前、とある湖岸の遺跡でのこと。以来ミーナはその言葉に甘え、時折こうして彼を訪ねている。


「それで、君には今、そこに何が見えているんだ?」
「えっと……ふわーっとした光の、羽のような、綿毛のような……うーん……」


 言葉を連ねるほどにクライスの眉が訝しげに寄せられるので、ミーナはすっぱりと説明を諦め、ペンと帳面を借りることにした。
 白紙のページを開き、マロニエの枝を簡単に写し取ると、あの不思議な光たちを描き込んでいく。
 そうして描き上がったものを手渡すと、クライスは興味深そうにじっと覗き込んでは、梢の方へかざすようにして何度か見比べた。


「鳥みたいだ」
「あっそれです、鳥さんです! ふふ、そこに巣でもあるのでしょうか」
「精霊の? その発想はだいぶ面白いな」


 どこか少年めいた無邪気な表情に、どきりとする。
 姿なき存在、見えざる異界へ思いを馳せるとき、クライスはきまってそういう顔をした。
 ほんの一瞬でもいい、その眼差しが私を捉えてくれたなら。胸を焦がすその感情の名を、ミーナは知っているけれど。


「クライスさん」
「……ん?」


 キャンパスでの〝その呼び方〟を咎めもしないほどに、彼の心は今、あちら側にしかないので。それは決して伝わることのない想いなのだと、どうしようもなく思い知らされるわけで。


「いえ、なんでもないです」


 そっとため息をこぼし、降り注ぐ《歌》に耳を澄ませた。

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