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第2章:霧の樹海エリスニーシェ
1.迷いの森と彼女の世界(前)

 

 エリスニーシェ、と古くから呼び称される樹海がある。
 クライスの勤める大学からも程近いその場所に関して、学生たちの間では近年、ある噂がまことしやかにささやかれていた。
 いわく、樹海の中は空間が歪み、先へ進もうとしても、気づけば樹海の入り口に戻っている、誰一人としてその奥へ足を踏み入れた者はいないというのだ。
 真相を確かめようと、長期休暇などには肝試しを試みる学生が後を絶たないのである。
 そして――こうして自分を訪ねてきたミーナ・プリエーラも、その例に漏れず。


「エリスニーシェの迷いの森、先生も気になりませんか?」


 いつものように昼下がりのマロニエの木陰に姿を見せたミーナは、開口一番にその話を切り出した。


「肝試しなら友人とやってくれ。危険のない範囲でな」
「それが、学科の皆さんはもう経験済みらしいのですよ。夏休みに、ユリアさん主催のキャンプがありまして」


 同じ考古学科の女子学生の名を挙げ、ミーナはさらに言葉を続けた。


「私、お誘いいただけなかったのです」
「それは……君のお家柄に気を遣ったんだろう」


 こうして話しているとつい忘れそうになるが、プリエーラ家といえば、この辺りで知らぬ者はいない旧財閥系の名家だ。普段は分け隔てない交流を重ねる学友といえど、男女入り混じっての野宿に名家のご令嬢を誘うのは、さすがにはばかられたのかもしれない。
 ミーナ自身もそれはわかっているようで、「つまらないですぅ」とさほど深刻でない調子でぼやいている。


「私が先生とあんなことやこんなこと、お泊まりだって経験済みだと知ったら、きっと皆さんびっくりしちゃいますね」
「誤解を招く言い方はやめてくれ」


 多分に事実も含まれるから余計にたちが悪い。半年ほど前、浮上した湖上都市(イルタヴィナ)でなし崩し的に夜を明かすことになった一件を思い出し、クライスは嘆息した。


「――それに」


 心なしか陰のさした声に、クライスはふと隣に座る少女を振り返った。


「もしもその怪奇現象が精霊さん由来のもので、その、視えてしまったら……色々とごまかすのに必死で、あまり楽しめないかもしれないですし」


 色づきかけたマロニエの梢を見上げる横顔は、どこか寂しげだ。


「そこで僕に話を持ちかけた、と?」
「クライスさんにはその辺り取り繕う必要がないですし、先生の研究のお手伝いにもなって一石二鳥かなと」


 家族にすら頑なに明かしていないという、姿なき者を視認するミーナの特異体質。唯一その秘密を共有し、少なからず彼女の抱える孤独を知ってしまったクライスとしては、正直そこを持ち出されると弱い。


「エリスニーシェの樹海に関しては、近年発見された史料に興味深い記述があってな」


 暫時の思案の末、クライスは話を切り出すことにした。


「樹海の奥深くに人の暮らす集落があった、と。だが今日まで、そんな形跡は全く見つかっていない。個人的に一度調査に赴いてみたいとは考えていたんだ」


 ミーナがぱっと目を輝かせた。


「では……!」
「まぁ、学生同士が遊びで訪れるような場所だからな、先日のイルタヴィナに比べたら……そうだ、今度はご家族にちゃんと行き先を伝えるんだぞ」
「はい! ルイン先生の課外授業、第二弾ですね。ふふ、楽しみです」


 琥珀色の瞳を輝かせ、ミーナは日の差すような明るい笑顔を見せた。
 それなりに付き合いが長くなってきたからか――基本的に笑みを絶やさないこの少女が、それでも心から笑っていると感じる取れるときがある。
 少しでもそういう瞬間が増えればいいと願っている。
 この手が届く範囲で、彼女がそう在れる場所を与えてやれたら、とも。

 


 そんな経緯でエリスニーシェの森へ赴いたのは、広葉樹がまばらに色づき始めた秋の初めのとある日。
 さわさわと風に揺れる葉擦れの音、どこかの枝先から降る鳥の声。静穏なようでいてさまざまな音にあふれた森には、けれど、それらとは質を異にする音が――精霊たちの《歌》が、かすかに混ざる。
 クライスがじっと耳を澄ませ、その出所を探していると、背後でミーナの弾んだ声が響いた。


「クライスさん! 見てください、これ!」


 彼女に見えてクライスの目に映らぬものがあれば、それはほぼ間違いなく精霊たちにまつわる手がかり、あるいは彼らそのものである。
 ゆえにクライスは、いくらかの期待を込めて振り返るのだが――。


「ミーナ君」
「はい」
「それは何だ?」
「真っ青できれいなトカゲさんです」


 見ればわかる。そして、わかりたくもなかった。
 ミーナが楽しそうに差し出した掌の上には、鮮やかな青緑色のトカゲが、手のりの愛玩動物よろしくちょこんと収まっている。
 その妙につややかな皮膚の質感を脳が認識するにつけ――強い悪寒が背中を駆け抜けた。


「むやみに野生の生き物を触るんじゃない! 元いた場所に帰してきなさい、今すぐに!」


 できるかぎり〝それ〟を視界に入れないように努め、クライスは叫んだ。
 はぁい、とつまらなそうに返事をしたミーナが〝それ〟を茂みに放つのを視界の端で確認し、ようやく人心地つく。


「一つ確認しておくが、なぜあれを僕に見せようと思った?」
「えっと、何か変わったものを見たら詳しく教えてくれ、と先ほどクライスさんおっしゃっていたので」


 屈託のない笑顔で答えるミーナに、クライスは思わず額を押さえた。


「いいか、ミーナ君。君にしか見えないもの、僕が視認できないもの、つまるところ精霊たちに関わる何かしらの手がかりを見たら教えてほしい、という意味であってだな」
「トカゲの姿をした精霊さんという可能性も」
「実体がある、君が手で触れられるという時点でその線はないだろう」
「だって、可愛かったんです」


 まるで子猫を拾った幼子の言い訳である。
 近頃の女子学生が言う〝可愛い〟の広義さにはしばしば頭をひねることがあるが、それにしたって爬虫類がそこに入ってくるミーナの感覚は多分、結構ずれている。
 クライス自身はといえば、物心ついたときからどうしても、あの形状の生き物に対して生理的な恐怖を覚えてしまう体質なのだ。
 とはいえ、そんなことを目の前の少女に気取られるのは、いい年した大人の男としての矜持(プライド)が許さないので、努めて平静を装っている。――多分、装えているはずと信じて。


「それにしても……森の中にも、こんなに大きなお花が咲くんですねぇ」


 ミーナが何気ない調子でつぶやいた。


「……花?」
「はい、そこに大きな赤いお花が三つほど」


 彼女が指差す方をうかがうが、クライスの視界には、ほのかに秋めいた森が広がるばかりだ。


「……はっ!? もしかして、もしかしなくてもこれですか!」
「どう考えても精霊(それ)だ。ミーナ君、僕はそういう報告を待っていたんだ」


 毒々しい色をした爬虫類などでは断じてなく。
 先ほどから時折聞こえていた《歌》の主は、どうやらここにいたらしい。


『――〝Lila I du shas, la hant liu wis Elissnisie〟』


 見えざる者たちが再び《歌》を紡ぎ始めたので、クライスは筆記具を手にそちらに意識を研ぎ澄ませた。


「〝お前たちを歓迎する。時を超える森、エリスニーシェ〟……かな」
「ふふ、ありがとうございます。お邪魔しますね」


 無邪気に挨拶をするミーナの傍らで、クライスはふと、妙な胸騒ぎを覚えた。
 ――時を超える。
 その言葉は、果たして何を意味するのか。


「ところでクライスさん。向こうの方、妙に明るく見えませんか?」


 森の奥を指差し、ミーナが言った。


「明るい?」


 どちらかといえば、ミーナが示した辺りは緑の木々がうっそうと茂り、影が濃い。
 芳しくないクライスの反応に、ミーナは強くうなずいてみせた。


「でしたら、きっと精霊さんの放つ光だと思います。ちょっと私、見てきますね」
「あっ、おい! むやみに離れるんじゃない」


 足取り軽く駆け出した少女を、慌てて追いかける。
 そのさなか、辺りを包む空気がふっと変わった気がした。
 濃密な緑の匂いと、葉擦れの音に混ざり、重なり合い降り注ぐいくつもの《歌》。


「……精霊の森、か」


 〝La hant liu wis Elissnisie〟――時を超える森、エリスニーシェ。
 どこからか再び、その《歌》が聴こえた気がした。

 

   

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