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第1章:湖上都市イルタヴィナ
2.水鏡の盟約 -side Undine-

 

 目醒めよ、と水底を貫く光が告げた。

 永く冷たい眠りの淵から引き上げられた私の目に飛び込んできたのは、水底に打ち捨てられたイルタヴィナの街。
 湖上都市の管理者にして都市そのものであった私は、都市とともに沈められたのだと、そのとき初めて知った。
 私の意識が閉ざされてから、膨大な時が流れたのだと朧気に理解する。精霊たちの姿も、いまや随分と少ない。
 都市は捨てられたのだ。私がこの身を捧げ、久遠の繁栄あれと願った街は――〝彼〟の夢みた理想郷は――その始原すら忘れた人の子らによって、こんなにもあっけなく、勝手に。
 水面が大きく波打ち、大地が鳴動する。
 虚ろなる都は、かくして湖上に蘇った。

「クライスさん、見てください! 灯りがつきましたよ」
「この水流を利用しているんだ。すごいな、二千年以上前にこんな技術があって、なおも変わらず動くとは」

 喜色のにじんだ声が、浮上した街の片隅に響く。
 いたずらな好奇心で街を踏み荒らさんとする人間たち。
 都市の最深部へとたどり着いた彼らと対峙するにつけ、私の怒りは頂点に達した。


『待って、――』
『あの人間を呼んだのはボクたちなんだ』
『――、キミを助けたいんだ!』


 そんな水の子らの声が耳に届けども、時すでに遅く。
 私の怒りが具現化した水の奔流は、小さな人の子らをあっけなく押し流した。

 


 遠い昔――この湖がまだ、森に囲まれた小さな泉であったころ。
 その泉のほとりで〝彼〟に出会った。
 透き通る水に半身を浸した私を、水浴びをする少女と見間違えたらしい〝彼〟はひどく慌てふためき、踵を返すはずみに足をもつれさせて転んだのだった。


『〝Else lei U do(大丈夫?)〟』


 私が声をかけて――それが慣れ親しんだ言語とかけ離れた《歌》であるのを耳にして初めて、私が人ならぬ者であると気づいたらしかった。
 それほどまでに〝彼〟は、私たちの姿をはっきりと捉える目を持っていたのだろう。

 ひとところに留まらぬ民に生まれ、今もまたあてのない旅の途中であるのだと〝彼〟は語った。水場を探して、ここにたどり着いたのだと。
 泉のほとりには、その流浪の民たちの天幕が築かれた。
 私の姿が見える者もいれば、声だけが聴こえる者、さまざまあったけれど、〝彼〟ほどはっきりと私を捉える者はいなかった。
 彼らとぎこちない交流を重ねる日々は、この小さな泉で凪のような静寂しか知らなかった私に、驚きと喜びをもたらした。

『生まれたときから流離う暮らししか知らない。飢えも渇きも知らず、寒さも知らず、ひとつところに根を下ろす暮らしができたら、なんて叶わない夢さ』
『わたしと正反対だ。わたしは、この泉を離れることができないから』


 そう返すと、〝彼〟はひどく悲しそうな目をして私を見た。
 その理由は、すぐにわかった。
 明日ここを発つのだと。〝彼〟は静かに告げた。
 目の前が真っ暗になった。


『いかないで』


 決して触れることは叶わない手を、それでも懸命に彼へと伸ばして、私は訴えた。


『ずっと、ずっとここに暮らせばいい。飢えも渇きも寒さも知らない、あなたの帰る場所を、わたしがここに創ってあげるから』


 流れゆく水が、収まるべき器を求めるように。
 私の持てるすべてを〝彼〟に捧げたいと、そのとき、強く願ったのだ。


『わたしは水を統べるもの。あなたにわたしの《歌》を預けましょう。わたしの名は――』


 精霊とは、世界の理を司る存在。
 私は水を統べるもの。水にかかわることで、叶えられないことはなかった。
 私の願いに応え、泉を中心として一つの島が隆起し、それを囲むように水が流れ込み、広大な湖となった。
 それが湖上都市の始まり。
 清浄なる水が絶えることなく巡り、豊かな実りをもたらす都。
〝彼〟と〝彼〟が愛する人々の幸いが、そこに在ること。
〝彼〟の夢みた水の都が、その営みがとこしえに続いていくこと。
 小さな泉が姿を変えた、都の礎たる水鏡。たとえそれ以外の世界を失うとしても。
 私にとって、それ以上の喜びはなかったのだ。

 

 夜の帳に包まれ、水鏡に月の船が浮かぶころ。
 小さな水の子らにいざなわれ、あの人間たちは再び私のもとへ現れた。


「あなたが眠りに就いたあとのことを、精霊たちに聞かせてもらった」


 ひどく濡れそぼった姿で、それでもその瞳に強い光を宿して、男は語った。
 かつてイルタヴィナの街を戦火が襲ったのだと。


『では、この街はかの侵略者たちに沈められたと?』
「いや、違う。イルタヴィナの住人たちが、自ら都市を水底に沈めることを選んだんだ」
『なぜそのようなことを、私に断りもなく』
「それは――街に攻め込んだ者たちの目的が、他でもない、あなたの力だったからだろう。都市の住人たちは、守りたかったんだ。あなたと、あなたの愛したこの都市を」


 私が愛した人の子らは、他ならぬこの私を護って果てたというのか。都市は、打ち捨てられたのでは決してなく――。
 虚しさと口惜しさ、さまざまな感情が去来する。
 この街を、人々を護り慈しむために在るはずの私が、命を賭して彼らに救われた。
 もしも抗うことを選んだなら、街は少なからず破壊され、あるいは私自身も侵略者の手に落ちたのかもしれない。
 美しいまま、穏やかに水底に眠る街。それが彼らの選んだ――私へ遺してくれた希望だというなら。


『人の子らよ。先の無礼を赦してもらえるなら、どうか一つ頼みを聞いてくれるだろうか。――この街を永遠に水底へ沈めるための《歌》がある。水の子らとともに、それを紡いでほしい。われら精霊と、形ある人の子ら、共に紡ぐことで、都市と私の盟約は終わる』


 男はいくらかの時間をかけて、私の伝えた言葉をじっくりと読み解き、やがて顔を上げた。


「イルタヴィナの街は沈み……あなたはどうなる?」
『泡沫となって消えていくだろう』


 淡々と告げた言葉に、男が小さく息をのむ気配がした。
 ひとたび精霊の身を捨てたなら、そこにはもう二度とかえれない。この都の礎となると決めたときから、もとより覚悟していた定めだ。
 それでも、目の前の人の子には受け入れがたいのだろうか。二の句が継げずにいる男に、私はなおも訴えた。


『頼む。……私も、皆のもとへ逝きたいのだ』


 やがて男は、根負けしたように重くうなずいた。


『じゃあ《歌》はボクたちが教えるから、ちゃんと覚えてね』
『ねえ、その前にこの人間たちを外に出さないと、街と一緒に沈んじゃうんじゃない?』
「……沈む……街と一緒に……? ちょっと待て、それは勘弁してくれ」
『仕方ないなぁ、先に外まで案内するよ』
「頼むよ。――と、そうだ」


 水の子らと言葉を交わしていた男が、ふいに私を真っすぐに見つめた。

「ウンディーネ」

 男の声が、私という存在に刻まれた一つの響きをなぞる。


「精霊たちが教えてくれた、これがあなたの名前で合っているだろうか」


 凪いだ水面に波紋が広がるような衝撃に、私は声も出せぬままうなずいた。
 形ある人の子が私の名を口にするのは、ひどく久しぶりのことだった。


「ウンディーネさん」


 傍らの少女も同じように呼びかけ、ふわりと微笑む。


「ふふ、やはり精霊さんは素敵なお名前をお持ちなんですね」


 空を泳ぐ水の子らが、いつしか私のもとへ集まってきた。


『じゃあね、ウンディーネ』
『ええ。――お前たちも、本当にありがとう』


 水の子らにいざなわれ、水鏡を後にする人の子ら。その背中を見届けると、私はそっと目を閉じた。

『ウンディーネ』


 ためらいがちに初めて名を呼んだ〝彼〟の声を。水際から優しく差し伸べられた、決して触れられはしない、けれど確かな温もりを持ったその手を。
〝彼〟亡きあとも、私とともにこの街に在り続けてくれた人々を。彼らがその命を賭して護った、美しい水の都の姿を。
 そして、最後に心を通わせたあの人の子らを。
 この温かな記憶を抱いて、水底へと還ろう。


 薄明の空の下、水面はいまだ夜の色を残していた。
 人と水の子の重なり合う《歌》が、岸辺に響きわたる。
 イルタヴィナの街を巡る水と私をつないでいた無数の糸が、一つ、また一つとほどけていく。
 遠く山の稜線から顔を出した朝日に照らされ、街は鳴動し、ゆっくりと沈み始めた。
 水鏡の器を解き放たれた私は、ひととき水面に降り立った。
 沈みゆく都を見下ろして、その周縁をひと回りするように宙を泳ぐ。
 湖を見下ろす小高い丘には、どこか名残惜しそうにたたずむ、あの男と少女の姿があった。 

「あ……」
「どうした、ミーナ君」
「今、そこに小さな女の子のような精霊さんがいらして……ウンディーネさん?」
「小さな女の子……ではなかっただろう、彼女は」
「それはそうなんですけど、でも、とてもよく似ていらっしゃるので」


 どうやらあの少女は随分良い目を持っているらしい。都市の水鏡に作り上げたものとは違う、私の持って生まれた姿を正しく捉えたようだ。


「あっ、手を振ってくださっています」


 少女が笑みを浮かべ、こちらに手を振り返した。
 その傍らで、男はなおも不思議そうに首を傾げている。
 人と精霊の世が隔絶して久しい現在にあっては、器を離れた私の姿は、やはり人の目には映らないようだ。
 ならば――。

『〝miu shafe(ありがとう)〟』

 泡沫へと溶けていく瞬間に、私が響かせた最期の《歌》。
 小さく目をみはった男に、果たして正しく伝わったのかは定かではないけれど。
 精霊(わたしたち)の《歌》を読み解かんとする者よ。今は判らずとも、きっとお前の中で意味を結ぶ日がくるだろう。

 

   

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