青く澄み渡る湖のほとりで、幼い少年がげほげほと大きく咳き込んでいる。なにしろ今の今まで溺れかけていたので、全身ずぶ濡れだ。
わたしの力で水流を操って、なんとかうまく岸まで運べてよかった。
どうも、水底に眠るイルタヴィナの街を覗き込もうとして落っこちたらしい。いくら風ももなく湖面の凪いだ日とはいえ、さすがに水底までは見えないと思うのだけど……。
「し、死ぬかと思った……」
ようやく呼吸の落ち着いた少年は、きょろきょろと辺りを見渡し――やがて、水面にふわりと浮かぶわたしに気がついた。
「ねえ、君が助けてくれたんでしょう?」
頷くと、少年はにぱっと歯を見せて笑う。
「ありがとう! えっと――〝Miu shafe〟」
わたしはひどく驚いた。それは――紛れもない、わたしたちの《歌》だったから。
温かく、そしてどこか懐かしくもある喜びが、心を満たしていく。
「いたぞ、あの子じゃないか?」
「おーい、大丈夫かー?」
少年を捜索していたらしい大人たちが、こちらへ駆け寄ってくるのが見える。あとは彼らに任せることにしよう。
『〝Yoll lis lotei(じゃあ、またね)〟』
少年に小さく手を振ると、くるりと湖水に飛び込んだ。
* * *
うっそうと茂る木々の間を、きょろきょろと辺りを見渡しながら歩いていた少女は、幹の陰からひょっこりと顔を出した私に気づくと、琥珀色の大きな瞳をぱっと輝かせた。
「こんにちは、小さな精霊さん。〝Shafe lis lotei(また会えてうれしいな)〟」
そう言って快活な笑顔を見せかと思えば、今度はどういうわけか不思議そうに首をかしげている。
「あれ? どうして〝また〟って言ったんだろうな、あたし。なんだか、前にも君に会ったことがあるような気がするんだよね」
傍らに佇む若木の、まだ頼りない細い幹へ、少女の手が慈しむようにそっと触れる。
良い眼を持った子だ。きっと、無意識ながらもそれが〝私〟なのだと気づているのだろう。
「小さい頃、あたしのひいおばあちゃんが言ってたの。昔々、この森にはすーっごく大きな木が立っていて、とっても物知りな精霊さんがいたんだって。……ああ、そっか。君、ひいおばあちゃんの絵に出てきた精霊さんに似てるんだ」
いのちは巡り、めぐり会う――。
かつての〝私〟が願ったように、共にある世界を、人の子らが護り、残してくれたから。
* * *
「本当にいい? 途中で後戻りはできないし、君は、その……消えてしまうことに、なるんだけど」
『よくなかったら頼んでないわよ、うるさいわね!』
そんな応酬に既視感を覚えるのは、目の前の青年に〝あいつ〟の面影が色濃いからだろうか。心さえ見通すかのように、真っすぐに私を見上げる青灰色の瞳。
「わかった。じゃあ、始めるよ」
古びた本の頁を繰りながら、青年は《歌》を紡ぎ始めた。
永くこのシェラハの町と私を繋いできた《歌》の盟約が、今、終わりを迎える。
なんだかんだと居座ってきたけれど、実をいうと結構前から私の力なんて役に立っていない。風を統べる力が弱まってきたのもあるし、何より人間側の技術の進歩というべきか。街の造りもずいぶんと丈夫になって、ちょっとやそっとの嵐じゃびくともしない。
それでも、シェラハの町の住民たちが私を忘れることはなかった。むしろ以前より〝視える〟者が増えたせいで、私の周りは何かと騒がしい。子どもたちには毎日のように追い回されるし、最近じゃ私の名前がついたお祭りなんかもできちゃったりして――。
ああもう、あんたたち、そんなに泣かないでよ。こうなるのがわかってたから、なかなか踏ん切りがつかなかったんだ。
――《歌》が重なり、響く。
シルフ(あの子)を見送った、遠い日のように。
私は、あの子みたいな強く優しい風になれただろうか。
* * *
「歴史に証す」と、あの男は言った。
かつてこの地にあった王国のこと、人の歴史に忘れ去られた〝あの子〟のこと、人と精霊の辿った、過ちと絆の物語を。
それから、どれくらいの時が流れただろう。
かつて地底都市であった頃は作り物の空が広がっていた天井には、分厚い擦り硝子でできた屋根が施され、和らいだ日の光が優しく差し込んでいる。都市は本来の機能を失ったまま、けれど丁寧に補修が重ねられ、今も変わらず美しい姿を保っていた。
そんな〝遺跡〟となったこのイグゼニシアの街へ、雪の消えるごく短い夏には、老若男女問わず多くの人がやってくる。
人間は嫌いじゃない……けど、面と向かって話しかけられると、どうして良いかわからず困ってしまう。
道案内はおしゃべり好きの精霊たちに任せて、物陰からそっと見守っているくらいが、わたしにはちょうどいいのだけれど――。
「……ふぇ……まま、ぱぱ、どこ……?」
心細げな嗚咽に振り返ると、幼い少女がべそをかいていた。どうやら両親とはぐれたらしい。
「せーれーしゃん」
……目が、合ってしまった。
「るるちゃんのまま、どこ?」
そんなこと、わたしが知るわけがない。
首を横に振ると、少女は途端に火のついたように泣き出した。
周囲の人間たちが、何が起きたのかと一斉にこちらを振り返る。ああもう、そんなに見ないでほしい……。
とにかく泣きやんでほしくて、わたしは〝あの方法〟を使うことにした。都市に散りばめられた小さな鉱石たちに働きかけ、星のようにキラキラと瞬かせる。
――まだ地底都市がただの坑道だったころ、幼い〝あの子〟がとびっきり好きだった風景だ。
「わぁ……!」
目を奪われた少女がぴたりと泣きやむ。そこまでは目論見どおりだったけれど……辺りの観衆からも、割れんばかりの拍手が起こってしまった。
騒ぎに気付いた少女の両親らしき人たちが駆け寄ってくるのを見届けると、わたしは逃げるように姿をくらませた。
人間は嫌いじゃない、というか結構好き……だけど、〝おはなし〟するのはとっても勇気がいるの……!
* * *
久しぶりに火の山の頂に姿を見せたあいつは、何やら怪しげな小さな硝子板をオレの方にかざし、目を細めて覗き込んでは、難しい顔で首を捻っていた。
『なあ、何が見えるんだ? それ』
「君たちを構成するエネルギーを可視光に変換して映し出す装置、の試作品らしい。……が、かすかにぼんやりと赤い光が映るだけだな。〝居る〟と示せるだけでも大きな一歩ではあるけれど」
硝子板を布で包みながら、ぽつりとこぼす。
「僕が生きている間には、この目で君の姿を視ることは叶いそうにないな」
『――なんだよ、急に弱気になって』
「弱気にもなるさ。何せここまで登ってくるのだって、今や一日がかりだ」
そう言って苦笑する口元には深い皺が刻まれ、髪はもうほとんど白い。人間の時の流れはあまりに速い。オレにとってはあの再会が――いや、小さかったこいつを火の海から送り出したあの夜さえ、ついこの間のように思えるのに。
「この先、人と精霊の世界は確実に近づいていく。それが君たちにとって本当に望ましい未来なのか――僕がやってきたことは本当にこれで良かったのか、正直、今でもわからないんだ」
緩慢な仕草で腰を下ろしながら、そんなことを言う。
なんだよ、本格的に弱音を吐きやがって。
『まあ、オレは結構楽しかったぜ』
そう言って隣に並ぶと、あいつは何かしら気配を感じ取ったのか、ちらりと目線をよこした。
「それは……僕も同じだな」
『じゃあ、それでいいんじゃねーの? 先のことなんざ、その時そいつらが決めることだ。人間も、時の流れは違えどオレたちもよ。お前が悩んだって仕方ないだろ』
「それもそうだな」
どこかふっきれたように笑って、あいつは言った。
「君に……君たちに会えてよかった。それだけは、揺るぎない確信を持って言える」
* * *
こくり、と首がかしぐ感覚でミーナは目を覚ました。
「おはよう、ミーナ君」
すぐ傍で、ミーナが何よりも好きな低く穏やかな声がする。
「あれ……私、眠ってました?」
「少しだけ、な」
ミーナは、クライスの肩にもたせかけていた頭をゆっくりと起こした。
木陰のベンチに並んで座り、ひとときの休息を共にする昼下がり。寝起きのぼんやりとした意識も相まって、まるで大学のころに戻ったような錯覚を覚えるけれど、ここは共に暮らすようになってもう何年も経つ自宅の庭だ。この大きな木の下にベンチを置こうと言い出したのは、そういえばどちらからだったか――。
手の中のカップに残っていた紅茶を口に含むと、まだほんのりと温かかった。クライスの言うように、本当に一瞬のうたた寝だったらしい。
「なんだか不思議です。とても長い夢を見ていた気がするんですけど……」
「どんな夢だったんだ?」
「えっと……」
とても温かく、幸福な夢だった。それをクライスにも教えてあげたいと思うのに、言葉にしようとすると、とたんにその温度が遠ざかるような気がした。
「うーん、やっぱり内緒です」
「なんだそれ」
「いつか正夢(ほんとう)になってほしいなって思う夢だったので」
夢の中で垣間見たあの幸せな風景たちが、この先の未来に待っていてほしい。
だからミーナは、これからも人と精霊の絆をつなぐべく奔走するこの男の物語を、誰よりも近くで描き留めていくのだ。
* * *
「精霊学者クライス・ルイン奇譚」
彼らの辿った物語はそのように名付けられ、今もなお語り継がれている。