第2章:霧の樹海エリスニーシェ
1.迷いの森と彼女の世界(後)
「なんだかここ、森というよりお花畑みたいです。色とりどりのお花が咲いていて……それに、ちょうちょみたいな子もいます」
一歩先を歩くミーナが、声を弾ませる。
精霊の放つ光を辿っているというミーナの足取りには、全く迷いがない。
まばらに光の差す森には、時折小さな花がつつましく揺れているが、花畑というには程遠く、どれだけ目を凝らせど、舞い飛ぶ蝶は一羽も見当たらない。
ミーナが見ている世界と、自身の目の前に広がる森。そのあまりの乖離に、軽く目眩を覚えそうになる。
先ほど彼女が、花の姿をした精霊を本物の花と見間違えたことを思い出す。
ミーナの描いた絵を見る限り、かつてイルタヴィナで出会ったのは、空を泳ぐ魚やクラゲといったおよそ現実離れしたものばかりだった。それならばまだ見分けもつこうが、森に花や虫の姿があっても何ら違和感はないだろう。
「ミーナ君」
「はい、何です?」
何となく様子が気になり呼び止めてはみたものの、振り向いたミーナの表情は明るく、疲労の色もない。
「いや、なんでもない。随分楽しそうだな」
「われながら結構お役に立ててるなぁと思いまして」
「まぁ、それは否定しない」
集音器が伝える《歌》を緻密に辿れば、クライスも同じように彼らの示す道を見いだすことはできるのかもしれない。けれど目に見えるならそちらの方が確実だし、何より早い。
そういえば、森へ入ってどのくらい経っただろう、と何気なく懐中時計を取り出し――クライスは思わず目をみはった。
「どうかしました?」
「時計が止まっている」
クライスは秒針の動かない時計をミーナに示した。
「つい最近電池を替えたばかりのはずなんだが……壊れたか。ミーナ君は持ってるか?」
「いえ。兄のものを拝借するはずが、今日に限って持ち出されてまして」
「まいったな」
懐中時計に視線を落とせば、止まったままの針が指す時刻は正午手前。木々の向こうに仰ぎ見る太陽も、ほぼ正中といっていいだろう。
「日の高さを見る限りは、時計が止まってからさほど時間は流れていないようだが……これは早めに引き返した方がよさそうだな」
何気なく振り返った先は、けれど妙に霞がかっていて見通しがきかなかった。
「霧……?」
来た道を隠すかのように立ち込める霧。それはどこか、この森の意思のようなものを感じさせた。ここで引き返すことは許さない、といわんばかりの。
「あの、クライスさん」
どこか緊張をはらんだ声音で、ミーナが呼んだ。
「精霊さんの道、まだ向こうに続いているんです。もう少し、先に進んでみませんか?」
「進む……か」
ここが通常の森なら、やみくもに先に進まず、霧が晴れるのを待って引き返すべきなのだろう。
けれど、ここは《歌》の鳴り響く精霊の森。
「わかった。今は君の目が一番の道標だ。それを信じよう」
「――っ、はい!」
答えた声は、どうしてか嬉しそうに弾んでいた。
背後から迫りくる霧は、ほどなくして周囲を覆い尽くした。
それでも、精霊の軌跡を辿るミーナの足取りには、やはり迷いがない。
精霊たちの《歌》はたえず重なり響き、葉擦れの音も鳥の声もかき消していく。ミーナの背を追いながら、クライスはそれらを聴き分けようと努めた。
そうして歩みを進めると、やがて、霧の中にぼんやり建物らしき影が浮かび上がってきた。
「クライスさん、見えますか? あれ……」
振り返り指差すミーナに、クライスはうなずく。
「あれがかつて樹海の中にあったという集落かもしれないな」
近づいてみれば、立ち並ぶのは木で造られた素朴な造りの家々だ。
けれどそれらは、いにしえの集落跡、と考えるには明らかな違和感があった。
「これ、結構新しい建物じゃないですか? 今も暮らしている方がいらっしゃるかもしれませんよ」
家々は手入れが行き届き、今にも戸口の奥から住民が顔を出してもおかしくはないたたずまいだ。
打ち捨てられて久しい村なら、木材は朽ち、植物に覆われているはずなのに。
「とはいえ、こんな場所に人の暮らす村があるなんて話は聞かないだろう」
いつしか霧が薄れ、集落の全容がはっきりと見渡せるようになると、その奇妙さはより一層際立った。
「この建築様式、竈の組み方、木をくりぬいたような器に、素焼きの土器。すべて紀元前後の文化じゃないか。なぜこんなにきれいなまま残っているんだ?」
例えるならそれは、博物館のレプリカの中に迷い込んだような感覚だろうか。
「忘れ去られた森の秘境にひっそりとたたずむ、いにしえの暮らしを守り続ける村……なんだかロマンチックじゃないですか」
ミーナは暢気にそんな感想を口にする。
確かに、その可能性を否定しきれるわけではないが、クライスはどうしても強烈な違和感をぬぐえずにいた。
そして――木立の片隅に見つけたものに、それは決定的なものとなった。
「――この花」
「クライスさん、どうしたんです?」
膝を折り、色を失くした顔でつぶやくクライスに、ミーナが不思議そうに問いかけてくる。
「これは、今は種が絶えて存在しないはずの花なんだ。だからこそ、僕たち考古学者がおおよその年代を探るための手がかりにしているもので……」
はっとして、霧の晴れた空を仰いだ。
木々の向こうに見える日の高さは、なおも正中に近い。
時計が止まったことに気づいて確認したときから、少しも変わっていないのだ。あれから随分歩いてきたはずなのに。
――時を超える森、エリスニーシェ。
浮かび上がるのは、およそあり得ないはずの一つの可能性。
「本当に、時間が止まっている……?」
「あっ、クライスさん! 見てください!」
明るい声に、のろのろと顔を上げた。
「ちゃんといらっしゃいましたよ、住人の方。お話聞いてみましょうか」
ミーナは無邪気に微笑んだ。ぽっかりと開けた、誰もいない空間を指差して。
そのときの自分が向けた顔は、きっとひどく青ざめていたのだろう。言葉を返さずとも、ミーナの表情からさっと笑みが消え失せるくらいには。
「もしかして……私にしか見えていない、のですか?」
見ている世界がはっきりと食い違う、足元のぐらつくような感覚。精霊の森に足を踏み入れる際にクライスが感じたそれが今、初めてミーナを襲ったのだとわかった。
「大丈夫か、ミーナ君」
「……すみません、精霊さんの姿が人のように見えたのは初めてで、少し動揺してしまって。誰もいないんですよね、誰も……」
自身に言い聞かせるようにつぶやくと、ミーナはふらりと歩き出した。
どこを目指すというのでもない危うい足取りに、クライスも慌てて後を追いかける。
まずいな、と思う。人と見紛う、人でないもの。それが与える衝撃の深刻さはどれほどか、想像に難くない。彼女を取り巻く世界が、より不確かに揺らいだはずだ。
ミーナはひどく心細げに辺りを見渡しては、ふいに家の戸口に何かを見たのか、びくりと肩をすくませ、逃げるようにまた歩みを進め……やがて、憔悴したように足を止めて立ち尽くした。
「……ミーナ君?」
呼びかけた声は、届く様子がない。
森の中にかすかに鳴り響いていた精霊たちの《歌》は、いつしか轟音ともいうべきざわめきに変わっていた。
同じだけの密度の〝光〟が、彼女の視界を覆い尽くしているのだとしたら――。
わかっているつもりでいた。ミーナの視る世界に最も肉薄できるのが、《歌》を聴ける自分だと思っていたから。
それでも、改めて気づかされる。
彼女にとってこの森は、息が詰まるほどに逃げ場がない。
「ミーナ君、大丈夫か?」
クライスはミーナの顔をのぞき込むように回り込んだ。
見開かれた琥珀色の瞳は焦点を結ばず、ひどく浅い呼吸を繰り返している。
不可視の存在が、ともすれば彼女を異界に引きずりこんでしまう、そんな錯覚すら覚えた。
――どうすればいい?
どうすれば彼女を〝こちら側〟に呼び戻せる?
「ミーナ君!」
震える肩に、手を伸ばし引き寄せた。
その目に映るものが、実体を持たぬ異界の存在が、彼女を苦しめているというなら。
鳴り止まぬ《歌》が、この声をかき消すというなら。
「――目を閉じて」
恐慌に見開かれた視界を塞ぐように、そっと抱き寄せる。
触れた肩先が、かすかに震えたのがわかった。
「今は何も見なくていい。耳を塞いで、何も聞かなくていい」
「……クライス、さん?」
背中に回した手に、うなずくようにそっと力を込めた。
「僕はここにいる。君の手が届く、触れられるものは絶対に〝そこにある〟。もう大丈夫だ」
腕の中で、ミーナが小さく、けれど確かな首肯を返す。
「深呼吸、できるか? 息を深く吸って、吐いて。吸って、吐いて……」
重なり響く《歌》は、なおも止まない。
それはまるで、何かを訴えかけるように――。
クライスは顔を上げ、宙を見据えた。
「精霊たちよ。招かれざる客だというなら立ち去ろう。僕たちを試しているというなら、応えてみせよう。――だけど今は、少しだけ、離れていてくれないか」
身勝手な言い分なのはわかっていた。足を踏み入れたのはこちらなのだから。
それでも、思いが通じたかのように《歌》は少しずつ遠ざかっていく。
少女の呼吸が穏やかなものに変わり――それが聞き取れるほどの静寂が訪れるまで、クライスはそっと寄り添っていた。
「時が止まっている、ですか?」
いくらか顔色のよくなったミーナが、クライスが語り聞かせた持論を不思議そうに聞き返した。
この集落跡にとどまっていても状況は何も変わらず、引き返すにしてもここが精霊の棲む迷いの森であることに変わりはない。ゆえに立ち並ぶ家々の間を抜け、さらに奥へと進むことを選んだのだ。
「自分で言ってて本当に荒唐無稽だとは思うけど、そう考えると色々と説明がつく。止まった時計と、真新しいまま残されたいにしえの村。それに、この木々も」
クライスは頭上の枝葉を仰ぎ、言葉を続けた。
「森に足を踏み入れたときは、紅葉が始まっていただろう? だけどここの木々は、まるで春の新緑みたいだ」
ミーナが、あっという声を上げた。
「私は精霊さんの方に気を取られてしまって、全然気がつかなかったです」
「森の精霊たちに何らか、限られた空間の時の流れを歪める力があるのだろう。幸か不幸か僕たちがこちら側に入れたのは、君に精霊たちの姿が視えるからだ。ほとんどの人間が、正しい道を辿れず戻される」
ミーナが、何かに気づいたように目をみはった。
「もしかしてそれが、皆さんのおっしゃる迷いの森の正体なのでしょうか?」
「恐らくそういうことだろう」
集落跡を離れると、急に深い霧が立ち込めてくる。やはりこの霧は純然たる自然現象ではなく、何らか精霊の力によるものなのだろう。
「でも、精霊さんはもう行き先を示してはくださらないみたいです。ここへ来るまでは、本当に一つの道を形作るように光が続いていたんですけど……」
ミーナはしょんぼりと肩を落とした。
ひととき遠ざかっていた精霊たちの《歌》は、今は交わす言葉が時折かき消されるほどにごく近くで、そしてかなりの密度で重なり響いている。
だからクライスは、確信を込めてはっきりと告げた。
「大丈夫だ。手がかりは無くはない」
ミーナに届くように。そして、自身にも言い聞かせるように。
「君が指し示す方向へ足を踏み入れたとき、必ず聴こえるかすかな《歌》があった」
耳を澄ませ、その《歌》をなぞる。
「〝Li shas k’li shas〟――ここへ来たれ、という意味になる。全く同じ《歌》を、イルタヴィナでも耳にした」
重なり響く精霊たちの《歌》のほとんどは、クライスの中で意味を結ぶものも、そうでないものも含めて、短い単語の繰り返しがほとんどだった。
ただ一つ、その《歌》だけが異質だった。
来たれ、と。その声の主が、自分たちに呼びかけているのだとしたら――。
「その《歌》を発する精霊を特定できれば、正しい道へ案内してもらえるかもしれない」
伝えた内容をじっくり咀嚼するようにしばらく押し黙っていたミーナが、ほぅと一つ息を吐き出した。
「クライスさんには、私に見えないものが色々見えていらっしゃるんですね」
「そのまま君に返したくなるような台詞だな」
「ふふ、言われてみれば」
ミーナは口元を押さえ、可笑しそうに笑った。
やがて、琥珀色の瞳にふっと強い光が宿る。
「では、ここからは私のお仕事ですね」
そう言って《歌》の重なり響く森に対峙する少女の華奢な背を、クライスはどこかやるせない思いで見つめた。
「すまない。結局、君に頼ってしまうことになるな」
究極的には彼女と同じ場所に立ってやることはできない。そこに無力さを感じずにはいられない。
「何をおっしゃいますか。これはれっきとした共同作業です」
けれどミーナは、振り返るとどこか楽しそうに微笑んだ。
「私、嬉しかったんですよ。あのとき、クライスさんに信頼していただけたことが」
「と、いうと?」
心当たりがなく、クライスは聞き返した。
「時計が止まっていることに気づいたときです。あのときクライスさんは、精霊さんの道を辿って先へ進もう、と言った私の意見を尊重してくださったじゃないですか」
「……そんなことが?」
「そんなことでも、私にとっては本当に嬉しかったんです」
ミーナはやわらかに目を細めた。
――先生は本当に、私の話を信じてくださっているのでしょうか?
イルタヴィナの湖のほとりで、ひどく心細げに問いかけられたことを思い出す。
ああ、そうか。
信じてもらえるということは、彼女にとって自身の世界を肯定されることに等しいのだと、そのときふと思い至った。それもまた、彼女の助けになることなのだろうか。
「頼りにしている。が、くれぐれも無理はしないでくれよ」
「はぁい」
日に透かした琥珀の色をした瞳が、じっと霧の中を見据える。
やがて、その手が宙の一点をはっきりと指差した。
「見つけました! あの、翠の――」
見いだした〝道標〟を辿り、立ち込める深い霧を抜けた先には――。
空をも覆い尽くすような、雄大な大樹がそびえ立っていた。