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第3章:風の都シェラハ
3.共にあるように

 

 雲海の町シェラハの住人と精霊たちが、声を合わせ紡いだ一つの《歌》に送られて、永らく町の礎としてその片翼を捧げた精霊の少年は旅立った。昨晩の嵐が嘘のように、晴れ渡る空へと。

 山間の過酷な土地に築かれた町は、精霊の加護を失えば、無秩序な風になぶられ、遠からず人の暮らせぬ土地になる。

 盟約の終了は、この町の終焉を意味するはずだった。

 

『お前に頼みがあるの。――この町の礎として、私の名を刻みなさい』

 

 有無を言わせぬ口調、それでいてかすかに震える声で、シルフィードは告げた。

 

「それは、君がシルフの代わりになる、ということか」

『私たちの《歌》は、この世界に刻まれる盟約。形ある人の子が正しく紡いだなら、私たちは決してそれを違えない。かの女王はそうやってあの子の力を引き出し、今の町があるの』

「……僕に、かの《鐵の女王》と同じことを成せと」

『そう。お前なら、紡ぐべき《歌》が判るでしょう?』

「――」

 

 うなずくことは、すぐにはできなかった。

 何をすべきか、これまで触れてきた彼らの《歌》を紐解けば、朧気に思い描くことはできた。けれど、果たしてそれがうまくいったとして、もたらされる結果は――。

「君もシルフと同じ運命を辿ることになる。片翼を失い、町に縛られ、いつかその命は尽きるだろう。……本当にそれで」

『よくなかったら頼んでないわよ、うるさいわね!』

 こちらの思考を読んだように、シルフィードが言葉をさえぎった。

『ここは風の都――あの子が愛し、護った町。そしてこれからは、私がこの町の風になる』

 そう告げた彼女は、射抜くようなひどく真剣な眼差しをしていた――とは、後にミーナが語った。

 

 町中でかき集めた黄玉の欠片とともに再び塔の頂へと赴き、盟約は成された。

 クライスが紡いだ《歌》に応えるように、さわりと風が吹き抜けたあの感覚を、時を巻き戻すように、黄玉が全き形を結ぶあの光景を――きっと生涯忘れることはないだろう。

 

 

「……さん、クライスさん?」

 名を呼ばれ、クライスはふいに意識を引き戻された。

 後ろを歩いていたはずのミーナが、肩を並べてひょっこりとこちらをのぞき込んでいる。

 シェラハの町をあとにし、石混じりの山道を下っていくさなかだった。

「ああ……すまない、少し考え事をしていた。何か?」

「いえ、その……重くないかなぁって」

 クライスが右手に持った革張りのトランクを指して、少々申し訳なさそうにミーナは言う。

 足場の悪い山道が続き、さすがに息が上がっているのを見かねて、預かったのだった。

「正直、君はもう少し実地調査(フィールドワーク)向きの装備を覚えるべきだ、とはいつも思っている」

「画材とお茶セットがちょうどよく収まるんです。どちらもクライスさんの助手としては欠かせない装備じゃないですか」

 だから君を助手にした覚えはない、などと、いつもなら返していたのかもしれない。

 半ば思考の淵に引きずられていたからか、口をついて出たのは無言の嘆息だけだった。

 しばらくそのまま歩いていると、ミーナがふいに足を止めた。

「ミーナ君?」

「少し休憩しませんか? ほら、この岩の辺りなど座りやすそうですし、木陰になっていて気持ちいいですよ」

 そう言って半ば強引にクライスの手からトランクを奪い取ると、留め具を外し、その場に広げた。

「宿を出るとき、女将さんが冷たいミントティーを詰めてくださったんですよ。こちらのクッキーもお手製だそうです」

 すっかり見慣れた空色のギンガムチェックのレジャーシートを四つ折りに広げ、トランクから出した保温瓶やマグカップを次々と並べていく。

 その唐突さに呆気にとられていると、ミーナがこちらを見上げて微笑んだ。

「助手のお仕事その一、煮詰まったときは美味しいお茶とお菓子を召し上がれ、なのです。――もし差し支えなければ、考え事の中身をお聞かせいただいても?」

「……かなわないな、君には」

 この少女は、いつだっておっとりとした微笑みを絶やさないようでいて、こちらの気づかないところで人の小さな機微を捉えている。

 小さく嘆息して、クライスは彼女の作業を手伝い始めた。

 

 

 平たく削れた岩場に腰を下ろし、カップに口をつける。よく冷えたミントティーは渇いた喉にすっと染み渡り、清涼感のある香りが鼻腔に抜けていく。思った以上に身体に疲労がたまっていたのだと気づかされた。

 ちらりとミーナの様子をうかがうと、ちょうどクッキーを一つ口に運び、幸せそうにふにゃりと顔をほころばせたところだった。

「すまなかったな、ずっと歩き通しで」

 体力的に、彼女の方がずっときつかったはずだ。もっと気遣ってやるべきだった、といまさら反省する。

「あ、いえ。なんだか今回はずっと上ったり下りたりばかりでしたねぇ」

 ミーナはのんびりとした口調で答え、ほんの少し名残惜しそうに、今まで下ってきた山道を振り返った。

「シェラハの風車、もう全然見えなくなっちゃいましたね」

 塔のそびえ立つ山の頂を仰ぎ見ようにも、すでに雲海の向こう側だ。もはや残りの道のりの方が短いだろう。

「シェラハは、もとより精霊の力なしには住めない土地だったという」

 はるか遠く、霞がかった山の稜線を見つめ、クライスはぽつりと言った。

「冷たい風が吹き荒れ、作物は育たない。シルフの力が失われれば、遠からずそのような土地に戻っていただろう。――言うなれば、それが本来あるべき秩序だったのだろうな。あの地に人が根を下ろした、それがそもそもの過ちだったのかもしれない」

 両手で包んだカップのミントティーを時折口にしながら、じっと話に耳を傾けていたミーナが、ふと顔を上げた。

「クライスさんは、後悔していらっしゃるのですか? シルフィードさんのこと」

「どうだろうな」

 的確に核心を突くミーナに、クライスは肯定とも否定ともつかない相槌を返した。

「たとえもう一度あの瞬間に戻れたとして、彼女の頼みを断ることは僕にはできないだろう。――ただ、考えてしまうんだ」

 重く深い息を吐き出して、クライスは続けた。

「僕の《歌》が運命を変えたんだ。この土地の、人の、精霊たちの……何より、シルフィードの」

 言葉にすれば、その事実はいっそう重くのしかかった。

 《歌》を識ることの意味――あの夜、シルフィードが容易に口を割らなかった理由が、今ならわかる。

 それは、人の領分を超えることだ。

「《歌》には、それだけの力がある。すでにもうそこまで踏み込んでしまっているのだと気づかされた。もしも僕が、かの《鐵の女王》のように道を誤ることがあったら……と考えるとな」

 ただ純然たる興味から精霊たちの《歌》を読み解き、交流を重ね、気づけばここまできてしまった。この道はどこへ続いていくだろう。

 うつむいた視界に、ふいに、クッキーの盛られた木皿がずいと差し出された。

「……ミーナ君?」

「ほら、全然召し上がってないじゃないですか。だからそんなふうにぐるぐるしちゃうんですよ。とっても美味しいですから、おひとつどうぞ。よければいつもみたいに、クライスさん節でレポートしてくださいね」

 自身が無類の甘味好きであることは否定しないが、何をどうしたら今、そういう気分になれるというのか。

 けれどもミーナが一向に引き下がりそうにないので、クライスは仕方なく皿に並んだクッキーの一つを口に運ぶことにした。

「……全粒粉のざっくりとした食感と、素朴な甘み。このレモンのような香りは何かのハーブかな。甘いけど、後味の爽やかさが勝る。美味しい」

「はい、よくできました。ありがとうございます」

 ミーナは満足げににっこりと笑い、ようやく皿を引っ込めた。

「君は僕を何だと思ってるんだ」

「クライスさんはクライスさんですよ。だから、大丈夫です」

 思いがけず優しい声に、はっとする。

 顔を上げると、ミーナはやわらかに目を細めて微笑んだ。

「イルタヴィナで初めてご一緒したときから、クライスさんはずっと変わらないですよ。ずっと迷って、悩んで、何が精霊さんたちのためになるか、ちゃんと考えていらっしゃるじゃないですか。そういう方が、万に一つも間違えるはずがないです」

 ちょっと待っててくださいね、と言ってミーナは立ち上がり、トランクのもとへ向かった。

 取り出した愛用のスケッチブックをぱらぱらとめくりながら、こちらへ戻ってくる。

「昨日の夜、宿のお部屋で描いたんです。とてもきれいだなって、ずっと頭から離れなかったので」

 そう言ってミーナが開いたページに描かれていたのは、塔の頂、鳥籠を背に対峙するクライスと、透き通った黄緑色の髪を風になびかせる双翼の少女。

「……シルフィード?」

「はい」

 ミーナがうなずいた。

 勝ち気そうな印象を与えるペリドット色の瞳は、祈りにも似た真っすぐさで、《歌》を紡ぐクライスを見つめている。

 鳥籠の奥には、光を放ち形を成していく黄玉。よく見れば、シルフィードの背中の翼は片方が光を帯びて透けている。盟約が成されていく、まさにその瞬間が描かれていた。

「あのときのシルフィードさんの眼は真っすぐで、とてもきれいでした。心を決められたのだとわかりました。クライスさんは彼女の心からの願いを叶えたんですよ。それは、他の誰にもできることじゃないです」

 スケッチブックを閉じて、ミーナはにっこりと微笑んだ。

「私にしか見えていないこと、きっと色々あるんです。それを伝えるために私はここにいます。――だから、これからもお手伝いさせてくださいね?」

 優しい光をたたえた琥珀の双眸を、灯火のようだと思った。

 眩しいほどの強い光ではない、けれど薄暗い道を温かく照らす小さな灯火。いつだって彼女はそういう存在だった。

 精霊を視認する、その特異な力だけでは決してなく。気づけば傍にいて、不確かな道を歩む支えになってくれた。

 彼女の問いかけにうなずいてしまいたくなる気持ちを――それでも、クライスは打ち消すように強く拳を握った。

「僕が考えていたことは二つある。一つはシルフィードのこと、そしてもう一つは君のことだ、ミーナ君」

「……え?」

 空になったカップをシートに置くと、クライスはミーナに背を向けるように立ち上がった。

「君があの塔から落ちたとき、正直、最悪の事態も覚悟した。もう二度と君をあんな目に遭わせたくない」

 眼下の切り立った斜面を望めば、否応なしにあの光景が脳裏によみがえる。

伸ばした手をかすめもせず、小さな身体は目の前で暴風にさらわれていった。今思い出しても背筋が凍る思いがする。

「だから、ミーナ君」

「ま、待ってください、クライスさん」

 縋るような声がさえぎった。

「私たぶん、その続きを聞きたくないです」

 ミーナが立ち上がり、こちらの表情をうかがうように肩を並べた。

「あの、ほら、結果的には何事もなかったですし、私もそんなに怖い思いをしたわけではないんですよ。どちらかといえば、空を飛んでいるようでちょっと楽しかったくらいで」

「そういう問題じゃない!」

 荒げた語調に、小さな肩がぴくりと震えたのがわかった。

 そのさまに少しだけ頭が冷えた。苛立ちをぶつけるべきは彼女じゃない。

 くしゃりと自身の髪を掴み、クライスは深く息を吐いた。

「僕には何の力もない。精霊たちの姿は見えないし、集音器(これ)がなければ彼らの声だって聴こえない。君の助けを借りるばかりで、君を守ってやれない。彼らのことを知りたい、力になってやりたい、その過程で何があろうと、それは僕が選んだ道だ。だけど君は、そんな危険に巻き込まれるべきじゃないだろう。帰ってから伝えようと思っていたことだが、今言わせてくれ。……頼むから、もうついてくるな」

 いっそ彼女の方から見限ってくれたらいい。

 手を差し伸べられたら、どうしたって甘えてしまうから。

「嫌です」

「ミーナ君」

「絶対に嫌です。そんな理由で私が納得できるわけないじゃないですか。それならいっそ私のことが邪魔だって、足手まといだって、はっきり言ってくださいよ」

「――違う、そんなわけないだろう」

 助けられているのは、必要としているのはこちらの方だというのに。何より、自身がどれだけ彼女の存在に助けられてきたか。

「それなら私をちゃんと巻き込んでください。精霊さんのためにできる最善を選んで、そのために私を使ってください。それでいいじゃないですか。そんなふうに守られて、遠ざけられたら――私の気持ちは、どこへいけばいいんですか」

 最後の言葉は、ひどく声が震えていた。

「……ミーナ君?」

 こみ上げる感情をこらえるように目を伏せて。けれど再びのぞかせたその瞳には、驚くほど強い光が宿っていた。

「クライスさん。こちらの方があなたには届く気がしたので、言い方を変えますね。――どうか、私を独りにしないでください」

 傾きかけた日差しを背に、ミーナは泣き出しそうな顔で微笑んだ。

「いつかクライスさんがおっしゃったように、私はずっと独りでした。不思議なものに囲まれて、誰にも話せなくて、誰とも心からわかりあえなくて。それでも平気だって言い聞かせて、過ごしてきました。でも、あなたに出会ってしまったから。私にしか見えない不思議な光は精霊さんですし、聴こえる音は《歌》なんです。私にとって、それがどんなに救いだったか。――もう戻れないし、戻りたくもない」

 彼女にはひどく珍しい剥き出しの言葉が、深く胸に刺さる。

「責任、取ってくださいよ。お願いですから、傍にいさせてください」

 そう言って困ったように笑う少女が、どうしてかそのとき、ひどく大人びて見えた。

 眩しいな、と思う。

 真っすぐにこちらを見上げる琥珀色の瞳が、ひどく眩しくて――その視線をさえぎるように伸ばした手は、気づけばちょうど彼女の頭の上にすっぽりと収まっていた。

「――ふぇ?」

 掌の下で、どこか間の抜けた声が漏れる。

「君、その言い方はずるいだろう」

 細くやわらかな髪をそのままふわりと撫でると、ミーナはかすかに身をこわばらせた。

「ず、ずるいのはどっちですか……」

 消え入りそうな抗議の声に、全くもってそのとおりだと思う。

 だってこうしてしまえば、彼女からこちらの表情は見えないのだ。クライスがどれほど今、自身を突き動かした衝動に動揺しているのだとしても。

「……本当に、人の気も知らないで……」

 かすかに頬を染めたミーナから、聞こえるか聞こえないかくらいのぼやきが漏れるので。

 ――知っている、と。

 いっそ応えてしまいたくなる気持ちを抑えて、クライスはそっと手を離した。

 向けられる想いに気づいたのは、いつだったか。はっきりと思い出せないのは、ずっと気づかないふりをしてきたからだ。

 だってそれは――たった今気づいてしまった、自分の中の〝この気持ち〟とは、全く異なるものだから。

 言うなれば、雛の刷り込みだ。ミーナにとって初めての、同じ世界を知覚する相手、それがたまたま自分だったというだけのことに過ぎない。

 初めて抱いた何らかの感情を、彼女が恋情と錯覚しているだけのこと。

 だからクライスは、これからも気づかないふりを通すつもりだ。いつか彼女が、その気持ちが間違いだったと気づいたとき、ちゃんと引き返せるように――。

 とりとめなく巡る思考を一つ息を吐いて打ち切ると、クライスは改めてミーナに向き直った。

「時に、ミーナ君。君はオルザレス火山を知っているか?」

「……え?」

 ひどく唐突な問いに、ミーナが二、三度目を瞬かせた。

「確か……何十年か前にとても大きな噴火があったという火山でしたよね」

「およそ四半世紀前だな。君はまだ生まれていないか」

「……あの、クライスさん……?」

 琥珀色の瞳が、怪訝そうにクライスを見た。

 先の話の答えを未だはぐらかされている、という抗議の意があるのは明白だったが、クライスはひとまず言葉を続けた。

「〝燃え盛る赤き火の〟とトレントが語った――恐らくそこが、火の精霊の棲む地だろう。次に赴く場所は、そこになると思う」

 意図に気づいたらしいミーナが、大きく目をみはった。

「――それは、つまり」

「君さえよければ、一緒に来てほしい」

「だって……先ほどはついてくるな、って」

「言ったところでまるで聞かないじゃないか、君は。――ああ、違うな」

 クライスは首を振った。

 なし崩し的に彼女を巻き込むのではなく、望まれたから応えるのでもなく。それは紛れもない自分自身の気持ちだ。

そこから逃げるのは、もうやめにしよう。

「僕が、君に一緒に来てほしいんだ。ミーナ君、どうか力を貸してくれるだろうか」

「……私の答えは、ずっと前から決まっていますよ」

 ミーナは琥珀色の瞳をほのかに潤ませ、微笑んだ。

「はい、喜んで」

 

 ひゅう、と風が吹き抜けていく。はるか山の頂、風の都を護る精霊の少女を思わせる、真っすぐな澄んだ風が。

 物語は続く。すべての始まりの火の山へ、そして、終わりが眠る地の底へ――。

  

©2019 by 精霊学者クライス・ルイン奇譚。Wix.com で作成されました。

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