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第3章:風の都シェラハ
1.風の都、嵐の塔(前)


 塔の頂から同心円状に吹き抜けた突風は、少女の小さな身体をあっけなくさらった。
 男が必死に伸ばした手をかすめもせず、投げ出された少女が落ちていく。
 慟哭をかき消すように、雷鳴が轟いた。

*  *  *

 からりと晴れた夏の午後。
 慣れ親しんだマロニエの木陰からかすかな話し声が聞こえてくることに気づき、ミーナはそっと足音を忍ばせた。


「――風の都シェラハ、君たちは何か心当たりがあるかい?」


 それはミーナのよく知る男の声だ。
 誰かいるのだろうか、およそクライスとミーナ以外の人影を見た試しがないあの忘れ去られたような古いベンチに。木の陰からそっとうかがうが、何のことはない。男の問いかけに応えたのは、人ならざるものたちの《歌》である。


「いや、君たちは鳥の姿をした精霊だとミーナ君が言っていたから、何らか風にゆかりのある者かと思ってな。……なるほど、他所のことは預かり知らぬ、か。確かに、君たちはいつもここにいるな」


 最近のクライスは、手元の帳面を辿らずとも精霊たちの言葉をある程度理解し、ともすれば今のようにさほどの遅れもなくやり取りを成立させてしまう。
 明白な変化は、エリスニーシェの森を訪れてからだったように思う。
 枯れゆくトレントに託された、人と精霊を結ぶという願い。それが、趣味の研究という域を超えて、ある種の使命感を彼に抱かせたのかもしれない。
 なんだか少し遠くに行ってしまったな、と思う。ミーナはといえば、クライスに教わり、いくらかの単語は聞き取れることが増えてきたけれど、彼の立つ境地には遠く及ばない。
 もしも――ただ精霊が〝視える〟というだけのミーナの存在が、必要とされなくなってしまったら。そんな想像が心の隙間に滑り込み、慌てて打ち消した。


「無駄足になるかもしれないが、この足で赴いてみるしかないか。……おや?」


 ふいに、クライスがミーナの方を振り返った。


「ミーナ君? どうしたんだ、そんなところで」
「あ、いえ。何やらお取り込み中だったので」


 気配に気づいたというよりは、あの精霊たちが彼に教えたのだろう。〝yo shas li(彼女が来たよ)〟という《歌》を、そういえば耳にした気がする。


「シェラハ、ってあの〝雲海の秘境〟のシェラハですか?」
「しっかり立ち聞きしてるじゃないか。……ということは、結構前からいたな?」


 呆れ混じりに笑い、それでもクライスはベンチのいつもの定位置を空けてくれるので、ミーナはそこに収まった。


「シェラハはこの大陸で最も高い場所に築かれた町だ。交通の難から人の行き来はさほど活発でなく、閉鎖的な町であったのだが、ここ最近はある謳い文句とともに旅人の訪れを歓迎しているらしい。――求む、風を喚ぶ者。山の頂には巨大な塔がそびえ立ち、その中には風を操る〝秘宝〟が眠ると」


 ミーナは二、三度目を瞬かせた。
 何かの物語めいた、妙に壮大な言い回しである。


「町興しの謳い文句でしかないのかもしれないが、どうも気になるんだ。〝風は吹き荒れて頂を守る〟というのは、霧の樹海のトレントが遺した《歌》の一節だ。山の頂、風にまつわる塔――無関係ではない気がしてな」
「それはもう、行ってみるしかないのでは? クライスさん、こうなると気になって仕方なさそうですし」
「よくわかってるじゃないか」


 クライスが苦笑した。


「夏とはいえ標高の高い場所ですし、きっと上着もあった方がいいですよね。薄手のコートで足りるでしょうか」
「なぜ当然のように君も一緒に行く前提になってるんだ」
「ご予定はもう決められてますか? 月末〆切のレポートがまだ終わってなくてですね、できればそちらを済ませてからですとありがたいのですが」
「僕は僕で勝手にやるから、君は存分に学業に励むといい」
「クライスさん〜」


 非難がましい視線を向けていると、クライスがちらり、とこちらを見やった。
 その目には、どこか迷いの色が見え隠れする。
 おや? と思った。これはもしかして、意外と押し切れるのではないだろうか。


「あのですね、クライスさん」


 ミーナは一つ呼吸を整えると、正面からクライスに向き直った。


「トレントさんの願いを聞き届けたのは、クライスさんだけじゃないんですよ。――私だって、力になって差し上げたいのです」


 精霊たちの――それ以上に、あなたの。
 そのどちらが伝わったのかは定かではないが、クライスはやがて、根負けしたようにふっと相好を崩した。


「……レポートはきちんと仕上げてくるように」
「はい! ルイン先生の課外授業、第三弾ですね」
「本当にその説明で納得されてるのか、君のご両親は」


 実際のところ、あれこれ厳しく詮索してきそうな父と兄が不在のタイミングを見計らって話を通しているのは、クライスには内緒なのである。

 


 階段状に伐り拓かれた山の斜面には広大な麦畑が広がり、そこから少し登った場所に、石造りの小さな家々が身を寄せ合うように立ち並ぶ。
 巨大な風車を頂く塔は、そんなシェラハの町からさらに山道を登った場所にぽつりとたたずんでいた。


「何かこう、エレベーター的なものが出てこないかなぁ、と期待していたのですが……」


 その塔の中、螺旋を描く石造りの階段を一つ一つ踏みしめながら、ミーナはぼやいていた。
 足を踏み入れたときには、天井の見えないがらんどうの空間だった塔の内部。その床が鳴動し、ぽっかりと開いた床下から巨大な柱が現れたときには、一体何が起こるのかと心躍らせたものだった。
 けれど揺れが収まってみれば、現れたのはその柱に沿ってぐるりと続く螺旋階段である。地道に一段一段上っていくしかない。
 外から見上げた塔の高さからして、それが果てしない道のりであることは容易に想像がついた。
 辺りを漂う小鳥のような姿をした精霊たちは、思い思いの《歌》をさえずりながら、軽やかに飛び回っている。可愛らしいその姿が、今は少しだけ恨めしかった。


「だからそれは宿に置いてこいとあれほど言っただろう」


 前を歩くクライスから、呆れた声が返ってくる。
 彼が言うのは他でもない、ミーナが携えた大きな革張りのトランクのことである。
 中に入っているのは、ミーナが捉えた視覚情報をクライスに的確に伝えるための画材一式と、いつでもどこでも休息が取れるように簡易ティーセット一式。
 いずれもれっきとした必需品であるので、精霊の気配が濃厚なこの塔の調査に赴くうえで、置いてくるという選択肢はなかったのである。


「――ほら」


 ふいに、ミーナより一回り大きな手が目の前に差し出される。
 持ってくれる、ということなのだろう。
 だが、ミーナは首を横に振った。


「お構いなく。これは助手のお仕事ですから」
「なぜそこで変な意地を張る」


 無理を言ってついてきた以上、せめて足手まといになりたくないのだ。


「きつくなったら、無理しないでちゃんと言ってくれよ」


 そう言って再び歩き出したクライスは、右手に提げた懐中電灯をミーナの足元を照らすように向けている。自身はといえば、嵌め込みの小さな硝子窓から差し込む薄明かりを頼りに、左手で壁を辿るように歩みを進めているのだった。


「あの……灯り、大丈夫です。多分、クライスさんが思っているより私の視界は明るいので」


 そう伝えると、クライスは怪訝そうにミーナを振り返ったが、程なくしてああ、と合点のいった表情になった。


「そうか、君にとっては精霊たちの放つ光が灯りになるのか」


 そう言いつつも結局、ミーナの方を照らすように灯りを持つのは変えないでいる。
 怪訝に思うミーナの気持ちを察したのか、クライスが再び口を開いた。


「今この塔の中には〝来たれ〟という声、〝去れ〟という声、どちらも入り乱れている。――どうしても、エリスニーシェでのことを思い出してしまってな」
「あ……」


 それでクライスの言わんとすることがわかった。
 霧の樹海でミーナが精霊たちの見せる幻を前に取り乱したときのように、自分の見えないところで彼らがミーナを脅かすことを、気にかけてくれているのだ。


「すみません、ありがとうございます」


 だからミーナは、素直に礼を述べた。


「シェラハに関しては、君に情報を伏せることだってできた。君がついてくるのを本気で止めようと思えばな。僕の立場としては、本当はそうすべきだったんだろうけど」


 どこかばつが悪そうに、クライスがぽつりと言った。


「本音を言えば、精霊たちの手がかりを探すうえで君の力を借りられるのはありがたい。だからせめて、僕にできる範囲で君を守らせてくれ」
「ふふ、よろしくお願いしますね」


 私はまだ必要としてもらえている、少なくとも今はそう思っていいのだろうか。
 ミーナは心に温かな熱がともるのを感じながら、目の前に続く階段を踏みしめた。

   

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