花咲く町、風の故郷
3.隠されていた寂しさを知る
――おかえりなさい。
そう言って微笑んだリンカさんの視線、その横顔、その声音。ひとつひとつが、鮮烈に焼き付いて離れなかった。
だってそのときの彼女は、息をのむ程に美しかったから。
無造作に束ねた麦穂色の髪と、その間から覗く、からりと晴れた空の色をした瞳。僕より頭ひとつぶん背が高く、僕よりうんと広い世界を旅してきた男の人。
その人がやってきた夜は、僕がこの宿屋へ来てからでいちばん賑やかなものになった。
いつも同じ季節に訪れるという彼は、お店の常連さんたちともすっかり顔なじみだという。常連さんたちの集まるテーブルはいつもに増して酒が進み、四方山話に花が咲いている様子だった。
厨房とカウンターとをせわしなく行き来するリンカさんはどことなく弾んだ面持ちで、僕はたびたび彼女の視線を追いかけては、胸中でひそかにため息をついた。
「はい、これ。あのテーブルにお願いね」
そう言ってリンカさんは、焼きたてのミートパイの載った皿を僕に手渡す。
「そうだ、ついでに伝言を頼めるかしら。ツィタラを弾いてって、あの旅人さんに」
「ツィタラ?」
「言えば分かるわ」
妙に楽しそうに、リンカさんは微笑む。
ミートパイをテーブルに運ぶと、すっかり顔なじみになった常連さんの一人ががしっと肩を組んできた。
「おお、ぼうず。お前さんも一杯飲めや」
ジョッキいっぱいの麦酒を目の前にぐい、と勧められる。もはやお決まりの洗礼だ。
「だから、僕まだ十四なんですってば」
「ったく、連れねぇなぁ。こいつなんか、お前さんくらいの時にはすっかりいけるクチだったぜ。なぁ?」
こいつ、と顎で示された"旅人さん"は、困ったように肩をすくめてみせる。
「あの、リンカさんからなんですけど。ツィタラ? を弾いてほしいって、あなたに」
不承不承ながらに、僕はリンカさんの伝言を伝えた。
「ほう、そりゃあいい」
「お前さん、新しい歌を聞かせてくれよ」
テーブルの面々はみんな合点したようで、口ぐちにはやし立てる。
「まぁ、そう急かすなって」
その人はジョッキに残っていた麦酒を飲みほして、身軽い仕草で席を立った。
壁際に立てかけてあった楽器と思しきものをひょいと拾い上げ、調子を確かめるように弦を何本か爪はじく。木で造られたそれは、ひょうたんを潰したような形の胴に細長い柄のついたもので、細い弦が何本か渡されていた。
彼はそのまま空いていたテーブル席の一角に腰掛けると、一本ずつ爪弾いては耳を澄まし、弦の巻きとられたつまみを回していった。音を合わせているらしい。
店の片隅に生まれた音色に、いつしか他のテーブルのお客さんたちも、物珍しげにその人の手元を覗き込んでいた。
「それじゃ。リン、最初は何がいい?」
ひととおりの作業を終えたその人が顔を上げ、カウンターのリンカさんに声をかける。
視線を受けて、リンカさんは淡く微笑んで答えた。
「その子、ロサからきたんですって。だから、ひさしぶりに"あの歌"をお願い」
「ロサ、か。そういや、あれはリンのお気に入りだったっけなぁ。――それじゃあ、歌はそいつに歌ってもらおうかな?」
そいつ、が僕のことを指すと理解するまでに、だいぶ時間がかかった。
「へっ? そ……それって、まさか」
「よーし。お前さん、歌ってみな!」
常連さんに思い切り背中を叩かれて、半ばつんのめるように僕はその人の前に出た。
交錯した視線の先で、彼は楽しそうに口角をつり上げる。
「あ、あの――」
僕が言葉を発する間もなく、ツィタラから幾つもの音があふれだした。鮮やかな手つきでかきならされる、南方特有の陽気な曲調。合わせて、お客さんたちがめいめいに手拍子を始めた。
「……リンカさーん……」
恨めしげな視線を送るけれど、リンカさんは悪戯っぽく片目をつぶってみせ、そのままみんなに合わせて手拍子を始めた。その仕草が可愛らしくて、情けないことにすっかり抗議する気を無くしてしまう。
僕は、しぶしぶ口を開いた。
久しぶりに歌う故郷の歌は、懐かしさよりも恥ずかしさが勝って、はじめのうちはちっとも楽しい気分がしなかった。それでも――ツィタラが奏でるリズミカルな伴奏と、手拍子をするお客さんたちの熱気で、いつしか僕の脳裏にはロサの祭の風景が映し出されていた。まるで本当にあの故郷に帰ったかのような――それはリンカさんの心遣いだったのかもしれないと、ふと思った。
すっかり気分が高揚して、それでいてまんまと乗せられてしまった自分が悔しくて、僕は自棄っぱちになって大声で歌った。飲めるものなら、お酒の一杯でも飲みたいくらいに。
だいたい何が悔しいかって、その人は――ツィタラを自在に操るその"旅人さん"は、正直言ってものすごく格好いいのだ。場の雰囲気に心地よく酔ったような笑顔と、それでいて時折すっと細められる切れ長の瞳。滑らかに動く指先と、リズムをとるように軽く踏みならす足元。僕がこの先同じくらい歳を重ねたとしても、とても追いつける気がしなかった。
曲が何周かしたところで、その人も歌いはじめた。それがまた芯のある低く通る声で、僕はもう悔しがる気力すらなくしてしまう。リンカさんも、最初の日に僕が心惹かれたあの可愛らしい調子で声を重ねた。常連さんたちも、どこか調子っぱずれに歌い始めるものだから、店内はすっかり文字通りのお祭り騒ぎになっていた。
* * *
「はい、おつかれさま。今日は大活躍だったね」
コトリ、と目の前にミルクの薫るマグカップが置かれ、僕はのろのろと顔を上げる。
「……誰のせいだと思ってるんですかぁ」
「ふふ、ごめんごめん」
「でも……楽しかった、です」
ぽそりと小声で伝えると、リンカさんはとても嬉しそうに微笑んだ。
カウンターに乗せたランプひとつを除いてすっかり照明を落とした店内は、ほんの数時間前とは打って変わってしんと静まり返っている。祭の後の静けさ。あれから、あの人の奏でるツィタラの音にのせて、賑やかな宴が暫く続いたのだった。
リンカさんは小ぶりのグラスを取り出して、ガラス瓶から澄んだ赤色の液体を注いだ。お店のメニューとしても出している、リンカさんお手製のコケモモ酒だ。
芳醇な香りのするそれを一口含んでから、ほぅ、と息を吐いて彼女は言う。
「あなたには本当に助けられてるわ。このところ随分と楽だもの。だめね、あんまりあてにしないようにしなくっちゃ」
「僕……ずっとここに居てもいいですよ」
コトリ、とグラスをテーブルに置く音がする。まっすぐに見つめる僕の視線を受けて、リンカさんは優しく目を細めた。
「ふふ。なんだかあなた、そうやって旅先で行きずりの女の子口説きそうだなぁ。ずっとここに居る、必ず帰ってくる、なんて言ってさ」
「ひどいなぁ。僕、そんなふうに見えます?」
「いつからそこに居たんだろうってくらい、知らない土地に溶け込むのが上手い。そういうひとってあぶないの。ここでいろんな旅人さんを見てきたあたしのカン。だめよ。あなたは、あたしみたいな思いをさせる子作っちゃあ」
そう言って、リンカさんはまたグラスを傾ける。なんだか今日の彼女は妙に陽気だ。
「あの人も、そう言ったんですか?」
「ううん、ちがう。約束なんてしてないわ、なんにも」
「それでも、リンカさんはずっと待ってるんですか」
「待ってる?」
「あの人がいつか、ここに落ち着く日が来るんじゃないか、って」
クスリ、と。リンカさんはほのかに笑った。ランプの弱い灯りに照らされた横顔が妙に妖艶で、思いがけず鼓動が跳ねる。
「ううん。そんな日は、きっと来ないんじゃないかなぁ」
「あなたは……それでも、いいんですか?」
彼女はほんの少し首を傾げてみせただけで、僕の問いかけに答えることはなかった。
流れ込んだ静寂が落ち着かなくて、僕はホットミルクをちびちびと飲んでいた。
リンカさんはおもむろにコケモモ酒を飲みほして、空になったグラスをコトリと置く。
「……ちょうど、あたしがあなたと同じ歳の頃だった」
「え?」
グラスの底をぼんやりと見つめながら、リンカさんは語りはじめた。
「そこの窓辺でね。あのひとは何をするでもなく、ただぼんやりと外の町並みを見つめてた。夕日が差し込んでて、ちょうど横顔が影になってて、あのひとの表情はよく見えなかった。あたしはこの場所から、そっとそれを覗いていたの。どんな顔をしているだろうって。どんなことを考えているか、どうしたら見えるかなぁって。……そうして気が付いたらあたしはもう、引き返せなくなっていたんだと思う」
だから、仕方ないよね。そんなふうに言って、彼女はとても美しく笑う。
「でも、長いよ。とっても。だって、この町の時間は緩やかだもの。それで、サルビアの花が咲いて散るまでのこの時間はほんとうにあっという間」
ほぅ、とため息をひとつ。それきり、彼女は黙り込んでしまった。
僕は……とっさに何か言おうと口を開きかけたけれど、踏ん切りのつかないまま視線を落とした。うっすらと膜を張ったホットミルクを一口含んで、カップを置いて。
そうしたら、しまいこんだ言葉が一気に込み上げてきた。
「あの。僕がさっき言ったこと……ほ、本気ですから。――あなたの心が、ここに無くたって構わないから。だから。僕が、ずっと傍にいてもいいですか、って、い、言ったら……」
情けないくらいに心臓が早鐘を打つ。マグカップを握りしめてどうにか吐きだした言葉に――けれど、返事はなかった。
「……リンカさん?」
おずおずと顔をあげて様子をうかがう。頬づえをついた彼女の瞳は、すっと閉じられていた。多分、淡い微睡みの中にいる。
「なんだぁ……」
とたんに身体中から力が抜けて、僕は大きく息を吐き出した。
カウンターの内側に回ると、リンカさんがいつも使っているショールを引っ張り出し、そっと肩にかけてあげた。はらりと髪のかかったその横顔はとても穏やかで、目を覚ます気配はない。
きっと、聞かれなくてよかったのだと思う。僕にとっても、リンカさんにとっても。
この町へ来た最初の日、常連さんが教えてくれたありがたい忠告が、今になって身にしみる。本当にこればっかりは仕方ない。リンカさんのあの透き通った瞳が映すのは、一人だけ。たとえその人が、ここではない場所を見つめていたとしても。
だから、敵わないんだ。その肩に手を伸ばして振り向かせるよりも、何も言わずにそっと隣に寄りそうことをリンカさんは選んだ。もうずっと前に、選んでいる。そんな彼女の横顔は澄み切った水のように美しくて、僕には触れることができない。
不意に階段の軋む音がして、僕ははっと顔を上げて振り返る。
「おう、ぼうず」
階段の辺りの薄暗がりを注視していると――現れたのは、他でもなかった。くだんの流離い人。僕は軽く会釈を返す。
「さっきはありがとうな。楽しませてもらったよ。……と」
そこでカウンターの向こう側の気配に気づいたらしく、ちらりと僕の肩越しに覗き込んだ。
「リンのやつ、こんなところで寝ちまって」
仕方ねぇなぁ、と苦笑混じりに呟いて、彼はカウンターの一角の丸椅子に浅く腰掛ける。
「むかし、リンがまだ小さかった頃。親父さんにくっついていつもそこの隅っこに座っててさ。眠い目をこすりながら話を聞きたがるんだけど、きまって最後の方には舟を漕ぎはじめるんだ」
懐かしそうに細められた瞳の向こう側に映るのは、重ねられた月日の厚み。
僕がこの町へ来て、リンカさんと出会って。今日までのそれは、たったの一週間。
それでも、その短い日々の間に、僕はリンカさんのことをどんどん好きになっていた。太陽の似合う温かい微笑みも、時折ふっと落ちる寂しげな影も。僕の話に楽しそうに耳を傾けてくれるのが嬉しかった。鈴の音のような声をずっと聞いていたくて、僕の前で少しでも笑っていてくれたらと願わずにはいられなくて――。
でも、僕はきっとまだ"引き返せる"。そして、引き返さなくちゃいけないんだ。
「あの」
僕は意気込んで話しかけた。
「ロサの町、憶えてますか? ここより随分と暑いけど、ここと同じくらい畑ばっかりの田舎町です」
「ああ。あそこは、サトウキビ畑だっけな。海が近かった」
ええ、と僕は頷く。
「十三までずっとロサで育ちました。うちは農家で、僕は五人兄弟の真ん中で。サトウキビや紅イモを育てて、牛や鶏たちの世話をして、ずっとそうやって過ごしてきました。昨日と同じ今日を何度も繰り返して。そういう時間って長いんです。だけど、ロサを旅立ってからのこの一年間は本当にあっという間で」
要領を得ない子供の話を、僕の二倍近くの歳月を生きてきたその人は、穏やかな瞳で聞いてくれている。
「あの、それがなんだっていうわけじゃないんですけど。ただ……ええと」
何を言おうと思ったんだっけ。全然うまくまとめられないまま、僕はぺこりと頭を下げた。
「リンカさんのこと、よろしくお願いします。……あの。僕は、これで」
「うん? ……ああ、お休み」
眠っている彼女のことを頼んだという意味にとっただろうか、それとも、僕の心の中にあったものはちゃんと伝わっただろうか。どちらでもいいや。僕の出番は、ここでおしまい。
「おやすみなさい」
すれ違い様に小さく頭を下げて、僕は階段へと向かった。
二階の窓からほのかに降り注ぐ月明かりだけを頼りに一段一段踏みしめながら、僕はもう心を決めていた。
――明日、この町を発つとリンカさんに言おう。
この先いつか旅先のどこかで、燃えるように赤く、それでいて可憐なサルビアの花を目にした時に、僕はきっとこの日々を思い出すのだろう。その時彼女がこの町で、どうか花の咲くように幸せそうに笑っていてくれたらいい。