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​花咲く町、風の故郷

 

2.おかえりなさい、旅人さん
 

 店先の植え込みに咲き並んだ赤い花たちに、じょうろでさぁっと水をかけてやる。秋めいた日差しの下、"サルビア通り"の片隅に小さな虹がかかった。
 突き抜けるような高く澄んだ空を見上げては、鮮やかに彩られた町並みを見渡しては、しみじみと思う。今年もこの季節が来たのだと。
 心がそわそわと浮き立つような、それでいてどうしようもなく胸が苦しくなるような。
 秋の始まりというのは、あたしにとってはもう長いこと、そういう季節だった。

「リンカさーん!」
 頭上から、元気のいい声が降る。見上げると、小麦色の肌をした男の子が二階の窓から顔を出していた。ロサという遠い町から来たという、小さな旅人さん。
「掃除、終わりましたー」
「ありがとう。それじゃあ、お昼にしましょう。下に降りていらっしゃいな」
 あたしは空になったじょうろ地面に下ろし、立てかけてあった箒に持ちかえた。店先に舞い込んだ落ち葉を片付けたら、厨房へ戻ってとうもろこしのスープを温めよう。
 ちょうど今のような真昼の太陽が似合う、よく笑う明るい子だ。あの子がうちの宿屋で働き始めてから、そろそろ一週間になる。恩返しだと言って店を手伝ってくれたのが、気がつけばそのまま今日まで続いている。猫の手も借りたい、というほどの忙しさではない小さな宿屋だけれど、男手のあるのはとてもありがたかった。
 行く先のあるひとをあまり長く引き止めるわけにはいかないけれど、あの子が居てくれると言ううちは、その好意に甘えてしまおうと思っている。そうして旅立つと言う日がきたら、少しばかりの心付けを持たせてあげよう。
 歳は、十四と言っていた。
 "あのひと"が初めてここを訪れたのも、ちょうど彼くらいの頃だったと思う。子供だったあたしにとっては、小さな旅人さんどころかうんと大きなお兄さんだったけれど。
 ぼんやりと見つめる視線の先、咲き並んだ赤い花たちが、幼いあの日の情景に重なった。


 サルビアの植え込みに水をあげるのは、小さな頃からあたしの仕事と決まっていた。
 いつものように、店の裏手の井戸で水を充たしたじょうろを、うんしょうんしょと両手で抱えて表へ出る。
 そうして、宿の看板を見上げてたたずむそのひとを見つけたのだった。男のひと。砂色の外套、肩先で散らばる無造作に伸びた蜂蜜色の髪。なんとなく、乾いた荒野の似合いそうなひとだと思った。”乾いた荒野”なんて、うちへ来るお客さんの話で聞いたことしかないのだけれど。
『おにいちゃん、おきゃくさん?』
 重たいじょうろをとりあえず地面に置いて、あたしはそのひとを見上げて声をかけた。
 傾きかけた柔らかい日差しに照らされるその背中が、あたしにとってはうんと大きかったのを覚えている。けれど、ちらりと向けられたその顔つきがそんなに”大人”ではないことに気づいて、嬉しくなったことも。
 そのひとは少し考え込むような仕草を見せたあと、『そうだよ』と頷いた。
『わぁい、ほんとう? じゃあ……”おかえりなさい!”』
 あたしの言葉に、そのひとは一瞬ぽかんとした表情になって、それから小さく吹き出した。
『それ、いらっしゃいませの間違いじゃないのか?』
『ううん、まちがってないわ。だってここはあたしのおうちだもの。おうちに帰ってくるひとには、おかえりなさいって言うのよ』


 うんとおすましして答えてみせた幼き日の自分を思い出して、思わず口元が緩む。
 同じ季節、同じ花の咲く頃にきまって訪れる理由を、あのひとの口から聞いたことはない。ただ、それが偶然や何かしらの都合などではなくて、純粋にあのひとの意思に基づくものなのだということだけは、なんとなく分かっていた。
 変わんねぇな、というのが口癖だった。変わらない町並み、馴染みのお客さんが入り浸るお店、父さんの頃から変わらないうちの味。あのひとはきっと、そういうものを求めて、この季節のこの町へとやってくる。


  *  *  *


 夕暮れ時になると、"サルビア通り"は少しずつ賑わってくる。うちの宿屋にもぽつぽつとお客さんがやってくる時間だ。
 食堂兼酒場になっている一階のお店で、宿屋の受付も兼ねている。普段なら夕食の仕込みをしながら迎える形になってしまうけれど、ロサの男の子が手伝ってくれている今は、日暮れ前には二人ともすっかり手持ち無沙汰になる。
 昼間の一通りの仕事を終えてから、お店がお客さんで埋まり始める夕食時まで。そのひとときを、休憩がてらにこの小さな旅人さんの話を聞くのが、このごろの日課だった。
「ここだと、サルビアが咲くのは秋なんですね」
 カウンターの丸椅子に腰かけて足をぶらぶらとさせながら、男の子が言う。
「あなたの町では?」
「春の終わりです」
「じゃあ、うんとあたたかい場所なのね」
「ええ、ここよりずっと南に。……えっと」
 男の子は、ひょい、と身軽な所作で丸椅子から立ち上がり、壁掛けのタペストリーへと歩み寄る。だいぶいい加減なタッチではあるけれど、そこには地図は描かれているのだ。
 このあたりです、と彼は地図の一点を指さしてみせる。
「ずいぶん遠くから来たんだね」
 故郷はどんな町? ここへ来るまでに、どんなところへ行ったの? これからどこへ行くの? とりとめもなく尋ねては、彼が見てきた風景を、頭の中に思い描いてみるのだった。
「女将さん、こういう話ほんと楽しそうに聞きますね。お店のお客さんと話している時なんかも、目が輝いてる」
「だってね。同じ町の話でも、話すひとによって全然違うふうに聞こえるのよ。あたしはその度に、どんなところなんだろうって想像してみるの。それが楽しくて。小さい頃からずっと、うちへ来るお客さんの話を聞くのが好きだったわ。あたしも行ってみたいって、憧れた頃もあったっけ」


『ねぇ、いつかあたしのことも連れていってよ。あたしも、大きくなったら旅に出てみたいの』
 いつだったか。町を旅立つあのひとを店先で見送りながら、言ってみたことがあった。
 それは、子供なりに本気だった。決意をこめて、きゅっと右の拳を握りしめて。
『それは、無理な話だなぁ。だってリンは、ここの一人娘だろ?』
『でも、行ってみたいんだもの。どうしても』
『……そんなに、良いもんじゃない』
 それはたぶん、あたしに向けられたものではない。誰にというのでもない、息を吐くような低く小さな呟きを、あたしは拾った。
 けれども次の瞬間には、大きな掌がぽんっと優しくあたしの頭の上にのせられていた。
 見上げた視線の先で、あのひとはふっと口元を緩ませる。
『親父さんと仲良くやれよ。それじゃあな』
 くるくると髪を撫でて、その温かい掌が離れていく。
 幼いあたし。何も知らなかったあたし。あの頃、見上げた大きな背中の向こう側にあるのは、ただ自由だけなのだと思っていた――。


「あの、リンカさん」
 声変わりを始めたばかりの少しかすれた声が、あたしを思い出の淵から引き戻した。
「ん?」
「リンカさんにロサの歌を教えてくれたっていうひと、どんなひとなんですか?」
 視線を向けたあたしに、どことなく固い面持ちで彼は問いかけてくる。
「なあに。どうして突然、そんなことを訊くの?」
「えっ? いえ……なんとなく、気になって」
 男の子は、何故だか妙に慌てた様子で口ごもった。その挙動の理由になんとなく思い当って、あたしは小さく肩をすくめる。大方、お店の常連さんたちに何か吹き込まれたに違いない。
 "サルビア通り"の宿屋の女将が、独り身を貫いている理由。あることないこと噂が飛び交っているのを、あたしは知っている。小さな田舎町というのはそういうもの。
「そうね。――あのひとは、旅人」
「……それは、」
 知ってますよ、と。肩すかしをくらったと言わんばかりに、男の子はむくれてみせた。
「ふふ、からかっているわけじゃないのよ」
 あたしは"サルビア通り"へとつながる扉を見やり、曇りガラスの向こう側を見通すみたいにわずかに目を細めた。きっとこの仕草は、ほんの少しだけあのひとに似ているのだと思っている。
「ずっと探し物をしてる。だから旅を続けている。そういう生き方しか知らないひと」
 ガラス越しに降り注ぐ日差しは黄昏の色を帯びて弱く、店内には薄暗い影が落ち始めている。
 何故だか、そわそわと胸が騒いだ。
「そろそろ、灯りをつけようかしらね」
 落ち着かない心にそっとふたをして、あたしは丸椅子から立ちあがった。カウンターの内側に回り、引き出しからマッチ箱を取り出す。店内のそこここに取り付けられたランプに、火をともすために。
 その時にはもう、胸騒ぎは確かな予感へと変わっていた。
 ――そう、きっと今日だ。
 お店の外には、夕暮れより鮮やかなサルビアの赤い花が風に揺られているのだろう。そしてあのひとには、今日みたいな影の濃い黄昏時がよく似合う。
 ランプの笠をついと持ち上げたその時、カランカランという軽やかなドアベルの音とともに、戸口から光が射しこんだ。
 もう一度カランとと音を立てて、扉が閉まる。あたしは、強い確信をこめて振り向いた。

「リン」

 交錯した視線の先、逆光の中で淡い微笑を浮かべて。窓越しの黄昏色の光を背に立っているのは、ずっとずっと待ち望んだひと。子供の頃から変わらない呼び方で、あなたはあたしの名前を呼ぶ。
「……おかえりなさい」
 じんわりと温かいような、それでいて胸の奥を強く揺さぶられるような、どうしようもない衝動を持て余しながら、あたしは微笑んだ。幼い頃のように思いきり駆け寄って、とびきりの笑顔で迎えられたらいいのに。
 これからの数日か、あるいは数週間か。その日々が他のどの季節よりもあっという間に過ぎていくことを、あたしはよく知っている。

 

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