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​花咲く町、風の故郷

4.ずっと変わらずここにいるわ


 知らない風景、知らない歌、ほのかにまとう異国の香り。はじめはきっと、そういうものに惹かれていたのだと思う。
 遠い世界への憧れと、それを語るあのひとへの憧れ。幼かったあの頃は、その区別さえついていなかったのかもしれない。ただその視界に映りたくて、一生懸命背伸びをした。
 もしも、あの幼く無垢な"憧れ"のまま、通り過ぎていたとしたら。恋とも知れぬ恋は、淡い思い出の一ページにおさまっていたのかしら?
 ふとしたときにその"もしも"を考えてみるのだけれど、あたしは、どうしたって上手に思い描くことができない。
 引き返せないというのは、たぶん、そういうこと。


 淡い温もりを近くに感じて、あたしはゆっくりとまぶたを持ちあげた。ランプのうすぼんやりとしたオレンジ色の灯りが、見慣れたカウンターの木目の上でゆらゆらと揺れている。
 ついつい、と頬をつつくその長い指を、右手でたどってつかまえる。指先のかたい感触と、袖口からほのかに香る煙草の香りで、それが誰なのかはすぐに分かった。
 このひとがたまに見せるこういう子供っぽい仕草が、あたしはたまらなく好きだ。
「風邪引くぞ」
 苦笑交じりの、心地よく低い声が降る。
 身体を起こすと、さらり、とショールが肩から滑り落ちた。覚えのないそれを見つめて、はたと気づく。
「あの子、は?」
「ロサのぼうずなら、俺と入れ違いに二階へ行ったよ」
「そう……」
 悪いことをしちゃったな、と思う。あの男の子と、何の話をしていたのだったかしら。こんなにお酒が回ったのなんて随分と久しぶりだ。
「それで、どうしたの? こんな遅くに」
 ショールを拾い上げながら、問いかける。
「なんだか、寝付かれなくてな。身体は疲れているはずなんだがなぁ」
「きっと、さっきのお祭り騒ぎのせいね」
 あたしはショールをカウンターの上に置いて席を立った。
「お茶、淹れるわね」
 自分の酔い醒ましも兼ねて、安眠作用のあるカモミールティーを。あたしは厨房へ入り、水を満たしたやかんを火にかけた。
 戸棚から、ティーポットと、カップとソーサーを二組。それから乾いたカモミールの入った小瓶を取り出して、匙に二杯ほどをポットに落とす。
 カップとソーサーをお盆に載せて運び、そっとカウンターに置いた。
「あの、ぼうず」
「ん?」
「俺が初めてここへ来たのが、ちょうどあいつと同じくらいの時だったのを思い出してさ。その時リンは、こんくらいのちびだった」
 そう言って彼は、カウンターと同じくらいの高さに手をかざしてみせる。
「そんなにちっちゃくないよ。だって、こっち側からちゃんとお店の中見えたもの」
「あんまり変わんねぇよ」
 空の木箱なんかにちょこんと腰掛けて、向こう側に座ったお客さんの話を聞くのが好きだった。もう遅いから部屋へ行って寝なさいと、父さんに何度言われても聞かなかった。
 厨房でやかんが甲高い音を立てはじめたので、あたしは再び席を立った。
 ティーポットにお湯を注ぎ、蓋をしてカウンターへと運ぶ。コトリと置いて、あとはそのまま数分待つだけだ。
『……おにいちゃんは、どうしてこの町へきたの?』
 注ぎ口から立ちのぼる湯気を見つめながら、ふと、そんなふうに尋ねたことを思い出す。
「さがしものをしてるんだ、ってあなたは答えたの。それで、何を探してるの、って訊いたら、リンが大きくなったら教えてやるよ、って」
「そんな昔のこと、よく覚えてるなぁ」
 飲みごろになったカモミールティを、カップに注ぐ。林檎にも似た甘い香りが、ふわりと広がった。
「子供って、気になったことは忘れないものよ。――はい、どうぞ」
「お、ありがとう」
 彼はカップを受け取ると、思い出したように口元を優しく緩ませた。
「そうだなぁ。もう、大きくなったらな、なんて言うわけにもいかないな」
 一口含んで飲み下し、カップをソーサーに戻す。それから、ぽつぽつと語り始めた。
「物心ついた時には、とある行商に育てられていた。生みの親のことはちっとも覚えていない。十二の時にその行商――親父が死んで、生まれ故郷だという村に骨を埋めた。故郷というのがどんなものなのか、その時の俺にはよくわからなかった。ただ、親父がいつか教えてくれた歌が、『懐かしい故郷』とうたっていたのを、ふと、思い出したんだ」
 カモミールティをゆっくりと含みながら、あたしは彼の話に耳を傾ける。
「それで、探してみることにした。"懐かしい"もの。いつかどこかで見たような気がするもの。それで、自分の家族や生まれた町が見つかるなんて考えたわけじゃない。ただ、あてもない旅のコンパス代わりにしたかっただけさ」
「見つかったの? あなたにとって、"懐かしい"もの」
「そうだなぁ、色々あったよ。ロサの祭囃子なんかもその一つ。海を見下ろす小高い丘、黄金色の麦畑、市場の雑踏、草原を行く馬車の音。それから――赤いサルビアの花が咲く町」
 不意に、鼓動が高鳴った。
「妙な子供が居たな。余所者の俺に、『おかえりなさい』だと。そんな言葉、生まれて初めて言われたよ。年の近い客が珍しかったのか、そいつにはいたく懐かれた。顔を見るたびに旅のおはなし聞かせて、おうた聞かせて、ってせがまれるんだ」
「町を旅立つ日には、泣いてすがって困らせたのよね」
 知らないお話のような語り口がおかしくて、照れくさくて。あたしたちは、顔を見合わせて小さく笑った。
「何があるってわけじゃない、小さな町。それでも、どうしてだろうな。次の年の同じ季節、気がつけばここに足が向かっていた」
 そう。なんの前触れもなくお店に現れた彼に、あたしは夢を見ているのかと目を疑ったものだった。
 かすかに揺れるカモミールティの水面を何気なく見つめながら、彼はさらに続ける。
「初めて訪れた町並みがいつの間にか見慣れた景色に変わって、親父さんが作る料理の味も覚えて、あのちょこまかしてた子供もいつの間にか酒が飲める歳ってわけだ。そうして、自分が探していたものが何だったのか、少しずつ分かってきた。――見つかるはずのないものだってこともさ」
 乾いた声音に、思わず呼吸が止まる。あたしは、はっと顔を上げた。
「俺に、"故郷"はない。……はじめから、分かっていたことだったのにな」
 ――ずっと探し物をしてる。だから旅を続けている。そういう生き方しか知らないひと。 
 多分あたしは……とっくに気づいていた。十四の秋、黄昏時の光の中であなたの横顔を見つめていた、あの時にはもう。
 あなたの探しものは見つからない。だから旅は終わらない。きっとあなたは、そういうふうにしか居られないのだと。
 根なし草
(デラシネ)なのだと、あなたは言う。その響きに、何物にも縛られない自由を夢みていた幼い時もあった。
 どんなに"懐かしい"場所を見つけても、そこへ根付くことはしない。できない。だってそうしてしまえば、そこが自分のあるべき場所ではないと感じずにはいられない。時が経つほどに、どうしたって気づかずにはいられない。だからそうなる前に、風に吹かれてまた違う土地へ行くのだろう。自分の生きる場所は、終わることのない旅の中なのだと思っている。
 この町が、あたしが、どんなにあなたを待っていたって、あなたの心にはずっと風が吹いている。根なし草のあなたを、気まぐれに遠くへと運んでしまう風が。
「……でも」
 あたしは、カウンターの下で握った拳にきゅっと力を込めた。
「それでも。あなたは、ここへ帰ってくる」
 季節がひと巡りして、その風が思い出したようにふわりと帰ってくる場所が、ここであるように。あたしが願えることは、ただそれだけ。
 彼は、ほんの少し驚いたように目を見開いて、それからふっと息を吐いて淡い笑みを浮かべた。
「そうだな」
 ほのかな影のさすその微笑みが優しくて、優しすぎて、あたしは思わず目をそらしてしまう。
 あの日からずっと、あなたの横顔を見つめている。あなたの目に映る景色を、少しでも同じように眺めたくて。今でもまだ、あたしにはその全部は見えていない。そして、そんな日はきっと来ない。それがどうしようもなく寂しくて、苦しくて、その腕を強く掴んで引きとめてしまえたらと願うこともあるけれど、それでもあたしはこうしてここに居る。
 静かな時が流れていく。どこからか、虫の声が響いてきた。
「……ここ」
「ん?」
「雪は、降るんだっけ?」
 静寂を破ったのは、ひどく唐突な問いかけだった。
「うん。降るけど、根雪にはならない。たまに積もった朝なんかは、そこの通りで子供たちが大はしゃぎして」
 ――そうね。花をつけた"サルビア通り"しか、あなたは知らないの。
 物悲しげな虫の声が、すぅんと心の端に沁みる。それは、もうすっかり慣れ親しんだ、愛おしさすら感じるようなほのかな痛み。
「サルビアの花は、この町で咲く最後の花。それが枯れたら、あとは葉っぱが落ちる季節。空はどんどん高くなって、秋が過ぎていって、木枯らしがやってきて。そうして冬になるの。そしたらね」
「――いいよ」
 小さく遮る声に、のろのろと顔を上げる。
「その先は、自分の目で見ていくだろうさ。これから」
 あたしは、思わず二、三度目を瞬かせた。
「ここで、冬を?」
「ああ」
 空を映したような瞳は、どこまでもまっすぐで、あたたかくて。
「……それこそ、この町に大雪が降りそうだわ」
 そんな軽口でも叩いていなかったら、あたしはきっと上手に微笑うことができなかった。思いがけず目の端ににじんだ涙を、気付かれないようにこっそり拭う。
 だってそれは、今までで初めてのこと。
 その後は? その後は、どうなるだろう。冬が過ぎて、春が来て。あなたの知らないこの町の最初の花がひらく時、未だここに居るのかしら。
 このひとは、そう遠くないうちにまた、風に吹かれて何処かへ行ってしまうのかもしれない。
 それでもあたしは、何度だってここで迎えるのだ。
 ――"おかえりなさい、旅人さん。"
 "サルビア通り
"の片隅の、小さな宿屋。あなたはここから旅立って、そしてここへ帰ってくる。

 

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