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​花咲く町、風の故郷

​1.のどかな町の片隅で

 

 懐かしい歌が、かすかに耳をくすぐる。僕は、吸い寄せられるようにふらりと歩みを止めた。
 どこからか聞こえてくる鼻歌は――そう、僕が生まれ育った故郷の祭囃子。
 おっかしいなぁ、祭の季節はまだ当分先なのに。そもそも僕はもう一年も前に故郷を旅立って、こうして立ちつくす町角は、まったく馴染みのない風景だというのに。
 遠い山々の間から顔を出した朝日が、見慣れない町並みを照らしていく。道の両脇の植え込みには、サルビアの赤い花がぽつぽつと咲き始めていた。
 立ち止まったそこは、一軒の宿屋の前だった。軒先に下げられた古い木彫りの看板には、「INN」と刻まれている。歌は、その店の中から聞こえてくるらしい。澄んだ優しい響きの声が、記憶の中のあの旋律をなぞっていく。
 この扉を開けたら故郷に帰れるのかな? そんな、夢みたいな考えが頭の片隅に生まれ、むくむくと広がった。だって一晩中歩き通しだった脚はひどく重くて、お腹の中は感覚がなくなるくらいに空っぽなんだ。おまけに、昨晩思いっきり殴られた右頬が、腫れてずきずきと痛い。ああ、疲れたなぁ。はやく家に帰って、母さんの作ったふわふわのオムレツを食べて、あの狭い部屋で小さな弟たちと川の字になって眠るんだ。頼むから、久しぶりに帰った兄ちゃんを大人しく寝かせといてくれよ……。


  *  *  *


 まぶたの向こう側に温かい光を感じて、ゆっくりと目を開ける。視界を埋めたのは、見慣れないくすんだ木目の天井。
 身体を起こすと、下の方で軽く軋むような音がした。ベッドの上だった。窓辺からレースのカーテン越しに射しこむ日差しが、白いシーツの上にまばらに光を落としている。
 ぐるりと辺りを見渡してみる。ベッドと、窓際に置かれた簡素な書き物机。めぼしい家具はそれだけの、小さな部屋だ。宿屋の客室か何かだろうか、と考える。――そうだ、宿屋……。
 一気に頭が冴えて、僕はベッドから立ちあがった。ふと右頬に違和感を感じて触れてみると、絆創膏が貼られていた。
 ドアノブに手をかけ、カチャリと開ける。部屋と同じ木目の続く廊下に足を踏み出したその時。
「あ、おはよう」
 不意に背後から声をかけられて、僕はびっくりして振り返った。
 赤いエプロン姿の女の人。掃除の途中だったらしく、手にはモップが握られていた。
「ここ、宿屋なんだけど。あなた、店先で倒れていたのを、うちのお客さんが見つけてくれたのよ。身体はもう大丈夫?」
「……えっと」
 何から話すべきか。とりあえずお礼を言わなくては。そう思って口を開いたその瞬間、お腹の虫がものすごい大音量で鳴いた。
「……あ……」
 一瞬の何とも言えない沈黙の後、女の人は小さく吹き出した。対する僕は、頬がかぁっと熱くなる。
 ……こいつ、この腹の虫め。少しくらい空気を読んでくれたっていいものを。ものすごくお腹が空いていたのは事実だけれど、よりによって、こんな綺麗な女の人の前で自己主張することもないだろうに。
 そう。その人は、控えめに言っても大層な美人だった。肩までの長さで切りそろえられた髪は、光を集めたような金色。通った鼻筋と弓型の唇。それでいて、あどけなさすら感じさせるようなぱっちりと大きな瞳が、どこか危うい魅力を引き出していた。綿のワンピースにエプロンという出で立ちで、うっすらと唇に差した紅以外さして飾り気のない格好をしているのに、どんな人ごみに居てもきっと振り返らずにはいられないような――。
「お店の残り物でよかったら、食べる? 」
 水をたたえたような澄んだ青色の瞳が、柔らかく細められる。
 しばらくの間ぽかんと見惚れていた自分にはたと気づいて、僕は慌ててこくこくと頷いた。


 案内されたのは、階段を下った先の、食堂と酒場の一緒くたになったようなスペースだった。四、五人掛けのカウンターと、テーブルが四つほど。こじんまりとした店だ。
 女の人は――リンカさん、という名前だそうだ――ここの宿屋の女将だという。それを聞いて僕は少なからず驚いた。おそらく十四の僕よりはいくらか年上だろうと思っていたけれど、それでも辛うじて二十代にさしかかったくらいじゃないだろうか。女将さんと呼ぶには、いささか若すぎるような気がした。
 リンカさんがカウンターに並べてくれた料理を、僕は夢中で頬ばった。ハーブが優しく香るトマトとベーコンのスープと、ライ麦のパン。それに、ふんわりとした焼き立てのオムレツ。オムレツはもちろん、リクエストを聞かれて真っ先に僕が答えたものだった。先ほどの失態の恥ずかしさなどすっかり忘れ去ってしまうくらい、どれもこれもものすごく美味しかった。
「いったい何があったの? 通りで人が倒れているなんて、この小さな町じゃちょっとした事件よ」
「南の街道を通ってきたんですけど、そこで追い剥ぎに遭って」
「まぁ……それは、随分な災難だったわね」
 その追い剥ぎに殴られた右頬は食べ物を咀嚼する度にズキズキと痛むけれど、カウンター越しのリンカさんの気遣わしげな視線を感じて、僕は意地でも平気なふりを装うことにした。これ以上、かっこ悪いところを見せられるもんか。行き倒れたところを拾われるなんて最高にかっこ悪い出会い方をしておいて何を今更、なんて意見は断固として受け付けない。
 身ぐるみはがされながらもどうにか街道を抜けて、この町へ辿りついたのが今朝のことだ。持っていた食料まで根こそぎ奪われたせいで、飲まず食わずだった。間違いなく故郷を旅立ってからでいちばんの災難だけれど、リンカさんのような人に見つけてもらえたのが不幸中の幸いだったと思う。
 そういえば、この宿屋に辿りついたのは、ロサの祭囃子が聴こえてきたからだ。あれが幻聴ではないのなら、歌っていたのはこの女将さんなのだろうか。
「あの」
 パンの最後のひとかけらをスープで流し込むと、僕はリンカさんに声をかけた。
「さっき、ここからロサの祭囃子が聞こえた気がしたんですけど」
「ロサ? ……ああ。もしかして、こういうの?」
 リンカさんは、鼻歌で小さく口ずさんでみせる。それは紛れもなく、僕が子供の頃からずっと慣れ親しんできた歌だった。
「そうです、それ。ロサは僕の故郷なんです。でも……どうして、あなたが?」
「もうずいぶん前になるかしら。ここを訪れるひとが教えてくれたの。小さな頃のあたしは何故だかその異国の歌が気に入って、いつの間にか覚えてしまったのよ」
「その人は、ロサの人?」
「ううん、違う。故郷を持たないひと」
 そのとき。リンカさんの水色の瞳が、ここではないどこか遠くへ思いを馳せるように細められるのを、僕は見逃さなかった。ちらりと窓の外を見やる、何てこともないその仕草が、どうしてか強く目に焼きついた。
 何気なく生まれた沈黙を見計らったかのように、遠くから鐘の音が響く。
「いけない、もうお昼。上を片付けてこなくっちゃ」
 そう言って、リンカさんがいそいそと立ち上がる。
「ここって、リンカさんが一人でやっているんですか?」
「ええ。まぁ、小さなお店だから」
「僕、手伝います!」
 僕は勢いこんで椅子から立ちあがった。
「色々していただいて、ありがとうございました。お金とか全部とられちゃって、何もお礼ができないんですけど……だから、あの。せめて何か、手伝わせてもらえませんか?」
 リンカさんは驚いたように数回目を瞬かせて、それからふわりと優しく口元を緩ませた。
「お礼なんて、全然構わないんだけどね。でも、そうね。せっかくだから、お願いしちゃおうかしら?」
「ありがとうございます!」
 歩き通しでぱんぱんの脚や、頬の痛みも何のその。僕は弾んだ足取りで、二階へ向かうリンカさんの背中を追いかけた。
 ……もちろん、助けてもらったお礼をしたいというのがいちばんの理由。けれど心の片隅には、リンカさんのことをもっと知りたい、もっと話してみたい、という気持ちがくすぶっていたのも否定はできない。
 認めるしかないだろう。それは僕にとって、生まれて初めての"一目惚れ"だった。


  *  *  *


 二階の客室や廊下の掃除を終え、リネン類を整え、干してあった昨日の分を取り込む。それから休む間もなく厨房へ戻り、お客さんに出す夕食の仕込み。そうしているうちに、あっという間に日が落ちて、夜になった。
 普段はこの仕事をリンカさんが一人でやっているのかと思うと、とても信じられない思いだった。
 夕食時。その日の宿泊客は一組だけだったけれど、一階の店は、カウンターに数人、それとテーブル席の半分ほどが埋まっていた。店の方には、近所に住む常連客が酒場替わりに訪れるのだという。
 父の代から変わらないというリンカさんの料理は美味しいと専らの評判――僕も身をもって実証済み――らしいけど、常連さんの目当てがそれだけじゃないような気がするのは、僕だけだろうか?
 その常連さんたちの集まるテーブルの一つに料理を運びにいくと、何やら注目を集めてしまった。
「あんれぇ? 見ねぇ顔がいるなぁ」
 農作業を終えてそのままの格好でなだれ込んだような数人の男の人たちが、遠慮のない視線でめいめいに僕の顔を覗き込んでくる。
「なんでぇ。リンちゃん、手伝い雇うんならおれに声をかけてくれりゃあよかったのに」
「ばぁか。おめぇみたいなガサツな奴に俺らの店を荒らされてたまるかってんだ」
「女将さん、おやっさんが亡くなってからずっと一人でやってきたもんなぁ」
「にしたって、ひょろっこいぼうずだなぁ」
「あの」
 口々に好きなことを喋っては大声で笑う彼らに、僕はすっかり名乗るタイミングに困ってしまった。
「女将さんにお願いして、手伝わせてもらってるんです。南の街道で追い剥ぎに遭って、命からがら逃げてきたところを今朝、助けてもらって。それで、せめてものお礼にって」
「ほぅ、そりゃあ大変だったなぁ」
「そんなひょろっこい身体してるから狙われるのさ。お前、ちゃんとメシ食ってるか?」
「あそこは危ないからなぁ、地元の人間なら日が落ちたら絶対通らねぇんだ。覚えときな」
 それを切りに、彼らの話題が僕のことから離れたようだった。ようやく解放されたと、厨房へ戻ろうと背を向けたその時、強い力でぐいっと腕を引き寄せられた。
「な、なんですか!」
 そのまま、ちょっと耳貸せ、とばかりに手招きされる。
「なぁお前さんよ。ひょっとして、あの女将さんに惚れちまったってんじゃないだろうなぁ?」
 絞った声でひそひそとささやかれたその内容に、思わず肩がぴくりと震えてしまった。
「ちっ……違いますって!」
「お? これは図星か? 図星だな!」
 一人がそう言うと、ガハハハ、と豪快な笑い声がテーブル全体に広がった。
 リンカさんに怪しまれたらどうするのか、とヒヤヒヤしたする僕などお構いなしにひとしきり笑ったその後、先ほど僕を引きとめたあの人が、どこか憐れむような表情を作ってこう言った。
「けどなぁ、ぼうず。こればっかりは諦めるしかねぇんだわ」
「そうそう。気持ちは分からんでもないがさ」
「……どういうことですか?」
「あのひとの心はもう何年も前から、とある風来坊が持ち去ったままでさ」
「んで、こいつも昔振られたクチってわけよ」
 僕はふと、昼間のリンカさんとの会話を思い出した。昔、ロサの歌をリンカさんに教えたという旅人の話。
 ――故郷を持たないひと。
 あの時のリンカさんのどこか遠くを見つめるような表情と、祭囃子の歌を口ずさむ鈴の音のような声が、頭の中で何度も浮かんでは消えた。

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