【第九章:清き泉と空白の花嫁】
巡礼地として知られるヴァスロの町は、秋めく丘に沿って、澄んだ空気の中に浮かぶように佇んでいた。
霧深い森での追っ手との攻防から五日。昼下がりの街角には、特段警戒の敷かれた気配はない。
「……連中、こっちには来てなさそうだな」
そっと声をかけると、イリスは表情を変えぬままうなずいた。
「地図の記載を見る限り、ヴァスロという町は職務上の優先度が最も低い土地に分類されていました。記録局の人間が立ち寄ることがあるとしても、数年に一度の査察程度かと」
「なら、少しはゆっくりできそうだ」
滑らかに敷かれた石畳、つづら折りに丘を上っていく通りの傍らに、小さな宿や土産物店が等間隔に立ち並ぶ。建物の壁は一様に白く塗られ、清廉な雰囲気を醸し出していた。
軒先には丁寧に選ばれた草花の鉢が置かれ、通りにはごみ一つ落ちていない。
美しいが、どこか整然としすぎている――というのが、シュエルの抱いた印象だった。
町の中心には、澄んだ水をたたえる泉があった。
祈りを捧げる巡礼者も、物見遊山の観光客も、目当てはこの泉だ。
泉のほとりには、光を跳ね返すような真白い小さな祠。それらを囲むように設えられた石造りの花壇も、そこに植えられた花々も、一様に白で彩られていた。
「聖地としての歴史は古く、連邦発足以前に遡ります。こちらは正教会の教典にも、記述があったはずです。確か――」
「〝水神さまの花嫁〟ですよ、お嬢さん」
ふいに滑り込んだ穏やかな声。
振り返れば、花壇の縁に腰掛けた老婆が、にこやかにこちらを見上げていた。
「昔々、あるひどい日照りの年のこと……豊穣を司る水神さまの伴侶として望まれ、輿入れをした、一人の美しい娘がおりましたの。ここはその花嫁がその身を捧げ、あちら側へとお渡りになった泉だと、伝わっているのですよ」
曖昧に細められた垂れ目がちのまなざしと、切れかけたゼンマイのような、ゆったりとした語り口。
それでいて、語られる伝承の輪郭は妙にはっきりとしていた。
老婆の話を、待ちきれないとばかりに、辺りにいた人々が口々に引き継いでいく。
「それ以来この泉は、涸れることなく湧き続けているんだ。きっと今もその娘は、水神さまとともにヴァスロの町を見守ってくださっているのだろうね」
「花嫁は、それはそれは美しい娘だったそうよ。その証拠にほら、この町にはあたしみたいな美人が多いでしょう?」
住民とおぼしき若い娘に、巡礼の旅人。
どの口からも、同じ物語。語り口調さえ妙に一致していて、細部の差異がほとんどない。
まるで誰かに語られた物語を、そのまま丸暗記したような奇妙な感触。
「シュエル、あなたはこの伝承を知っていましたか?」
「いや」
シュエルは肩をすくめる。
「悪いが、正教とやらの教えには明るくないんでな。イリスは、知ってたのか?」
「私は……確かに教典の一節として、この伝承を〝知っている〟と、認識していました。ですが……」
言葉を探すような、ひと呼吸分の間。
「……帳面の中に、自分で書いた覚えのない記述を見つけたような――例えるなら、そのような違和感があります」
「つまり、どっかで〝正史〟とやらにすり替えられた、ってことだ」
「……教典を、〝語り〟によって書き換えた? そんなことが……」
イリスはわずかに声を震わせたが、どこか腑に落ちたように小さく目を伏せた。
「記録局の分類上、優先度の低い対象地には二種類あります。一つは、もとより望ましい歴史を辿っている土地。もう一つは、語られた〝正史〟が安定的に定着した土地。……この町は、後者だったということなのでしょう」
人波を縫って、どうにか泉のほとりにたどり着く。
泉の水は不自然なほど澄みきっており、底に沈んだ白石すらきれいに並んでいた。
泉の傍らに設えられた祠もまた、光を跳ね返すようなまばゆい白で構成されている。
整えられすぎた祈念の場。
すべてが〝そうあれ〟と語られた結果のようだった。
「やはり……国史以前の由緒ある聖地というには、年月の重なりが感じられません。整いすぎていて、どこか、作りものめいているとすら」
そのとき――ふ、と。
視界の端で、祠の輪郭がゆらりと揺らいだ。
目を向ければ、ほんの一瞬、真白い祠に漆黒の影が差す。
覆い隠された過去の気配。けれどそれは、〝語り〟の端緒とするには、あまりに淡い。
シュエルはより深く意識を向けようとしたが、泉をひと目見ようと押し寄せる人波がそれを阻んだ。
はじき出されるように泉のほとりを離れ、広場の端でようやく息をつく。
「……伝承にうたわれる花嫁の名前を、誰も口にしなかったな」
泉を囲む人だかりを振り返り、シュエルはぽつりとつぶやいた。
「名を失った記憶は、普通は少しずつ曖昧になって、忘れられていく。なのにこの町には、実体のない〝物語〟だけが、執拗に塗り固められている」
「消された名前がある、と――あなたは、そう考えているのですね」
シュエルは静かに頷いた。
「ほんの一瞬だけ、あの祠の本当の姿が見えた。黒い祠だ。失われた何かをひっそりと偲ぶような、静かな場所だった。……けど、それ以上は視えない」
「……視えない?」
「はっきり読み取れたのは、何かが語りで〝無かったことにされた〟ってことだけだ。その〝何か〟を辿ろうとしても、どっかで糸が切れてるみたいにうまく繋がらない」
「シュエルでも、そのようなことがあるのですね」
しばらく人の流れを見ていると、泉へ立ち寄った旅装の人々は皆、つづら折りの坂をさらに上っていくことに気づく。
「あの、皆さんはこれからどちらへ?」
気の良さそうな老夫婦にイリスが声をかけると、彼らはゆっくりと顔を上げた。
「丘の上の修道院で、あの泉の水を汲んだ〝聖水〟を授けてもらえるんだよ」
「なんでも枯れた花が一晩で蘇ったとか、飲めば五歳は若返るだとか」
にこやかに話す老夫婦を、シュエルは曖昧な会釈で見送った。
「あれ目当ての寄付で潤ってんだろうな。道理で、この辺の整備が行き届いているわけだ」
「寄付、ですか……」
イリスが何かを思いついたようにはたと顔を上げた。
「もしかしたら――その修道院で、何かしらの手がかりが得られるかもしれません」
*
修道院の前庭に設けられた聖水の配布所には、行列ができていた。
そのにぎわいを横目に、二人は修道院の建物を目指し歩いていく。
「寄付については、教会は年ごとの帳簿付けを義務付けられています。そちらをさかのぼれば、〝語られた〟時期が特定できるのではないかと思ったのです」
「なるほどな。けど……そんなもん、余所者にはそう易々と見せてくれないんじゃないか?」
「そこは――私に考えがあります」
そう言ってイリスは、ポシェットの中から何かを取り出した。
指の隙間からわずかにのぞく小さな金属は、シュエルにも見覚えのあるものだった。
「それ、まだ持ってたのか」
「ええ。燃やして処分できるものでもなかったので」
ペン軸を円形に並べて太陽をかたどった、記録局への所属を表す記章。イリスがかつて制服のジャケットに留めていたものだ。
「それで……何をするつもりだ?」
「あなたの〝記録官〟として、私にできることを」
わずかに硬い声音でそれだけ答え、イリスは修道院の扉の前に進み出た。
「ごめんください」
真鍮のドアノッカーを打ち鳴らすと、ほどなくして若い修道士が現れる。
「リューザの金色の陽のもとに、正しき歴史を記録しています。こちらの聖水の配布に関する過去の記録を拝見したいのですが」
「なんだね、君は」
修道士は、あからさまに胡乱げな目をイリスに向けた。
けれど彼女は動じることなく、右手の記章を掲げてみせる。
「〝リューザの金色の陽のもとに、正しき歴史を記録している〟と申し上げました。こちらの院長殿には、それで伝わるはずです」
「はぁ……少々お待ちを」
修道士は不承不承ながら、建物の中へと戻っていく。
「……なあ、イリス。今のって」
「ええ。記録局の定期査察を装いました」
表情ひとつ変えず答えたイリスに、シュエルはしばし言葉を失った。
「お前って……涼しい顔してたまに大胆なことをするよな」
「あなたがこの地を〝語る〟なら、遅かれ早かれ局には把握されます。であるならば、使えるものは使ってしまったほうが手っ取り早いという合理的判断です」
「それはそうだけど」
なぜこの〝判断〟ができて、分かれ道ひとつ選ぶのにも難儀するのか――そんな疑問が口をついて出そうになるが、その前に扉が開かれた。
現れたのは、老獪な笑みをたたえた初老の修道院長。
「どうも、お待たせして申し訳なかったですね。何分、事前の通達もなかったものですから」
声音こそ穏やかだが、言葉の奥には明らかな棘があった。
「その点はお詫びいたします」
「……それにしても、あなたが記録官殿ですか。随分とお若い方だ」
「私の身分を疑われるのでしたら、本局へご確認いただいても構いません。ただ――我々がそうとわからぬ身なりで、こうして予告なしに訪う意味は、院長殿ならおわかりかと思います。開示の遅滞は、少なからぬ疑義につながりますが」
イリスは記章を提示し、淡々と告げる。
修道院長はしばし目を細め、やがてふっと息を吐いた。
「ええ、存じておりますとも。こちらとて、隠し立てするものはございません。――書庫へ案内して差し上げなさい」
「恐れ入ります」
イリスは小さく一礼し、静かに足を踏み出す。
どこまでも無駄のない所作と、眉一つ動かぬ表情。
――彼女がきゅっと握りしめた拳をそっと解き、小さく安堵の息を吐いたことに、シュエルだけが気づいていた。