【第八章:霧の中の攻防】
「……っ」
足を止めると同時に、背後から複数の足音が響く。
振り返れば、黒地に金糸の縁取りが施されたローブをまとう男と、濃紺のジャケットを身に着けた女――イリスにとってあまりになじみの深い、連邦所属の語り部と記録官の制服だ。
「叛逆の語り部シュエル、並びに記録官イリス。中央管理局の命令により、対象を拘束します。抵抗は許されません」
壮年の記録官の女が、抑揚のない声で告げた。
その背後に、銃を手にした武装部隊が並ぶ。
「ずいぶん乱暴な書き換えをするんだな。均された〝正史〟とやらを重んじる連邦の語り部が」
「あるべき〝正史〟に異物は不要だ」
黒衣の語り部が短く答えた。
まだ年若い澄んだ声。黒衣のフードからのぞく灰褐色の髪と鳶色の細い目に、イリスは覚えがあった。
「〝語り部〟ノア……」
ちらりと視線を向けたシュエルに、抑えた声で補足する。
「記録局への登録は二年ほど前、ですが比類なき構文構築の速さを誇り、すでに重要事案をいくつも担う語り部です」
「へえ、当代一と名高いイリス記録官に覚えてもらえてるとは、僕も出世したもんだ」
ノアは愉しげに口角を上げ、イリスを見た。
「記録局はまだ君の価値を買ってる。――灰の区画で記した、そいつの〝語り〟の記録とともに大人しく投降するなら、悪いようにはされないはずだ」
「私は……そちらには戻りません」
「そう。じゃあ、仕方ないね」
ノアの合図とともに、武装部隊が包囲を狭める。
銃口はまだ、下げられたまま。
それでも、揃った足音の圧に思わず肩が震えた。
「――大丈夫だ。〝崩す〟」
低くささやいて、シュエルがイリスを背にかばうように一歩踏み出した。
「なあ、ノアって言ったか。同じ〝語り部〟として一つ聞かせてくれよ。この鉄柵を、〝どこ〟から持ってきた?」
「――なんだ、悪あがきのつもりか?」
黒衣の下で、ノアが口角をゆがめる。
シュエルは視線を外さぬまま、流れるように言葉を継いだ。
「あんたにはどこまで視えた? ――五年前の春の嵐なら、あの雨はもう止んだはずだ。崩れ落ちた道は、とっくにつながってる。川を曲げ、堤を築いた人々の長い年月……それは全部、ここに〝残ってる〟」
(これは……)
その場に居合わせた誰よりも早く、イリスは気づいた。
ただ問いかけるように、呼びかけるように紡がれる言葉の中にひそやかに込められた、世界を〝書き換える〟意志。
――彼の〝語り〟は、すでに始まっている。
張り上げるわけではない、けれど場を制する静かな圧を込めた声。
それは連邦の語り部たちの発声に近い、けれど彼の〝語り方〟としてはひどく珍しいものだった。
「そこの記録官、あんたでもいい。あんたらの記録に、どこまで残ってる? 子どもたちが森を抜け、遊びに使っていた小径。小さな獣が通り、水を探して枝を折った痕跡。何が書き換わったとしても、そういうものは――〝消えない〟」
シュエルの深い藍の瞳が、ほのかに明らんだ。
視界の端で、鉄柵が溶けるように揺らぐ。
異変に気づいた記録官が気色ばんだ。
「――っ、あれは〝構文〟だ!」
「語り部の制圧を!」
武装部隊に指示が飛ぶ。
けれど――。
「古き民は知っていた。――〝そこは水の通り道だった〟ってな」
兵たちの足元から、みるみるうちに水が湧く。
ぬかるみに足を取られ、あっという間に隊列は乱れた。
放たれた銃弾が、むなしく泥の上を跳ねる。
その隙にも、〝語り〟は止まない。
「霧の向こうへ森は続く。
人は歩き、獣は駆ける。
それを妨げる境など、ここには――〝存在しない〟」
世界を定義づける確かな声。
応えるように、鉄柵は跡形もなく消え去った。
その向こうに現れたのは――斜面へと続く細い獣道。
草を踏みしめる音が、確かにそこに刻まれた。
「走れ!」
強く手を引かれ、イリスは駆け出した。
靴の裏に、濡れた土が跳ね、枝がかすかに衣を裂く。
背後で発砲音が響き、ごく近い地面で弾が跳ねた。
「記録官イリスは対象Aに指定されている。絶対に取り逃がすな!」
鋭く飛んだ記録官の声に、どくりと鼓動が跳ねる。
(〝対象A〟……私が?)
けれど、考えている暇はない。
斜面を駆け上がろうとした――そのときだった。
前方の地形が、突如として消える。
「リューザ暦105年、長雨は岸壁を削り、岩々が崩落す。
その時より、本道は鎖されたまま開かれず、行き交う者はなし。
ゆえに現在、かの道は――〝存在せず〟」
霧の向こうで、ノアの淡々とした声が響く。
同時に、視界の端で、金の記録光がまたたいた。
刻まれた新たな〝語り〟が、空間を書き換えていく。
霧が巻き、空気がねじれる。
行く手を遮るように、折り重なる岩々が立ちはだかる。
けれどそこに、シュエルの声が重なった。
「ここには苔むした道があった。
築かれたその日から、何度も季節が巡った。
雨上がり、〝あの子〟はここを歩いた。
まだ幼くて、父親の手を握っていた。
苔に足を取られて、泣いた。けど、進んだ。
いくつもの歩みがあった。
失われた日など、一度としてあるものか」
語りが、語りに対抗する。
塗り替えられた空間に、過去の記憶が浸透し、上書きを始める。
霧が裂け、苔むした道が再び浮かび上がる。
「あっちだ!」
手を引く力が強まる。
イリスはその歩幅に合わせて駆ける。
息が切れても、決して足を止めない。
けれど、相手もまた語る。
「リューザ暦78年、一帯を閉鎖区画に指定せり。
森は拓かれず、根を張る木々は除かれず――」
足元が崩れる。
地面がねじれ、先に続く道が落ちる。
代わりに現れたのは、深い斜面と、行く手を阻む木々。
「くそ……っ」
わずかに焦りを滲ませつつも、シュエルは立ち止まらなかった。
「――ラドミル公の名のもとに、この森は拓かれた。
木こりたちの斧の音を、土は覚えている。
営みをつなぐ道は――今も変わらずここに在る」
語りが、再び空間に抗う。
鬱蒼と茂る森の合間に、わずかにかつての道が姿を取り戻した。
地を蹴る感覚は、もはや曖昧だった。
ただ繋がれた手だけが、確かに〝ここにいる〟という事実を伝えてくる。
跳ねるようにして切り株を越え、霧深い森を抜ける。
「あの岩陰へ!」
手を離し促され、イリスはほとんど足をもつれさせるようにして、せり出した岩の下へ駆け込んだ。
シュエルは振り返り、霧の向こうを見据えると――〝語った〟。
「彼らは足音を追って分かれ道を折れた。
霧深いこの場所を振り返る者は誰もいない。
森は思い出す。
切り拓かれた道、埋められた川。
ひとつひとつ、積み上げられた歴史を。
この騒乱はすべて――〝白昼夢だった〟と」
息を切らせ、半ば絞り出すように語る言葉が、空気に染み込んでいく。
膝をつき座り込んでいたイリスは、はっと顔を上げ、帳面と万年筆を取り出した。
素早く筆を走らせ、紡がれた語りを追いかけるように書き留めていく。
強い金の光が浮かんだ瞬間、辺りを包む霧が一段と深まった。
その向こうで、遠ざかっていく足音。かすかな地響きと、どこかで水の流れる音。
紙面の上で和らいでいく光を見つめながら、イリスはようやく息をついた。
「書き換えられた道を、戻したのですね」
「逃げ回っても、きりがなかったからな。うまく効いてれば、ここに俺たちが居たって記憶ごと曖昧になる」
シュエルはイリスの隣に腰を下ろすと、深く息を吐いた。
「イリスの〝記録〟もついてる、そう簡単には剥がされないはずだ。――しばらく、ここで休んでいこう」
それきり彼は、岩肌に背を預け、瞼を下ろし黙した。
刻々と書き変わる過去と今を見据えながら、道なき道をつなぎ、ここまで駆けた。その疲労はイリスの比ではないはずだ。
強く手を引かれた感触が、まだ掌の中に残っている。
「……あの連中の言い方、聞いたか?」
しばらくして、シュエルが抑えた声で問いかけた。
イリスは、視線を落としたまま頷いた。
「〝対象A〟――そう、呼ばれていました」
その言葉の響きは、はっきりと耳に残っている。
「記録局に保管されている国家記録に付与された閲覧制限のうち、最も厳重な分類です。局内においてその存在すら伏せられている、最重要機密――」
声に、かすかな震えが混ざる。
「……私が、なぜ?」
身に覚えはない。けれど確信を持てないのは、自身の記憶が欠落しているためだ。
「記録官となる前に、何かがあった? 思い出せない記憶の、どこかに……」
――あるいは〝記憶がない〟という状態そのものが、意図的なものであったとしたら?
疑問が、連なっていく。
「考えたって、今は答えは出ない」
シュエルの声は落ち着いていて、どこか諦念にも似ていた。
イリスは緩慢な仕草で顔を上げる。
「あいつらが何を知ってて、何を隠してるか。……それがわかる時が来るとしても、それは、俺たちが生き延びて、語って、記録して――そっちの〝物語〟を、先に繋いだ時だ」
彼の言葉は淡く、しかしはっきりと続いた。
「だから、心配すんな。道は、俺が開く」
岩の向こう側で、霧がゆっくりと晴れていく。
「……はい」
息を吐くように、イリスはそっと応えを返した。