【第十章:燻る真実】
イリスが書庫から戻ってきたのは、時を告げる鐘の音を一つ数えたころだった。
見送りの修道士へ一礼し、無言で合流する。
肩を並べて歩を進め、建物からいくらか離れたころ、イリスが口を開いた。
「〝聖水〟にまつわる帳簿の記録は、最も古いものでリューザ暦八十三年……四十六年前までのものしか見つかりませんでした。それも、その年を境に、初めからまとまった額で推移していました」
イリスは歩調を緩め、ポシェットから帳面を取り出した。
「あの一帯に修繕が行われたのも、その少し前。修繕というより、一から作り出すような規模といえます。――〝花嫁の泉〟の逸話は、いにしえの伝承などではなく、半世紀前に〝植え付けられた〟偽りの物語です。記録局にとって隠しておきたい何かが、その時期にあったと考えてよいでしょう」
開かれた頁は、小さな文字と数字でびっしりと埋め尽くされている。
几帳面さがにじむその筆致に目を細め、シュエルはぽつりとつぶやいた。
「よくもまあ、短時間でこれだけの情報を引っ張ってくるよな」
「調査と観測も、記録官の職掌ですから」
淡々と答える口元のわずかな綻びに、おや、と思う。
彼女の極端に振れ幅の狭い表情の変化において、それは微笑とも取れなくはない。
「……何か?」
知らず注視してしまっていたらしく、イリスが怪訝そうに眉を寄せた。
「いや。なんか、嬉しそうだなって」
「自分の仕事を認められることには、相応の充足感はあります」
青灰色の瞳に宿るのは、記録官の制服に身を包んでいた頃の、温度のない揺るがなさとは違う、内に宿した意志の光。
『――私が、あなたの記録官になります』
そう告げたあの夜から、彼女はよくこういう目をする。
(……巻き込まないつもりだったんだけどな)
肩を並べ、同じ方向を向く相手がいる。
すべてを失い、〝語り〟の力を宿したあの日から――あてのない道をひとり歩いてきたシュエルにとって、その実感にはどこか不思議なこそばゆさがあった。
「なら、次はその五十年前にあった〝何か〟を探ってみるか」
「それに関してですが――ひとつ、思い出したことがあります。ちょうど五十年ほど前、この町の統治形態が変わっているのです」
「……へえ?」
シュエルは小さく眉を上げ、続きを促す。
「この辺りの地域は連邦への編入以降も、しばらくは旧ラドミル公爵家による代理統治が続いていました。ですが、およそ五十年前を境に公爵家は解体され、連邦直属の行政府が置かれたのです」
記憶を手繰るように、イリスの視線が彼方へと向けられる。
「最後の公爵の名は、ヴェルナー・ラドミル。〝悪魔公〟と呼ばれ、重税に気まぐれな処罰と、暴政の限りを極めたのだとか。それゆえに、直轄統治への移行は民衆に歓迎され、これといった混乱も見受けられなかったと伝わっています」
「それだけ聞くと、いかにもよくできた〝正史〟の筋書きって感じがするけどな」
修道院の門を後にし、つづら折りの坂を下っていく。
白を基調に整えられた、どこか作りものめいた街並み。
「……泉の周辺だけじゃない。この辺りも、妙に造りが新しいよな」
そうつぶやいたとき――。
ふいに、吹き抜ける風が強い熱を帯びた気がした。
眼前に炎が迫りくるような感覚に、思わず足が止まる。
「……シュエル?」
傍らのイリスの声に、わずかに意識を引き戻された。
(これは……〝今〟じゃない)
そこにあるのは、かすかな〝過去〟の呼び声。
その切れ端を離さぬよう、シュエルは静かに目を伏せた。
――炎が、街を舐めていた。
屋根から屋根へと燃え移り、乾いた木材は爆ぜ、火の粉が夜気に舞い上がる。窓という窓から赤い舌がのぞき、通りは熱に歪んでいた。
その中を、粗末な身なりの者たちが駆けている。
手にしているのは、鍬や棍棒、刃こぼれした刃物。統率とはほど遠い、ただ勢いだけの集団だった。
対して、街路の一角から進み出たのは、整然と隊列を組んだ連邦中央軍の兵士たち。
統一された装備、揃った歩調。
盾が前に出て間合いを詰め、ためらいなく打ち据える。
衝突は、長くは続かなかった。
一人が倒れ、また一人が武器を落とす。
人々の抵抗は形を失い、騒乱も火も淡々と鎮められ、街は煙に包まれた。
くすぶる残骸の中、縄で拘束された者たちが地面に膝をつかされていた。
先ほどまでの熱気が嘘のように、辺りには奇妙な静けさが落ちている。
その前に立つのは、貴族らしい整った身なりの男。彼は軍の士官と低く言葉を交わしていた。
そのやりとりに割り込むように、声が上がる。
『話が違う!』
拘束された者たちの中から、若い娘が顔を上げた。
『なんで……なんであんたがそっち側にいるんだ! この町を変えるために力を貸してくれって言った、あの言葉は嘘だったのか?』
まっすぐに投げつけられた言葉。
けれど男は、眉をわずかに動かすだけだった。
『このような卑しい暴徒たちと関わった覚えはない』
『っ、あたしたちを騙してたっていうの? あんたが――』
身をよじって暴れる娘を、兵士が押さえつける。
小手に覆われた拳が彼女へ向けて振り上げられた、そのときだった。
『お待ちなさい』
声が響いた。
澄んだ、涼やかな声だった。
兵士の動きが止まり、視線が一斉に声の主へと向けられる。
煙の向こう、群衆の間から、一人の少女が歩み出る。
丁寧に梳られた豊かな金の髪、煤ひとつついていない絹のワンピース。
荒れ果てた焼け跡にそぐわない、整った身なりの令嬢だった。
『貴族街に火をつけたのは、わたくしです』
その言葉に、波紋のように動揺が広がっていく。
『……あ、アイリーア様? 一体、何をおっしゃるのです?』
狼狽する貴族の男。
捕らえられた粗末な身なりの者たちは、また別の名を呼んだ。
『……リーア様?』
『おい、あれって聖女リーア様だよな?』
『アイリーアって、ラドミル公爵家の? まさか、あの方が……』
アイリーア、あるいはリーアと呼ばれたその少女は、ざわめきの中心で、薔薇色の唇をふわりとほころばせた。
そして――笑い声を上げた。
高らかに、響くように。
『だって、何もかも嫌になってしまったのですもの』
声音は軽やかで、あまりにも場違いだった。
『この窮屈な町も、醜く肥え太ったお父様も、飾られたお人形のような人生も。……だから、すべて無くなってしまえばいいと思ったのですわ』
兵士たちの間に、わずかなざわめきが走る。
理解と判断の間に、かすかな遅れが生じていた。
拘束された娘もまた、信じがたいものを見るようにかぶりを振る。
『ちょ、ちょっと、リーア!? 何言ってるの? まさかあんた、あたしたちを庇おうだなんて――』
言い募る娘を、少女の視線が制した。
強い圧ではない。
静かな光を宿した、琥珀色の瞳。
場の中心に立つ少女は、ゆっくりと周囲を見渡した。
兵士たち。
貴族の男。
膝をつかされた貧民たち。
そして、その向こうに広がる煤けた街並み。
すべてを一度、確かめるように。
そして――告げる。
『〝この町に叛意を持つ者などおりません。蜂起などはなかった。ただ、わたくしの気が触れただけ〟。――そのようにしておいた方が、あなた方もご都合がよろしいのではなくて?』
その言葉には、〝力〟があった。
言葉に、声に意志を乗せ、世界の深層へと届かせる。
その作用を、その力を――シュエルはよく知っている。
焼け焦げた街角の輪郭が淡く揺らぎ、人々の表情は曖昧に霞んでいく――。
――目を開けた。
けぶる焼け跡から、整えられた街並みへ。
日差しを跳ね返すまばゆい白壁に、シュエルは薄く目を細めた。
「……視えたのですね」
確信を込めたイリスの問いかけ。
シュエルはうなずいた。
「五十年前――町のこの辺り一帯が焼失してる。ある貴族が、ヴェルナーの圧政に不満を持つ貧民街の住人たちを扇動して反乱を起こさせ、火をつけさせた。その貴族は公爵家を排除したがってた連邦中央と裏でつながってたらしい。連邦軍が乗り込んできて、反乱はあっけなく鎮圧。貴族はしらばっくれて、貧民たちは切り捨てられたって形だ」
イリスがわずかに眉を寄せた。
「では……それが、記録局の〝語り〟で覆い隠された過去?」
「いや、違う。その過去は〝書き換えられた〟。記録局の連中が介入するより、ずっと前にな」
「書き換えられた……それは、」
何かに思い当たったかのようなイリスのまなざしに、シュエルは静かに答えた。
「この町には、〝語り部〟がいたんだ」