【第七章:二つに一つを】
しんと冷えた森の中、琥珀色やあかがね色に彩られた葉の隙間から、淡い日差しが差し込んでいた。
いくつかの峠を越え、冷え込みの強まる夜を数度過ごすうちに、季節は確かに進んでいた。
山道に積もる落ち葉は日に日に厚くなり、旅路を急かすように、足元で乾いた音を立てるようになった。
世界は秋の盛りを迎え、ゆるやかに冬へと向かっていく。
旅の初めに目的地と定めたロクの村までの道程は、残り半分といったところだった。
頬に触れる空気は、歩みを進めるごとに湿り気を帯びてくる。近くに湖があるためだろう。少し先の木立が、気づけば白く霞がかっていた。
しばらく進んでいくと、薄い霧の向こうに古びた木の道標が現れた。
その手前で、道は二手に分かれている。
「分かれ道、か」
かすれかけた道標に目を細め、シュエルがぽつりとつぶやく。
イリスは、ポシェットから手早く地図を取り出した。
道標に記された地名と、地図上の記載を交互に見比べる。
「いずれも湖の外周を周り、北西へと抜ける道になります。道標の通りなら、どちらへ進んだとしても、今日中に最寄りの町に行き当たる距離……ゆえに、道程にさほど差異はないかと」
「なるほど。じゃあ、イリスはどっちに行きたい?」
さらりと投げかけられた問いに、イリスは思わず眉を寄せた。
「……私が、ですか?」
「そう。どっちへ行っても変わらないなら、イリスが行きたいって思った方に進んでみようかなって。旅の目的地は、俺が勝手に決めちゃったしな」
イリスは再び、視線を地図の上に落とした。
左に折れて湖の南西を回る経路、右へ折れて北東を回る経路をそれぞれ指先で辿りながら、経路上で行き当たる地名を、幾度となく胸の中で反芻してみる。
けれど――。
「……何も浮かびません」
その申告に、シュエルがふっと目元を和らげた。
「そんな真剣に考え込まなくてもいいと思うぞ? どっちでも構わないってことは、適当に決めたっていいってことだ」
「……適当に、とは?」
「あー……そっか、そうなるか……」
シュエルは灰金色の髪をくしゃりとかき上げ、そのまま頭を抱えてしまった。
(……また困らせてしまった)
旅の初め、身につける服ひとつ自分で決められず、途方に暮れたことを思い出す。
何かを〝選ぶ〟ことは、イリスにとって、時にひどく困難を伴うのだ。
こういうとき、自分の中に横たわる空白を殊更に思い知らされる。
「そうだな、じゃあ――」
シュエルはふと何かを思いついたように、外套のポケットを探った。
「こいつに聞いてみるってのはどうだ?」
そう言って彼は、銅貨を一つ取り出し、右手の側面に載せると、親指の先で宙に弾き上げた。
回転しながら真っすぐに落ちてきたそれは、掌の中に吸い込まれるように収まる。
「表が出たら右、裏が出たら左、ってことで」
「……やってみます」
イリスは戸惑いながらも、差し出された銅貨を受け取った。
彼がしていたように人差し指の側面にそっと載せ、勢いをつけて親指で弾いてみる。
真上に弾き上げたはずが、思いがけない軌道を描いて落ちてきたそれを、手を伸ばしてどうにか捕まえた。
きゅっと握り込んだ手元を見つめながら、思いがけず鼓動が少しだけ速くなる。
この手を開いて待っているのは、二つに一つの偶然でしかない事象。
けれども、それが今――。
(私は……楽しい、のかもしれない)
不思議な高揚感の中で、イリスはそっと掌をほどいた。
現れたのは、リューザ連邦の国章である、円環を描く二匹の蛇――〝表〟だ。
そう認識した直後。
ふいに――足元の感覚が揺らいだ。
「イリス!」
強く腕を引かれ、もつれるように足を踏み出す。
鈍い地響きに振り返れば、先ほどまで立っていた地面に、大きな陥没が広がっていた。
はずみで取り落とした銅貨が、奥底に呑み込まれていく。
あと一瞬遅ければ、自分も同じ運命を辿っていた――その想像に、すっと背筋が冷える。
「〝語り〟による書き換えだ。――多分、近くにいる」
イリスは硬い表情のまま、こくりと頷いた。
この森のどこかに、自分たちを追う者がいる。
「あの街道を〝書き換えて〟ひと月、そろそろ足取りを辿られるころだろうとは思ってた」
これまで来た道も、分かれ道の片方も、陥没によって塞がれた。
唯一残された、湖の北東を回り込む道を、周囲を警戒しながら足早に、けれど慎重に進んでいく。
歩みを進めながら、イリスはかすかな記憶を手繰り寄せた。
「この辺り、確か……旧ラドミル公国時代に大規模な灌漑が行われ、以降もたびたび修繕が繰り返されている土地だったはずです」
「つまり、それだけ書き換える〝材料〟が多いってことか。……厄介だな」
その言葉に、イリスはきゅっと拳を握り込んだ。
こうして踏みしめる道も、また書き換えられるかもしれない。
周囲に視線を走らせながら歩いていると、シュエルがふと振り返るように問いかけた。
「どっちだった? さっきの」
「……え?」
「コイン」
イリスは数秒の間の後、答えた。
「……表、でした」
「そっか。じゃあ道は合ってる。大丈夫だ」
場違いなほどに落ち着いた声だった。
――分かれ道の片方を塞がれ、追い込まれた。たとえそれが自明の事実だとしても。
その言葉は、ほんの少しだけ、イリスの足取りを確かなものにした。
「……はい」
小さく答え、その背に続く。
しばらく無言の歩みを進めたころだった。
目の前に突如として錆びついた鉄柵が生え、行く手を塞いだ。