【第六章:記す者の決意】
木々に囲まれた街道の脇、わずかに開けた草地に、焚き火の赤がにじんでいた。
風に煽られぬよう、石を集めて囲った簡素な炉の中で、火は穏やかに燃えている。
炎を囲む二人に言葉は少なく、近くを流れる沢の音と、火のはじける音だけが空気を満たしていた。
イリスもシュエルも、互いに多くを語らない。
こうして野営の火のそばで過ごす夜は特にそうだ。
シュエルは大抵、小さな木片を手に木彫りをしていたり、その道具の手入れに勤しんでいたりする。
今夜、彼の手にあるのは見慣れた木彫りのナイフではなく、小さな針だった。年季の入った濃灰色のコートを膝の上に広げ、袖口の小さなほつれを丁寧に繕っている。
イリスはといえば、大体、何かを書き綴って過ごしている。心に浮かぶ考えや、書き残しておきたい出来事があると、気づけば筆記具を構えていることが常だった。
けれど――今夜は少し違った。
膝の上に広げた帳面の白紙を前に、万年筆の蓋は閉じたまま、ただ思考だけが深く、内側に沈んでいく。
「……文字も書かないのに、帳面とにらめっこか。怖い顔してるぞ」
苦笑交じりの声に、顔を上げる。
こちらに向けられたシュエルのまなざしは、温かかった。
焚き火のぬくもりが手伝ってか、あるいは――。
幾晩かをともに過ごす中で、イリスはふと気づいたことがある。
こうして黙々と手を動かしているとき、彼のまとう空気は、ほんの少し柔らかくなるのだ。
〝語り部〟ではない、一人の少年の横顔がそこに見え隠れする。
その緩やかな空気が、イリスの引き結んだ唇をそっと解いた。
胸の奥に灯した決意を、今なら手渡せる気がした。
「あなたに、伝えたいことがあります」
ぱちりと、炎の澄んだ音がはじける。
「私を、あなたの記録官にしてほしいのです」
「……どういうことだ?」
唐突な言葉に、シュエルが針を手にしたまま眉を上げた。
「記録の役割は、〝語り〟を媒介層に固着させることだけではありません。語られた歴史を文字という形に残し、守ることでもあります。たとえ、あなたの〝語り〟に記録が不可欠ではないとしても――その意味において、私が記す意味はあるはずです」
イリスは、膝の上に広げていた帳面をゆっくりと閉じた。
真っすぐに顔を上げ、言葉を続ける。
「あなたの語った言葉を、誰にも書き換えさせないための、唯一の記録として……私が、守りたいのです。いえ、守り抜いてみせます」
しばしの沈黙が落ちた。
炎の爆ぜる音だけが空気を揺らす。
温かく響いていたはずのその音が、いつしか張り詰めた静寂を際立たせている。
シュエルは静かに針を置き、深く息を吐いた。
「……叛逆者がどんな目に遭うか、〝あっち側〟にいた人間なら、よくわかってるはずだ。――それでも、あんたの筆は動くのか?」
炎越しに向き合う彼のまなざしは、射抜くように真っすぐで、鋭い。
それでもイリスは、ひるまなかった。
「確かに、私があのとき独断であなたを助け、記録局を離反する結果となったのは、決して熟考に基づいた行動ではありません。……だからあなたは、私を巻き込んでしまったと――そして、これ以上巻き込まないようにしようと、考えている」
その指摘に、シュエルの深い藍の瞳がかすかに揺れる。
イリスは、目を逸らさなかった。
「でも、それは違います。私はあなたの語った記憶を、あなたという語り部を、守りたいと思ったから、ここにいます」
しんとした夜気の中に、決意の声が落ちた。
「私が、あなたの記録官になります。――あなたが〝語る〟場所で、私は記す。そう、決めました」
シュエルは数秒、何かを見定めるように目を細め、こちらを見つめていた。
やかて、どこか諦めたように、ふっと息を吐く。
「……そっか。イリスは、とっくに自分で選んでたんだな」
声は優しく、確かな信頼がにじんでいた。
「けど……本当に、戻れなくなるぞ?」
イリスは、炎を挟んでまっすぐに彼を見返した。
「それでも、これが私のやりたいことだから。……初めて、やりたいと思ったこと、だから」
「……わかった」
シュエルのまなざしが、かすかに和らいだ。
「じゃあ――よろしくな。俺の〝記録官〟さん」
その言葉に、イリスの睫毛がふるりと震えた。
「……わかりました、シュエル」
名を呼ばれた瞬間、彼の目がかすかに動く。
ゆらめく火の傍らで、その名ははっきりと響いた。
「名前、初めて呼んだな」
「……そう、みたいですね」
その響きを反芻するように、イリスは小さく目を伏せた。
呼ぶという行為が、こんなにも確かで、こんなにも温かいものだとは――知らなかった。