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【第五章:塗り潰された街道(後)】

 


 ネーリルの町の広場の片隅で、イリスは石段に腰掛けるようにして佇んでいた。
 陽はわずかに高くなり、空は青みを増している。
 町は早朝よりいくらか人通りが増えていたが、それでも、にぎわいと呼ぶには程遠い。
 うつむいた頬にかかる髪を、乾いた風がふわりと揺らしていく。

 

『――必要ない』

 

 シュエルのその言葉が、しんと胸の奥に響く。
 突き放されたのではない。
 守られた。そう理解している。
 だからこそ、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
 連邦の記録官という身分を捨てた、それだけでどこか、シュエルと同じ場所に立ったような心持ちでいた。
 けれど、こうしていつでも引き返せる場所にいる。その距離を彼は冷静に見定めて、イリスに無用な咎が及ばぬようにした。
 ひとかけらの迷いもなく、誰かや何かのために〝語る〟ことを選び、ともすれば殉じる覚悟さえ持ち合わせている。
 彼がなぜそのような生き方を選んだのか、イリスは知らない。
 ただ、その揺るぎなさは――どこまでも〝独り〟だ、と思う。
 膝の上に乗せたポシェットを、きゅっと握りしめた。

 

 そのとき、ふと――風が、止んだ。

 

 刹那、空気の匂いが、ほんのわずかに変わったような気がした。
 車輪と蹄鉄の音が、ごく近い距離から響く。
 イリスは、はっと顔を上げ、町の西門を振り返った。
 朽ちかけた柵で閉ざされ、寂れた町外れの様相を呈していたはずのその場所から、重そうな荷馬車が入ってくる。
 通りには、旅装の人々が何人も行き交っていた。
 その表情には、疲労の中にもどこか明るい活気があった。

 

(変わった)

 

 瞬間的に、そう確信した。
 何かが、根本から〝語り直された〟のだと。
 そのとき、背後から草を踏む音が近づいてきた。
 振り返ると、こちらへ歩を進めるシュエルの姿があった。
 差し込む日差しを受けて、くすんだ髪に淡い金色が透ける。
 光の中でほんの一瞬、その輪郭が揺らいだように見えて、イリスはわずかに目を細めた。

 

「待たせたな」
「……いえ」

 

 イリスは短く応じた。
 いくつもの感情が胸の内に浮かんだが、そのどれも、言葉の形にはならなかった。
 立ち上がり、シュエルと肩を並べるように歩き出す。
 その足はどちらからともなく、市場の中心部へと向いていた。
 互いに言葉にはしなくとも、何かを確かめたい思いがそこにはあった。
 市場は昨日訪れたときよりも開いている店が増え、店先には瑞々しい果物や、この辺りでは珍しい魚の塩漬けなども並んでいた。
 やがて、あの小さな雑貨屋の前に差しかかる。
 見覚えのある店構え――けれど、棚の並びが昨日とは少し違っていた。
 品物の数が増え、店先に立つ店主の横顔は、どこか晴れやかに見える。
 やがて、店主の視線がイリスたちを捉えた。
 小さく頭を下げると、どこか曖昧な会釈が返ってきた。
 どことなく親しみを覚える、けれどその正体をはっきりとは思い出せない――そんな温度感の表情だった。

 

「昨晩のことは……やはり、書き換わってしまったのでしょうか」
「けど、全部無くなったわけじゃない。俺たちは憶えてるだろ」

 

 そのとき――戸口の影から、あの少年がそっと顔を出した。
 その手には、昨晩シュエルが彫った小さな木馬が、しっかりと握られている。
 目が合った瞬間、幼子はぱっと笑顔を咲かせ、ぶんぶんと手を振ってみせた。
 隣で、シュエルが小さく手を振り返す。
 和らいだまなざしには、安堵にも似た色がうかがえた。 

 

「そろそろ、行くか」

 

 そう言って静かに踵を返す彼の背に、イリスも続いた。
 幼子の笑顔が、まぶたの奥に淡くともっていた。

 


 


 町を離れてしばらく、二人は緩やかな山道を進む荷馬車の上にいた。
 往来の戻った街道。その分かれ道まで、荷台に乗せてもらえることになったのだ。
 陽はまだ高く、午後の光がゆるやかに道を照らしていた。
 山の斜面を縫うようにして伸びる街道には、時折、行き交う旅人の姿も見えた。
 舗装の戻った道の上、荷馬車の車輪は軽快に回る。
 積み荷の間に腰かけたイリスは、鞄から包みをひとつ取り出し、広げた。

 

「今朝、雑貨屋の奥様にいただいたものです」

 

 小ぶりの黒パンと、乾いた木の実。
 様変わりした風景の中に、あの朝の続きがこうして形に残っているのは、どこか不思議な感覚だった。
 包みを差し出した彼女の微笑みを、温かな声音を、少しでも覚えていたいと思う。
 記録官として、これまで幾例もの〝語り〟による書き換えを観測してきたけれど、切り離された過去へこうした感慨を抱くのは初めてのことだった。

 

「……ずいぶん前のことみたいだな」

 

 黒パンを手に取り、シュエルがしみじみとつぶやく。
 イリスはうなずき、小さな木の実をひとつ口に入れた。かみしめると、優しい甘さが広がった。
 食事を終えると、イリスは荷馬車の揺れにあわせてバランスを取りながら、膝の上に帳面と地図を広げた。
 よみがえった街道が、地図上にも確かに記されている。
 イリスはそこに、〝フィレナ〟の名を書き込んだ。
 地図を折りたたみ、今度は帳面に筆を走らせる。
 ――〝語り〟の場に、立ち会うことはできなかった。
 それでも、シュエルが話したあの場所のかつての風景を、少しでも書き留めておきたかった。
 語られた言葉も、彼の声音も、表情も。
 しばらくその作業を無言で見つめていたシュエルが、ぽつりと漏らす。

 

「……すごいな。〝語り〟の記録じゃなくても、こんなに細かく書き込むのか」

 

 彼の声には、わずかな敬意の色が混ざっていた。
 イリスは手を止め、顔を上げた。

 

「染みついた習慣のようなものです。記憶の始まりから、ずっと職務として繰り返してきた行為なので」

 

 そこまで言って、イリスは少しだけ目を伏せた。

 

「……私には、何もできません。あなたの〝語り〟に対しては」

 

 声に、静かな痛みが宿る。

 

「本来、〝語り〟と記録は不可分のものです。記録を伴わない〝語り〟は、不安定で危うい。ひととき書き換えが成立しても、もとの歴史がすぐに揺り戻してしまう……そのはずなのに」

 

 イリスはちらりと視線を巡らせた。
 均された道は、山を越え、起伏の緩やかな丘陵地へと続いていく。
 奪われたことなど一度もなかったかのように、その風景は、淡々とそこに在る。

 

「……なぜ?」

 

 嘆息にも似たつぶやきが落ちた。

 

「さあな。俺の方が聞きたいくらいだ」

 

 傍らで、シュエルが困ったように肩をすくめる。

 

「記録官の目から見て、連邦の語り部と俺は、何が違うんだ?」

 

 イリスはしばし黙考し、答えた。

 

「強いてひとつだけを挙げるなら――構文の〝型〟だと思います」
「……型?」

 

 イリスは静かに頷いた。

 

「語り部制度においては、用いる構文の様式が決められています。〝語り〟としての宣言、明確な定義付け、語調――何がどう媒介層に作用するか、観測と検証が日々繰り返され、局内において共有されます。あなたの場合、すべてがそこに当てはまらない。けれど確かに、現実を書き換えている」

 

 シュエルが、ふと顔を上げた。

 

「なら……俺の〝構文〟とやらの法則が読み解かれてしまったら、いずれは連中に上書きされる可能性があるってことか?」
「理論上はそうなります。その解析のために、私はあなたへの聴取を命じられたので」

 

 イリスはそこで、帳面を抱く手にわずかに力を込めた。

 

「私は、語り直されるべきではないと思ったのです。あなたの言葉も、あなた自身も」
「そっか。……だから今、ここにいるんだよな」

 

 それは、しみじみとこぼれ落ちたような言葉だった。
 しばらくの沈黙。 
 荷馬車の揺れに身をゆだねながら、イリスは、帳面の革表紙をそっと撫でた。

 

「……私は、あなたの〝語り〟に立ち会わなかったことを、後悔しています」

 

 その言葉に、シュエルは何も返さなかった。
 荷馬車はゆっくりと坂を登り、その先で分岐の標を越える。
 二人はそこで降ろしてもらい、振り返って軽く礼を述べた。
 馬車はそのまま、南へ下る街道の先へ消えていく。
 暮れ始めた空の下、風が木立をさわさわと揺らしていた。

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