【第5章:塗り潰された街道(前)】
山裾に近づくにつれ、風景は次第に静まり返っていった。
鳥の声さえどこか遠く、通り過ぎる風の音だけがやけに耳につく。
ふと――踏みしめる地面の感触がわずかに変わったような気がして、シュエルは足を止めた。
砂利交じりの土の間に、明らかに人の手が入った形状の石が覗いている。
靴の底で土を払うと、規則的に均された敷石が現れた。
馬車の轍に沿うように帯状に敷かれた舗装路には、ところどころに、車輪を取られそうな大きな欠けが点在していた。
「……違和感があります」
しゃがみ込んで敷石の欠けた部分を注視し、イリスがぽつりとつぶやく。
「石の欠け方が、あまりにも規則的です。自然に壊れたものとは思えません」
「誰かが故意に壊した、って方がしっくりくるな」
そう応じて、シュエルは道の奥をじっと見据えた。
敷石の帯は、途中から砂利と土に埋もれるようにして途切れている。
周囲には、風雨で流れ着いたと思しき枯れ枝の山がそのまま積み上がっている。
足を踏み入れた者を引き返させようとする意図が、そこかしこに滲んでいた。
「けど、ここまではただの小細工だ。〝語り〟じゃない。本当に消されたものは――多分、この先にある」
歩みを再開し、しばらく過ぎたころだった。
――ふ、と。
視界が二重にぶれる感覚に、シュエルはわずかに息を詰めた。
(――過去に呼ばれた)
その感覚を、シュエルはそう称している。
語り均された歴史と、本来の過去が重なる場所に足を踏み入れたとき、それは訪れる。
足を止め、わずかに目を伏せれば、かつてここにあった風景が、失われた音と匂いが、思考の内側に滑り込んできた。
――双翼の御使いの影。
――地に伏し祈る僧侶。
――回る車輪の音。
――流された血の痕。
――手向けられた無数の花。
「……何か、視えたのですか?」
傍らのイリスから、ためらいがちに声がかかる。
シュエルは頷き、視線をゆっくりと左前方に向けた。
「あれが――女将さんが言ってた、〝フィレナの双翼の丘〟だ」
小高く盛り上がった地形を指差す。
そこには、いくつかの岩が不規則に折り重なっていた。
「……ここが、巡礼者の聖地?」
イリスがいぶかしげに眉を寄せる。
特別な標や囲いなどもなく、一見して雑然とした岩場にしか見えない。
「さっき〝視えた〟通りなら、こっち側に答えがあるはずだ」
そう言ってシュエルは歩き出し、岩場の反対側へ回り込む。
イリスも不承不承に続いた。
そして、小さく目を瞠った。
「双翼の、御使い……」
東の空から差し込む朝の日差しが、岩々をかすめ、荒れ果てた道の上に影を落としている。
影はちょうど、翼を広げた〝御使い〟を想起させる姿を象っていた。
「巡礼者たちは、この影を〝フィレナの双翼〟と呼んで、祈りを捧げていたんだ」
「……教典には、そのような記述はないはずですが」
「だからこそ、消しやすかったんだろうな」
シュエルはそう告げて、まだ低い位置にある陽を振り仰ぐ。
「フィレナの名が〝消された〟きっかけは、今から五年前。この場所で地に伏し祈っていたとある僧侶を、連邦の査察官が乗った馬車が轢いてしまった。……馬車は、それでも止まることはなかった」
イリスが小さく息を呑む気配がした。
シュエルはふと、視線を足元へ落とした。
かすかに黒光りする石板が、土砂の間から顔をのぞかせている。
何も書かれていない――いや、あるべき名の消された標。
その不自然な空白を見つめ、言葉を続ける。
「僧侶はネーリルの町で手当てを受けたが、その甲斐なく亡くなった。痛ましい事故が起きたこの場所に、町の人たちは手向けの花を絶やさなかった。それで、街道を通る人々に事故のことが少しずつ広まり始めた。――国教たるリューザ正教の敬虔な信徒を、当局が見殺しにした、ってな」
声が、自然と低く落ちた。
「はじめに試みられたのは、この事件の隠蔽。けど、すぐに綻びが出た。だから――フィレナの民間伝承そのものを〝無かったことにした〟。この道を鎖し、〝語り〟によって人々の記憶を濁して、ここは固より通れないものだと刻み付けたんだ」
「……それは、」
淡い日差しの中で、イリスの唇がかすかに震えた。
「当局への不信の芽を摘むことが、国の安定と民の平穏に資すると――そのような価値判断だったのでしょう。ですが……」
伏せられていたまなざしが、ふっと上向く。
「私には、これは、単なる罪の隠蔽としか思えません」
そのとき、彼女の灰青の瞳に宿った光に、シュエルはしばし目を細めた。
ためらいながらも、はっきりと己の意思を口にするその様は、あの薄暗い尋問室で対峙した無機質な記録官とは、明らかに異なって見えた。
「この道を、記憶を、ネーリルの人たちに返したい。ここは、本当に通れなくなったわけじゃない。ただ忘れさせられているだけだ。なら、〝語れば〟戻るはずだ」
「……承知しました」
そう答えたイリスの手が、ごく自然にポシェットの中の筆記具へと向かう。
けれどシュエルは、静かな声で告げた。
「イリスは――一度、町に戻っていてくれないか」
イリスは手を止め、わずかに眉を寄せた。
「なぜ……ですか?」
「これだけ大がかりに塗り潰された歴史をひっくり返すとなれば……うまくいっても未遂でも、連邦に対する明確な叛逆行為だ。そんな〝語り〟に関わったら――いや、俺が口にした語りの一つでもあんたが覚えていたら、それだけで十分、罪に問う理由になる」
「……ですが、記録は」
「俺の〝語り〟には必要ない。……そう言ってたよな」
突き放すような言葉に、イリスの目が小さく見開かれた。
虹彩の中心に宿る空色に、痛みのような揺れが走る。
わずかに視線を伏せながら、シュエルは言葉を継いだ。
「あのとき、助けてくれたことには感謝してる。けど、それ以上のものをあんたに背負わせるつもりはない。……これは、俺だけの問題だ」
「――」
彼女が何かを言いかけた気配に気づかぬふりをして、シュエルはそっと背を向ける。
「広場の西側で待っててくれ。すぐに戻る」
振り返らぬまま、短く告げた。
沈黙を、乾いた風が撫でていく。
ややあって、小さな声が返った。
「……承知しました。どうか、気をつけて」
シュエルは、背中越しに頷いた。
イリスの静かな足音は、時折こちらを振り返るように乱れ、少しずつ遠ざかっていく。
わずかに潤んだ灰青の瞳が、脳裏に焼きついて離れない。
普段は感情の読めない、凪いだまなざしをした少女。けれどあのとき、自分の言葉は明確に、彼女の矜持を傷つけたのだとわかった。
(……けど、これ以上は巻き込むべきじゃない)
彼女を叛逆者にしないための、これがぎりぎりの境界線だ。
――〝語り〟を封じる首環がイリスの手によって外され、力が戻ったとき。シュエルがあの閉鎖区画から脱する方法は、無数にあった。
何か一つ因果を書き換えて、拘束自体が起こらないようにする、あるいは移送の隙を突く。
紐解くのが自分の記憶なら、書き換えるのが自身の行動なら、方法はいくらでも浮かんだ。そうやって追跡を逃れた経験も、一度や二度ではない。
それでも――あの場所でイリスと交わした言葉のすべてを〝無かったことにする〟選択は、どうしてもできなかった。
『あなたを、失ってはならないと思ったから』
あのとき彼女が向けてくれた想いの先につながる〝今〟を、手放したくなかった。
頬を撫でるよどんだ風に、ふと顔を上げる。
足音はもう、聞こえない。
シュエルは埋もれた石標の前に膝をつくと、つるりとした表面にそっと指先を当てた。
目を伏せて、もう一度、この場所の過去を脳裏に手繰り寄せていく。
倒れ伏した僧侶、広がっていく血だまり、遠ざかる車輪の音。
花を手向け悼む町の人々。その中には、乳飲み子を背負った、今より少し若いあの雑貨屋夫妻の姿もある。
それらの風景をまなうらに置いたまま、本来の歴史を編み直すための、言葉の輪郭を探っていく。
――目を開ける。
深く息を吸い、〝語る〟ための意志を、声に乗せた。
「――〝ここに、道があった〟」
辺りの空気が、かすかに揺れた。
――御使いフィレナの名とともに灯された、祈りの道。
――人々は行き交い、暮らしを紡いだ。
――谷あいの町に人々は憩い、やがて旅立っていく。
葉擦れの音が、ほんの一瞬、ぴたりとやんだ。
風が逆流し、遠くから運ばれてきたような木々の匂いが立ちこめる。
――御使いフィレナは憶えている。
――その営みを、出会いと別れを、旅の終わりと始まりを。
――ただ静かに見つめている。
――絶えた祈りも、悼む涙も、寄り添う花の香も。
〝語り〟を紡ぐたび、その声に世界が応えるたびに、どこか地に足がつかないような浮遊感がかすめていく。
過去と今のあわいに立ち、そのどちらにも属していないかのような、寄る辺のない感覚。
それでも、口にした言葉を手放さぬよう、ひとつひとつ、己の内に刻み付けていく。
――ここに、道があった。
――御使いフィレナの名とともに灯された、祈りの道。
――あなたは憶えている。
――行き交う足音、車輪の音、風の唄。
――それは今も、ここにあるのだと。
やがて――埋もれていた敷石の帯が、ゆっくりと地上に浮かび上がった。
遠くから、かすかに車輪の音が響く。
指先に触れる石板が、ざらりとした感触に変わる。
「御使いフィレナの降り立つ地」と刻まれた、古びた標。
その手前に添えられた、まだ瑞々しい野花の花冠。
甘い花の香が、ふわりと立ちのぼった。
(……これで全部、戻ったか)
シュエルはふっと息を吐き出した。
花冠の手向けられた石標にそっと手を合わせ、立ち上がる。
均された道に延びる双翼の影は、わずかに短くなっている。
足元によみがえった本来の道を踏みしめ、町へ向けて踵を返したときだった。
ふと――視界の端に違和感を覚えた。
よみがえった道の分岐の片方に、突如として、断ち切られたような崖が立ちはだかっている。
崩落した痕ではない、明らかに人工的な断面の岸壁。
それは、あまりにも不自然な光景だった。
語りによって覆い隠したかったのは、あるいは、こちらの方だったのかもしれない――そんな考えがふと浮かぶ。
近づいていくと、語られた痕跡を示すように、ふっと視界がぶれた。
目を閉じ、語りの下に覆い隠された過去を手繰り寄せようとする。
けれど――。
「……ない……?」
衝撃が、思わず口をついて出た。
この場所に色濃く残る、〝語り〟の痕跡。
けれど、そこには、自分を呼ぶ過去が存在しない。
まるで――〝虚空へ延びる道〟という事象そのものを、〝語り〟によって創り出したかのように。
(……できるはずがない、そんなこと)
けれど、確かにそれは可能なのだと、自分の中の何かが告げていた。
脳裏によぎるのは、すべてが終わった〝あの日〟の光景。
失われたものたちへ手を伸ばし、声の限り叫んだ記憶。
あの日、自分は呼んだ。たった一つの名を。
そして、〝語った〟。
もう二度と戻らない〝過去〟の代わりに、〝 〟を――。
「――――……」
気づけば――何か言葉を口にしていた。
何かを志向し、〝語り〟として紡いだのだと思った。
けれど、次の瞬間には何も思い出せなかった。
目の前にたたずむ断崖が、心なしか少し先まで延びている。
確かめようとして――けれど、それ以上は足が前に出なかった。
自分がまだ知らない何かの境界線を、越えてしまう気がしたから。
風が一陣、強く吹き抜けた。
どこか急き立てられるように、シュエルは谷あいの町への帰路を急いだ。