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【第4章:閉ざされた谷底の町】

 


 谷あいの町ネーリル。
 夕日に照らされた街並みは、どこか、秋の入り口で立ち止まっていた。
 広場に面した市場は広く、いくつもの店が立ち並ぶが、その半分は固く戸を閉ざしている。
 すれ違う人々の表情には、どこか疲れがにじんでいた。季節が移ろうことさえ、誰かに止められているような――そんな曖昧な空気が、町の底に沈んでいる。

 

「……ずいぶんと、物がないな」

 ぽつりとつぶやいたシュエルの目線は、青果店の片隅に残った林檎に向けられている。乾きかけた皮の表面には、傷がうっすらと浮いていた。
 店の棚には瑞々しい果物はほとんどなく、干した香草や乾いた木の実が、そっと軒先に吊るされていた。

 

「あの街道の封鎖で、物流が遮断されているのかもしれません。この市場の広さ……かつては栄えた交易拠点であったと推測されますが」

 

 イリスは静かに答え、視線を周囲に巡らせた。
 ――何かが、欠けている。
 物資や人手といった単純な数値ではなく、より根本的な――この町を通って、何かが運ばれ、人が往来していたはずの気配が、きれいに消えている。

 

「そんな町から道を奪えば、立ち行かなくなる。誰が考えたってわかるだろ、そんなこと」
「何か、それ以上に優先すべき利益があったのだと思います。より多くの人民に、より多くの幸福を――それが、記録局の行動理念でしたから」

 

 イリスはよどみなく答えた。そこに、かつての居場所を擁護する意図すらなかった。
 刷り込まれた理念を、思考さえ挟まずただ言葉にしただけ。これまで幾度となく、そうしてきたように。
 けれど――。

 

(これは、私の〝意思〟ではない)

 

 その気づきに、ふと足を止めた。

 

「……ですが、私は――」

 

 何か、自身の考えを口にするはずだった。
 けれど、その先が続かない。
 胸の内が空っぽのまま、それでも言葉が先に口をついて出たことに、イリス自身、戸惑っていた。

 

「……イリス?」
「いえ……なんでもありません」

 

 取ってつけたような返答に、シュエルは一瞬何かを言いかけたが、やがて、ふっと小さく息を吐いた。

 

「とりあえず、日が落ちる前に宿を探そう」

 

 そう言って彼は、手近な雑貨屋の店先に足を向けた。

 

「すみません。この辺りに、泊まれるところはありますか」

 

 木箱を机代わりに帳簿をつけていた店主の男は、のろのろと顔を上げる。
 旅装の二人に短く目を細め、しばし沈黙したのちに首を振った。

 

「宿なら、ないな。もう何年も、旅人なんて来やしない。泊まるやつがいなきゃ、商売にもならんしな」

 

 あっけらかんとした口調だったが、それは諦めにも似た響きを含んでいた。

 

「それは……西の街道が、封鎖されている影響でしょうか?」

 

 沈黙の間を縫うように、イリスが問う。
 店主は曖昧に首を傾げた。

 

「街道なんて名のついた立派な道は、この辺りには通っちゃおらんよ。……いや、昔はあったんだったか? まあ、そんなことはいい」

 

 何かを思い出そうとするように宙を見上げたが、やがて、さほど深刻そうな様子もなく肩をすくめた。
 まるで、見えない手が、彼の思考に蓋をかぶせたかのように。

 

(やはり……道の存在そのものを〝忘れさせられている〟)

 

 同じ推測に至ったらしいシュエルと、そっと視線が交錯する。

 

「それより、お前さんたちの宿だったな。一晩ならうちで世話できるが、どうする? 雑魚寝でよけりゃ、二人分くらいの場所はある」

 

 そう言って、店主はわずかに口の端を上げた。
 予想もしなかった申し出だった。
 イリスが反射的にシュエルの顔を見やると、彼は静かに頷いた。

 

「すみません、助かります」
「ついてきな」

 店主は帳簿をぱたんと閉じ、裏口の戸を開いた。
 通されたのは、雑貨屋の店舗裏に続く簡素な住まいだった。
 壁には煤けた鍋と木製の棚、家族のものと思われる上着が掛けられている。
 温かな湯気が漂う台所から、店主の妻らしき女が顔を出した。

 

「なあに、お客さん?」
「宿に困っとったんでな。今晩はうちに泊めてやっても構わんか?」
「まあ、あんたはいつも勝手に決めて……仕方ないねぇ」

 呆れたように肩をすくめるが、声音はどこか温かかった。
 女はそのまま、イリスたちに人好きのする笑みを向けた。

 

「いらっしゃい、お二人さん。大したものは出せないけど、その辺、座って待ってておくれ」 
「……ありがとうございます」

 

 小さく頭を下げたとき、イリスはふと、足元に気配を感じた。
 この家の子供らしき幼い少年が、真っすぐにこちらを見上げていた。

 

「お姉ちゃんたち、お客さんなの?」
「……ええ」

 

 イリスがぎこちなく頷くと、少年はぱっと笑って、部屋の隅へ駆けていった。
 記憶にある限り、幼い子供と関わった経験は皆無に等しい。それゆえ、どうしても接し方に戸惑ってしまう。
 やがて少年は、小さな腕には重そうな木箱を、うんしょうんしょと抱えて戻ってきた。
 その中から積み木や人形といった雑多な玩具を取り出し、次々と食卓に並べていく。
 幼子の突飛な行動に首を傾げていると、シュエルがそっとささやいた。

「たぶん、お父さんの真似してるんだ」
「……?」

 なおも釈然としないイリスに、ひととおりの物品を並べ終えた少年が、誇らしげに胸を張ってみせた。

「いらっちゃい! ゆっくり見ていっておくれ!」

 舌っ足らずに商売人の口上を真似るさまに、ようやく疑問が氷解する。

「〝お客さん〟って、そういう……」
「すまんが、しばらく相手をしてやってくれ」

 肩をすくめる店主に、シュエルが小さく笑って応じた。
 食卓越しに幼い少年の対面に座り、目線を合わせるようにゆっくり声をかける。
 
「こんにちは。今日は、何がおすすめですか?」
 
 少年はぱっと目を輝かせ、そこから小さな雑貨屋さんごっこがしばらく続いた。
 煮炊きの湯気の香りとともに、部屋の中は温かな空気で満たされていった。

 


 


「このごろは食料がそろわなくてね。こんなものしか出せないけれど、どうぞ遠慮しないでね」

 夕餉の卓に出されたのは、具材の少ない根菜のスープと、乾いた黒パンだけだった。
 それでも器を差し出す手には、迎え入れる者としての迷いがない。

「ありがとうございます。……すみません、こんなときにお邪魔してしまって」

 イリスが硬い表情で礼を述べると、店主の妻は笑って手を振った。

「気にしないで。お客さんの顔なんて、本当に久しぶりなのよ。この町も、昔はもう少しにぎやかだったのだけれど」

 そう言って、懐かしむように目を細める。

「ここから西の方に、女神様の御使いが降り立ったとされる聖なる丘があってね。ここネーリルは、そこへ巡礼へ行く人たちの中継地だったの。ええと……なんていう名前だったかしらね」
「――〝フィレナ〟ですか?」

 静かな問いを差し挟んだのは、シュエルだった。
 一拍置いて、彼女の目が大きく見開かれた。

「ああ……そう、フィレナ。フィレナの双翼の丘。あんた、よく知ってるねぇ」

 スープを黙々と口に運んでいた店主も、にわかに顔を上げた。

「ああ、俺も思い出したよ。何年か前に国のお偉いさんたちがやってきて、そのフィレナへ通じるここら一帯の街道が丸ごと塞がれちまったんだ」
「確か……馬車の事故があったのではなかった? それで、あの道は危険だからって」
「お偉いさんからは、いずれ修繕の予定があるって聞かされてたんだが、そこから一向に手が入らん。ここらの商店組合でまとまって陳情に行ったんだが、突っぱねられてな」
「そこからこの町には馬車が来られなくなって、人も物もすっかり減ってしまって……」

 夫婦の会話は、イリスたちを半ば置いてきぼりに広がっていく。
 一つの〝名〟を起点に、枝葉を伸ばすように次々と紐解かれていく記憶の断片。
 ふとシュエルの方を見やれば、彼は静かな眼差しで、二人のやりとりにじっと耳を傾けていた。

「そういやお嬢ちゃん。あの道を気にかけてたってことは、これから西の方へ行くのかい?」

 店主が、思い出したようにイリスに問いを向けた。

「ええ……そのつもりです」
「なら、今は北の山道を迂回していくことになるだろう。……気をつけてな」

 それきり、彼は黙々と食事を再開した。
 大人たちの沈黙を待ちかねたように、今度は幼い少年が口を開く。

「ねえ。お兄ちゃんたちの旅のお話、聞きたいな」
「あら、それは私もぜひ聞かせてほしいわ。もう随分、この谷の外へは出かけていないからね」

 目を輝かせる母子にせがまれ、そこからは、それぞれの身の上を曖昧にぼかしつつ、立ち寄った土地の話をぽつりぽつりと語りながらの食事が続いた。
 食後、ふいにシュエルが立ち上がった。

「これ……もし売り物になれば、今晩の宿代の代わりに」

 彼は荷の中から小ぶりな木櫛をいくつか取り出し、夫婦の前にそっと差し出した。
 櫛の側面には、幾つもの曲線が連なる繊細な文様が刻まれている。店主の妻が手に取り、ほうと感嘆のため息を漏らした。

「へえ、見事なもんだな。これはお前さんが作ったのかい?」

 シュエルは静かに頷いた。

「生業ってほどのものじゃないですが……他にも修理とか、何か手がいるものがあれば、少しは手伝えます」

 夫婦がしばし顔を見合わせていると、幼い少年がぱっと割り込んだ。

「ねえねえお兄ちゃん、僕にも何かちょうだい!」
「こらっ」
「だって、パパとママだけずるいよう」

 ぷうと頬を膨らませた幼子に、シュエルはふっと目元を和らげて答えた。

「いいよ。ちょっと待ってて」

 その後、彼は荷物から一振りのナイフと小さな木片を取り出し、それらを包んでいた布を床に広げた。
 その傍らに腰を下ろし、ナイフを鞘から抜くと、刃先をぴたりと木片に押し当てる。
 迷いなく刃が滑り、薄く削り取られた木くずがはらり、はらりと布の上に落ちていく。
 角ばった木片が、あっという間に滑らかな丸みを帯び、気づけば何かの動物らしき形が現れた。

「お馬さん!」

 身を乗り出し、じっとシュエルの手元を覗き込んでいた少年が、嬉しそうに声を上げる。
 シュエルが手を止めずに頷いた。
 刃先の動きは少しずつ繊細になり、馬の耳や口、たてがみの一本一本を、細やかに浮き上がらせていく。
 最後に目元を慎重に削り出し、そっと床に置く。
 四本の脚が弓形の底板につながるように彫り出された木馬は、指先で軽く押すと、前後にゆらゆらと揺れた。
 底面を薄く削り、もう一度揺れを確認する。
 彼は静かに頷いて、木馬をそっと少年に差し出した。

「ほら」

 少年は目を輝かせ、大事そうに両手で受け取った。

「ありがとう、お兄ちゃん!」

 撫でるようにしばらく眺めたあと、床に下ろし、小さな指で何度もつつく。
 木馬がゆらゆらと揺れるたび、ぱっと笑い声が弾けた。

 


 


 家族が寝室に引き上げた後も、明るい笑い声の余韻は、居間の空気にそっと残っていた。
 一つだけ残した小さな灯りの傍らで、シュエルは先ほど木を削ったナイフの手入れをしていた。
 細かな木粉を落とすように、乾いた布で一度、二度と撫で、刃を灯りにかざして視線を走らせる。小さな曇りに目を留めると、そこへ布を押し当てて慎重に拭っていく。
 呼吸をするように、静かで無駄のない所作だった。
 イリスはそのさまを、傍らでそっと眺めていた。

「……あなたは、こんなふうに旅をしてきたのですね」

 ふと浮かんだ実感が、そのまま口をついて出る。
 シュエルはわずかに顔を上げ、意図を測りかねたように小さく眉を上げた。
 けれど、話の続きを殊更に待つことはなく、再び黙々と手を動かし始める。
 だからイリスは、ゆっくりと言葉を探してから、再び口を開いた。

「私は……記録官として、これまでさまざまな対象地へ赴いてきました。〝語り〟の成否を正確に観測するため、各土地の有り様をつぶさに観察していたつもりでした。けれど、それはどこか――空を飛ぶ鳥のような、ひどく遠い場所から、ただ風景を眺めていたような気がします」

 夕暮れの市場では言葉にできずに呑み込んだ感情が、少しずつ形を結んでいく。
 胸の内によぎるのは、食卓に流れていた温かな空気と、あの少年の弾けるような笑顔。そして――踏み込みすぎず、けれど拒むこともなく、ごく自然にその傍らにあったシュエルの姿。
 ゆかりのない土地の暮らしに、その温度や手触りさえ感じられる距離で関わったことは、それまでのイリスにはなかった。

「どこかで、誰かが、生きていて。語られた〝正史〟にも、打ち消された過去の中にも、このような暮らしが幾つもあるのだと――今日、私は初めて、そのようなことを考えました」

 シュエルは時折小さく頷きながら、けれど手を止めることはなかった。
 彼は傍らに置いていた小瓶の蓋を開け、指先にほんの一滴、油をとった。
 その指をナイフの峰から刃先へなぞるように滑らせると、布で軽く拭うようにして、ごく薄く油を延ばしていく。
 話に耳を傾けながらも、淡々と己の作業を進めていく。
 その距離感が、イリスにはどこか心地よかった。

「あなたが〝語り部〟として守ってきたのは、そういったものだったのだと、思いました」

 

 その言葉に、シュエルの手がふと止まった。
 薄く油のひかれたナイフの刃が、灯りの傍らで鈍い光を放つ。
 ややあって、彼は口を開いた。

「……誰にも呼ばれない名前は、誰も思い出せなくなった場所は、誰もが忘れてしまった人は、全部、無かったことになる。交わした言葉も、抱いた感情も、全部」

 声は、どこまでも淡々としていた。
 けれどその奥に、静かな熱があった。

「それが見過ごせない。視えてしまったら、目を逸らすことなんてできない。――ただ、それだけだ」

 低くそう続けて、彼はナイフを鞘に収めた。
 木と木が触れる、小さく乾いた音が響く。
 その余韻の中で、イリスは静かに問いかけた。

「明日、西の街道へ向かいますか?」

 シュエルはゆっくりと顔を上げ、頷いた。

「そうだな。語られた場所なら、きっと、何かが視えると思う」

 そう答えて、彼は再び手元に視線を落とした。
 淡い灯りに照らされたその横顔はどこか、ひどく遠い場所を見つめているように見えた。
 


 翌朝の町は、まだ半ば眠りの中にあった。
 空は淡く白み始めていたが、通りにはほとんど人の姿がなく、冷えた空気が瓦屋根の隙間をゆっくりと抜けていく。
 雑貨屋の店先では、店主が掃除を始めていた。

「いろいろと、世話になりました」

 シュエルが頭を下げると、店主は軽く手を振った。

「なあに、お互い様よ。……こいつも、久しぶりにあんなに楽しそうに笑ってたからな」

 店主の足元から、あの少年がひょっこりと顔を出し、歯を覗かせて笑う。
 その傍ら、店主の妻がそっとイリスに声をかけた。

「長い旅になるのでしょう? 大したものじゃないけれど、これ、持って行って」

 そう言って差し出された袋には、干した木の実と黒パンが覗いていた。
 この町の決して余裕があるとは言えない暮らしの中で、それは確かな厚意だった。

「ありがとうございます。……大切に、いただきます」

 イリスは丁寧に一礼し、袋を受け取った。
 手を振る家族に見送られ、市場通りを離れ、ゆるやかな坂を上っていく。
 ほどなくして、町の境を示す木の門が見えてきた。
 辺りには背の高い雑草が生い茂り、こちら側への往来が絶えて久しいことがうかがえる。
 その向こうには、枯れ草と砂利が交じる忘れられた道が、朝日に照らされる山へと続いていた。

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