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【第3章:幻の駅を越えて】


 朝靄の漂う駅のホームに、蒸気を吐きながら列車が滑り込んでくる。
 灰茶色の車体に深緑の帯がひかれた、年季の入った三等客車に、イリスはシュエルの背に続いて足を踏み入れた。
 まだ日も昇りきらぬ時間帯ゆえか、車内にはいくつか空席があった。
 その一角、向かい合わせになった座席にそれぞれ腰を下ろす。
 快適さとは程遠い、板がむき出しの硬く冷たい座面。
 記録官の職務で各地へ赴く際、列車を利用する機会は何度もあった。それゆえ、革張りの座席と秩序立った静寂に包まれた二等車にはいくらか馴染みがあるが、こうして三等車に乗るのは初めてだ。
 何気なく目を向けた窓の外、ホームの上を濃緑の制服を着た憲兵隊員が横切っていくのが見え、イリスは思わず視線をそらしうつむいた。
 両の手元でわずかに余るカーディガンの袖を、ぎゅっと握り込む。

「そんなに気を張ってると、かえって怪しまれるぞ」

 向かいの席のシュエルが、抑えた声で苦笑を向ける。
 灰金色の少し乱れた前髪の向こうに、深い藍の瞳がのぞく。彼は腕を組み、あたかも気ままな旅の若者のように、無防備に見える姿勢で座っていた。

「堂々としてたほうが、疑われにくい。俺たちはただの旅人だ。何もやましいことなんてない」

 その声音には、どこか奇妙な静けさがあった。演技でも、虚勢でもない。
 そうこうするうちに発車を知らせるベルの音がけたたましく鳴り響き、扉が閉められた。
 身体が背もたれに押しつけられる感覚とともに、ゆっくりと列車が動き出す。
 列車の速度がいくらか安定したころ、イリスは膝の上に乗せたポシェットを開き、中に収めた帳面にそっと手を触れさせた。
 馴染みのある革表紙の感触に、少しだけ緊張がほどけていく。
 ほんの数日前まで身に着けていた記録官の制服は、昨晩、野営の焚き火にくべて処分した。今、イリスの手元に残っているのは、この使い慣れた帳面と万年筆だけだ。
 記憶の始まりから、連邦の記録官としての生き方以外を知らない。けれどもう、あの場所に戻ることはない。その事実を殊更に意識してしまうと、どこか足元が覚束ない気持ちになる。
 それでも――。
 イリスは視界の端で、窓の外へ向けられたシュエルの横顔をそっとうかがった。
 
(――〝私は、あなたの存在を願う〟)

 あのときイリスを突き動かした衝動は、たった一つだけ。
 この人が守った記憶を、何より彼自身を、ただ失いたくないと思った。
 この旅路がどこへ行き着くのかはわからない。けれど、あのとき記した自分の意思と選択に、後悔はないつもりだ。
 イリスはふと力を抜くように座席に背を預け、小さく息を吐いた。
 外の景色が一定の速度で流れていく。遠くに野良犬が吠え、やがてそれも風の音に溶けた。
 車窓に映る景色が、じわじわと違和感をはらみ始めたのは、列車が大きな分岐点を越えてすぐのことだった。

「……おかしい」

 イリスは眉をひそめ、記録帳に挟んだ地図を手早く広げた。

「この分岐、現在は旅客列車の運行には使われていないはずです」

 はっとして、視線を車内の行先表示板へと移す。
 そこには、見覚えのない地名が表示されていた。

「行き先を変えられた……?」
「連中が〝語った〟か……俺たちの存在を感づかれたかもしれない」
「……ですが、ここまで多数人に関わる事象を動かすなんて」
「それだけ向こうが本気ってことだろ。――なんとかして、降りる方法を探す」

 シュエルの声に焦りはなかったが、明らかな決断の色があった。
 イリスは再び手元の地図に視線を落とし、考えを巡らせる。

「……少し先に、十数年前に閉山した鉱山があります。そのふもとに、今は〝消された〟駅が――」
「なら、ちょうどいい。そこで降りる」

 迷いのない言葉に、イリスは思わず眉を寄せた。

「……どうやって?」

 問いには答えず、シュエルの藍色の瞳がすっと閉じられた。
 何かを辿るように指先を窓に当て、深く息を吸う。

(……〝語り〟の痕跡を読もうとしている?)

 この場所に不自然な〝空白〟が残されているということだけは、イリスにも辛うじて感じ取れる。
 けれど彼の伏せた瞼の裏には、その奥にある〝かつての風景〟が映っているのかもしれない。
 ほどなくして、引き結ばれた唇がそっと解けた。

「その駅の名は――〝スヴェリツァ〟」

 失われた名を、その声がなぞった瞬間。
 車内の空気が、かすかに震えた。
 薄く開かれた藍の瞳に、ごく淡い光が灯る。
 過去へと手を伸ばし、今を塗り替える〝語り〟が紡がれていく。

 ――スヴェリツァ。
 ――あの山に眠る星々は、翳ることなく輝いていた。
 ――煤にまみれた鉱夫たちの唄を、土は憶えている。
 ――スヴェリツァ。
 ――ここは、君の帰りを待つ場所だ。
 ――迎える者のため、扉は開かれる。

 イリスはふと手元の地図に目を落とし、小さく息を呑んだ。
 先ほどまで空白だったはずの場所に、うっすらと駅名を示す文字が浮かび上がっていた。
 列車はわずかに減速しながら、トンネルへと差し掛かる。

 ――スヴェリツァ。
 ――星は見えずとも、歌は止んでも、その名は残り続けた。
 ――人々の汗と誇りを、夢と痛みを、風は憶えている。
 ――スヴェリツァ。
 ――ここは、君の旅立ちを見送る場所だ。
 ――去りゆく者のため、扉は開かれる。

 トンネルの出口から、ゆっくりと光が差し込む。
 その先には、何もないはずだった。
 けれど――。
 蔦に覆われたプラットフォーム、半壊した案内板、崩れかけの石段――それらが〝語られた〟ことによって、再び姿を取り戻していく。
 あたかもずっとその場所にあり、時を重ねてきたかのように。

(……ありえない)

 イリスの胸に、淡い戦慄が走った。
 ――これは、本来ありえない規模の〝語り〟だ。
 書き換えた過去を、ここまで空間的に再構築するには、通常は複数の語り部と記録官による共同作業が必要とされる。
 それも、事前に綿密な構文計画と検証、語りと記録の分担が組まれたうえでようやく成立するものだ。
 だがシュエルは、それらすべてを介さず、たった一人で、この場でやってのけた。
 記録もなく、明確な構文もなく。
 彼が紡いだのは、ともすればただの言葉のようにさえ聞こえた。
 それでも現実が、書き換わっていく。
 その力の正体が、イリスには理解できなかった。
 けれど、それが明らかに既知の〝語り〟の範疇にないことだけは、記録官としての直感がはっきりと告げていた。

「……イリス」

 ささやくように名を呼ばれ、はっと我に返る。
 目の前にそっと、シュエルの手が差し出された。

「行こう」

 イリスは、ためらいがちに自身の手を重ねた。
 触れた掌は、思いのほか冷たかった。書き換えた過去に、体温だけ置き忘れてきたかのように。
 手を引かれ、ゆっくりと減速していく車内を進みながら、イリスはふと、窓の外に視線を走らせた。
 よみがえった駅舎の輪郭は、時折、霧に包まれたように曖昧に揺らぐ。書き換えられる前の過去が、揺り戻そうとしているかのように見えた。

「……もし〝語り〟が剥がれたら、あんたを取りこぼすかもしれない」

 ふいに、シュエルが小さくささやいた。
 彼には珍しく、わずかに緊張をはらんだ声だった。

「だから、絶対に手を離さないでくれ。――そしたら、守りきる。必ず」

 目線は、真っ直ぐ前を見据えたまま。
 応えるように、イリスはつないだ手をそっと握り返した。
 軋むような音を立てて、列車が完全に停止する。
 解錠と同時に扉を開くと、二人は足早にホームへ降り立った。
 再び動き出す列車の中、数人の乗客が不思議そうにこちらを見ていた。
 辺りには、人の気配はない。
 時間そのものが切り取られたように、風も、音も、そこでは不自然なほどに静かだった。

「……駅が、本当に……」

 無人の構内には、朽ちかけた看板が一つ、かろうじて風に揺れていた。

「連中に気取られる前に〝戻す〟」

 短く告げて、シュエルは再び〝語り〟を編んだ。

 ――これは、風にほどけた夢だ。
 ――もとより語られぬものとして、忘却に還るだけ。

 その刹那――構内の空気が、ゆっくりと歪み始めた。
 まるで息を吐くように。
 プラットフォームの端から順に、世界が霧へと溶けていく。
 ひび割れたタイルが淡く崩れ、看板が文字の輪郭を失い、空の光すらもゆらめいて――やがて、すべては〝もとあった風景〟へと収束していった。
 辺りに残ったのは、草が生い茂る、ただの斜面と、忘れられた小道だけ。
 わずかに光の余韻を残したシュエルの藍の瞳が、安堵したようにふっと和らぐ。
 つないだ手が、ゆっくりとほどけていく。
 いまだ早鐘を打つ鼓動を鎮めるように、イリスもまた、深く息を吐いた。

 


 


 線路脇の茂みを抜けると、ようやく見通しのいい場所に出た。
 列車の轟音も、すでにはるか遠く。あのまま乗り続けていれば、どこへ運ばれていたかはわからない。
 イリスはふと足を止め、来た道を振り返った。近くに人の気配は感じられないが、それでも緊張が解けることはない。
 数歩先でシュエルが待つように振り返る。

「連中がああいうやり方で仕掛けてきたってことは、俺たちをどうこうできる実働部隊はあの列車には乗ってなかったはずだ。そう簡単に追いつかれはしないさ。……まあ、だいぶ回り道にはなるけどな」

 淡々と告げる声には、どこか気遣うような気配があった。
 イリスはこくりと頷き、彼の背に追いついた。
 それきり、しばらく互いに言葉はなかった。
 土を踏みしめる二人分の足音と、木立から降る鳥の声、風が木々を揺らす音が時折耳をかすめるだけの、静かな道行きが続く。

「それにしても、よく〝行き先が変わった〟って気づいたな」

 いくらか歩を進めたころ、シュエルがふと振り返るように言った。

「語りによる過去の書き換えってのは、人の意識ごと書き換わるはずだろ。違和感なんて、普通は感じない」
「記録官は――訓練を受けていますので」
「訓練、ね」

 シュエルは少しだけ口元をゆがめて笑った。

「とはいえ、誰にでもできる芸当じゃないだろ。記録局の連中がみんなあんたみたいに優秀だったら、俺の〝語り〟はとっくに全部、無かったことにされてる」

 それからしばらく、方位磁針を頼りに、道と呼ぶにはあまりに荒れ果てた小径を進んだ。なだらかな山の頂を過ぎるころには、日はいくらか傾き始めていた。
 湿った空気がじっとりと肌に張りつき、旅の疲労を一層重たくする。歩き詰めの山道にようやく終わりが見えたのは、西の稜線が黄昏色を帯びるころだった。

「……町だ」

 前を歩くシュエルの声に、のろのろと顔を上げる。
 尾根の端から谷を見下ろせば、木々の合間に、赤茶色の瓦屋根の連なる集落が顔を覗かせていた。
 その向こうの山裾へと続く道は、崩落した土砂によって途切れている。遠目にもひどく荒れ果てて見えた。
 吹き抜ける風が、ひときわ冷たく頬を撫でる。
 風上を見やり、シュエルがぽつりとつぶやいた。

「変だな」
「風が……ですか?」
「そう。まるで――あそこで引き返してるみたいな吹き方だ」

 シュエルが指し示した先には、あの道の途切れ目があった。
 通り過ぎる風が、イリスの髪を不規則になびかせていく。
 視界を塞いだ一房を片手で払いのけながら、違和感と呼ぶには漠然とした小さなざわめきが、心の片隅に残った。
 さらに歩を進めると、道の傍らに、石に彫られた古い道標が佇んでいた。集落の方向を指した矢印と、その傍らに地名と思しき文字列が刻まれている。
 イリスは、半ば風化しかけた文字をそっと指先で辿っていく。

「……ネーリル、と刻まれています。地図上の町名と一致します」
「けど、それだけじゃなさそうだ」

 隣に並んだシュエルの指摘に、イリスはこくりと頷いた。
 道標の下部には、ちょうどもう一つ地名を刻めそうな、不自然な余白がある。

「ここに……本当は〝フィレナ〟って書いてあるはずだった」

 今と過去とのあわいを見据えるように、シュエルの瞳が薄く細められる。

「あの途切れた道の先にある地名か、道自体の呼び名なのか――いずれにしても、今は〝消された〟名前だ」
「地図上にも、そのような表記は見当たりません。何らかの目的があって、あの道が不通のままでも違和感を持たれぬよう、土地の名ごと記憶を消し去ったのかもしれませんね」
「いかにも連中が考えそうなやり方だな」

 シュエルは短く嘆息し、暮れゆく西の空に視線を向けた。

「町へ急ごう。のんびりしてると日が暮れそうだ」

 そう告げて歩き出した彼の背に続きながら、イリスはもう一度、古びた道標を振り返った。
 ぽっかりと空いた空白に視線が引きつけられるのは、それがどこか、自分自身と重なる気がしたからか。
 胸の内に渦巻く感情とも呼べぬ何かを、はっきりと捉えることはできないまま――開いてしまった数歩分の距離を、イリスは静かな足取りで追いついた。

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