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【第2章:淡い輪郭】

 


 昼下がりの街角は、雑然としたにぎわいの中にあった。
 旧道の途中に位置するその町は、かつては宿場町として栄えたが、現在は主要な幹線から外れている。
 それゆえか統制の気配はどこか薄く、年季の入った佇まいの店がひしめく通りには、闇市めいた露店も開かれている。行き交う人々の身なりもさまざまだ。
 人波を縫うように抜け、ひと息つくようにシュエルがふと足を止めたとき、傍らからぽつりと問いが投げられた。

「これから、どこへ行くのですか」

 視線を向ければ、イリスの感情の読めない灰青の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。

(どこへ、か)

 今の今まで互いにそんなやり取りも交わしていなかったという事実に、内心で苦笑する。
 ここまでの道のりを、何かを問うことも特段の意思を示すこともなく、イリスは淡々とついてきた。
 なぜ話していなかったかといえば、聞かれなかったからに他ならない。そしていざ問われたところで、シュエル自身、確たる目的地があるわけではなかった。
 語り消された過去の痕跡に導かれるように渡り歩き、追っ手の気配がすればそっと離れる。ずっと、そういうふうに過ごしてきた。
 だが、連れのある道行きとなればそう無計画にもいかないだろう。
 それに――心に浮かぶ土地がないわけではない。
 季節を運ぶ、ほのかに冷たさを帯びた風に、ふと思い出す風景があった。

「行き先は――今、決めた」

 遠いその地へ思いを馳せるように、シュエルはふっと視線を空へ向ける。

「ここからずっと西の方、ロクという名前の、小さな山間の村」

 イリスは聞き覚えがないというふうにわずかに首を傾げた後、ポケットから帳面を取り出した。
 その表紙裏に挟み込んでいた地図を、手早く広げる。細い指が辿った先に、その村の名は赤いインクではっきりと印字されていた。

「私自身は把握していませんでしたが……記録局の分類上は、重要度の高い対象地とされているようです」
「だろうな」

 ほとんど名も知られていない小さな村が、記録局支給の地図にはっきりと記されている。その事実が意味することは、明らかだった。

「あの場所は、何度も〝語られて〟いる」

 その言葉に、イリスはわずかに眉をひそめた。
 数秒の後、ためらいがちな問いが返される。

「あなたは、そこで……抗うための〝語り〟を?」
「そうするはずだった。本当は、もっと前にな。けど、当局の連中に見つかって、追われて……結局、そのままになってる」

 地図の上、鮮やかに浮かぶ赤の文字列をじっと見つめ、シュエルは続けた。

「返したいんだ。あの村の、消されてしまった大切な記憶を」

 その言葉を聞いたイリスに、かすかに息を呑むような気配があった。
 薄灰色の瞳、その中心に灯る空色がほのりと揺らぐ。
 やがて、彼女は小さく頷いた。

「承知しました」

 硬さを帯びたその声に、シュエルはわずかに目を細める。
 短い言葉の中には、どこか決意のようなものがにじんでいた。
 ほんの一日前まで〝あちら側〟にいたイリスは、確たる意思を持って己の属する組織を離反したわけではない。
 今も少なからぬ迷いをその内に抱えているはずだが、シュエルは殊更そこに踏み込むつもりはなかった。
 ――あのとき、〝語り部〟として潰えかけたこの身を救ってくれた。そして彼女は、こちらの差し出した手を取った。
 今の自分たちにとっては、それがすべてだった。

「そうと決まれば、少し先を急ぎたい。できれば、冬になる前に着きたいんだ」
「……冬、ですか」

 イリスは視線を手元の地図に落とし、何かを思案するようにしばし押し黙る。
 反対に、シュエルは視線を彼方へと向けた。
 晴れた空は澄んで高く、遠くに見える山々はかすかに色づき始めている。
 季節はすでに秋に差し掛かっていた。いくつもの山を越える長い道程に比して、残された時間はさほど多くない。
 ふと――甲高い汽笛と、列車がレールを踏む規則的な音が、風に乗って滑り込んだ。
 音のした方角に目を細め、シュエルはぽつりとこぼした。

「あれに乗れたら手っ取り早いんだけどな。あいにくと持ち合わせが乏しい」

 拘束時に奪われた荷はイリスの手配で無事手元に返ってきたが、もともとその日暮らしの逃亡生活だ。自身の財布の中身では、三等車の一人分の切符代もままならない。

「金銭的な問題でしたら、私の方で対処可能ですが」

 事もなげにそう言って、厚みのある財布を取り出しかけたイリスを、シュエルは周囲の視線から隠すようにそっと制した。
 雑然とした人混みの中、どこに後ろ暗い目的を持った目が潜んでいるかわからない。
 シュエルは小さく肩をすくめ、抑えた声で告げた。

「さすがは天下の記録官様ってわけか。じゃあ、遠慮なく甘えさせてもらう。……けど、その前にまずは別の買い物だな」

 真顔のまま首をかしげるイリスに、苦笑混じりに続ける。

「その格好じゃ、見つけてくださいって言ってるようなもんだろ」

 イリスは視線を落とし、自らの制服に一瞥を送る。表情は乏しいが、さすがに自覚を持ったらしい。ちらと周囲を見渡し、胸元の記章を隠すようにきゅっと身を縮めた。

 


 シュエルはイリスを連れて、裏通りの一角に佇む古着屋の戸をくぐった。
 入り口近くに積まれた、値札もろくについていない継ぎ接ぎだらけの襤褸の山は、一瞥しただけで通り過ぎる。
 奥の棚には、比較的使用感が薄く、質も良さそうな品物が整然と畳まれて並んでいた。
 記録局支給の上等な生地の制服には及ばないが、この辺りならイリスの抵抗感も小さいだろう。
 そう判断し、シュエルは棚の中央をぽんと指差した。

「そこにある服の中から、適当に選べ」
「……選べません」

 ややあって戸惑いがちに返された言葉に、思わず眉を上げる。

「……どういう意味だ?」
「そのようなことを……私自身が、こういったものを選ぶということを、したことがありません」

 声は淡々としていた。けれど、その奥にあるのは、無関心ではなく――ただ、わからないのだという戸惑いだった。

(記録官になる前の記憶がない、って言ってたな)

 与えられた制服、与えられた部屋、与えられた台詞。記憶の始まりから、彼女はそれだけを守って生きてきたのだろう。
 その境遇に思いを致してしまえば、突き放すことはできなかった。

「じゃあ、適当に見繕ってやるから。せめて、好みの色くらい教えてくれ」
「……わかりません」
「明るい方がいいとか、地味な方が落ち着くとか、ざっくりでいい」
「……行動に支障がなければ、何でも構いません」
「……はあ……」

 どうやら、こちらが決断しなければ状況は一向に進まないようだ。
 困ったように額を掻きながら、シュエルは目の前の服の並びに一通り視線を巡らせ、改めてイリスの姿を確認する。
 深い石墨色の髪、透けるように白い肌、灰の中に淡い青を宿した虹彩。変化に乏しい表情と相まって冷たさを感じさせる色彩だが、心細げな様子を隠しきれない今の佇まいには、どこかあどけなさも見え隠れする。
 考えた末、手に取ったのは、丸襟に細いリボンのあしらわれた生成りのブラウスと、紺色のスリムパンツ、それに、やわらかな織り目の薄茶色のロングカーディガン。
 控えめな装飾と落ち着いた色合いが、どこか彼女の無機質さを、ほんの少し和らげてくれそうな気がした。

「これでどうだ? 動きやすそうだし、悪目立ちもしない。……何より、似合いそうだ」

 シュエルの手から衣服一式を受け取ったイリスは、しばらく無言だった。
 やがて、ほんのわずかに目を伏せ、「……承知しました」とささやくように答えた。
 数分後――。
 会計と着替えを終えて戻ってきた彼女は、服の余った袖口をそっと両手で握っていた。
 かっちりとした制服とは違う布地の軽さに、落ち着かない様子を隠しきれずにいる。

「いいんじゃないか」
「……そうですか」

 返ってくるのは、相変わらず温度感の薄い声。
 けれどその佇まいには、これまでとはほんの少し違う印象があった。
 瞬きとともにかすかに揺れたまなざしと、きゅっと握り込んだ指先。

(……どことなく、人間味が出たな)

 そんな感想を抱きながら、店の出口へ足を向けたときだった。

「あの……少しだけ、よろしいですか」

 わずかに緊張を帯びた声に振り返れば、イリスの視線は、店の壁にかけらた数点の鞄に向けられていた。
 彼女は静かな足取りで壁際へ近づくと、小ぶりな革のポシェットをそっと手に取った。
 作りや風合いをじっくりと確かめ、小さく頷くと、再び店の奥へと消えていく。
 ほどなくして、ポシェットを手に戻ってきた彼女は、それまで制服のポケットに仕舞っていた帳面と万年筆を早速そこに収め、肩から提げた。
 心なしか先ほどより背筋の伸びた佇まいには、どこか己の居場所を見つけたような確かさがあった。

「筆記具は、いかなるときも肌身離さず携帯する必要がありますので」

 叩き込まれた記録官の規則を読み上げるような、無機質な口調。
 けれどそれは、紛れもない、彼女自身の〝選択〟だった。

「そっか」

 シュエルは相槌を打ち、自然と綻びそうになる口元を軽く引き結んだ。
 目の前の少女が、与えられた枠を一つ外れて、ほんのわずかでも自身の形を持ち始めたように見えた。
 それは、記録官ではない〝イリス〟という一人の人間の、最初の輪郭だった。
 

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