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​第二部「語る者、記す者」

【第1章:終わりと始まりの日】

 冷たい光の中に、すべてを焼き切るような白があった。

 色のない焔が、空間ごと世界を浸していく。
 建物だったものは形を失い、柱は内側から崩れ、命あるものたちの輪郭は一瞬にしてかき消えた。
 風はなく、音はなく、ただ沈黙だけがあった。

 そのとき、彼はそこにいた。
 けれど、降り注ぐ滅びの光は、立ちすくむ彼を呑み込むことはなく、ただ静かに通り過ぎていった。
 そうして、すべてが跡形もなく消え去ったその場所に、たった一人、残された。

 時の止まったような〝無〟の中で、彼は呼び続けた。
 今の今までその小さな世界を形作っていたはずの、いとしい人々の名を。
 永遠に失われてしまった存在の記憶を。
 
 幾度となく呼びかけるたびに、いつしか彼の内側に、失われたものたちの残滓が入り込んできた。
 風に揺れる白い花。
 削いだ木くずの香り。
 抱きしめられた温もり。
 手を引かれ駆けた野道。
 くしゃくしゃの泣き顔。
 歌うような笑い声。
 確かにここにあった――在るはずだった風景、温度、匂い、交わした言葉。

 手を伸ばせば、もう一度届くような気がした。否――確かに〝触れた〟はずだった。
 だから、喚び続けた。
 声が嗄れるまで、何度も、何度も、何度も――。
 
 けれど、応えはなかった。
 何一つ、還ることはなかった。

(助けたかった)
(何もできなかった)

 その感情だけが、胸の底に深く焼きついた。

 ――それが、彼にとって最初の〝語り〟であったと知るのは、もう少し後のこと。
 もう誰も呼ぶことのない幾つもの〝名〟は今、彼の記憶の中にだけ息づいている。

 


 


 重いまぶたを持ち上げて、ぼやけた視界に飛び込んできたのは、薄く埃の積もった木目の床だった。
 ――もう何度目かわからない、あの日の夢を見た。
 重くまとわりつくその残滓を振り払うように、シュエルはゆっくりと身を起こし、深く息を吐いた。
 煤けた壁、ひび割れた窓枠。陽はまだ昇りきらず、部屋の隅には淡い藍のような影が溜まっている。
 そこは、打ち捨てられた古い集落跡の片隅、今にも崩れそうな小さな廃屋だった。
 灰の区画を脱出し、夜闇に紛れるようにたどり着いた一晩の仮宿。
 辺りはしんと静まり返っていて、人の気配は感じられない。
 ここへ至るまでの足跡は慎重に〝語り〟によって覆い隠し、あるいは偽りの痕跡を幾つも撒いてきた。
 自分たちの脱走がすでに露見しているとしても、足取りはそう簡単には辿れないはずだ。
 そっと首元に触れれば、わずかに擦れたような痛みが残っていた。喉の奥で何かが閉ざされたような感覚も、いまだはっきりと思い出せる。
 ――〝語り〟の力を奪われたまま、あの場所で終わるのだと思っていた。
 けれど今、再び〝語り部〟としてここに在る。

(……まだ、終われない)

 その実感は決して希望だけではない、どこか形容しがたい重みを伴うものだった。
 それでも、道が続くなら進むだけだ。
 すべてが終わり、そして始まったあの日――この声に宿った力の使い方を知ったときから、心は決まっている。
 消された火を再び灯すように、連邦の語り部たちに奪われた名を返し、本当の記憶を〝語り直す〟。
 それが――あの日何一つ救えなかった自分にできる、唯一の責務だと思っていた。

 薄暗い室内に、ゆっくりと視線を巡らせる。
 部屋の隅、小さく膝を抱えるようにして眠る少女――イリス。
 乱れのない石墨色の髪、陶器のように白い頬。身じろぎひとつせず、呼吸のたびにほんのわずか、肩が上下しているのがわかる。
 小柄な背を包む濃紺のジャケットは、記録官の制服だ。
 統治の根幹を成す〝語り〟を司る機関、記録局。
 その歯車の一つであった彼女は、けれど叛逆者の手を取り、ここにいる。
 眠る少女の傍ら、床に置かれていた革表紙の帳面に、シュエルはふと目を留めた。
 そっと拾い上げ、薄い光の差す窓際で頁をめくる。
 紙面には、整った文字がびっしりと並んでいた。
 彼女が記した――シュエルの〝語り〟の記録。
 淡い光沢とともに刻まれた〝構文〟だけではない。聴取の過程で交わした言葉、観測と記録の意図、そのすべてが細かく丁寧に綴られている。
 けれど頁が進むうちに、正確無比な記録の端に、かすかなノイズが混ざり始める。
 何かを書きかけてためらったようなインクの染み、記した内容を打ち消す二重線。思考の断片のような、乱れた筆致の走り書き。
 そして――。
 最後の頁に記された一文に、シュエルは小さく息を呑んだ。

『私は、あなたの存在を願う』

 それは記録ではなかった。
 紛れもない、彼女自身の〝声〟だった。

 ――あの施設で〝語り〟を封じられていた間、シュエルはただ言葉を使った。
 語りの宿らぬ声に、現実を書き換える力はない。語り残したとて、いずれ消される記録。
 ならばせめて、この凪いだ目をした記録者の中に、わずかでも〝記憶〟として残ればいい。感情をそぎ落としたような灰青のまなざしを、ほんの少しでも揺るがせるなら。
 そうして手渡したものが、届いていたのだろうか。
 〝語り〟になり得ない、ただの言葉が。
 その実感は少し不思議で、そして――思いのほか、安らぐものだった。
 ひび割れた窓から差し込む朝の日差しが、少しずつ明らんでいく。
 その淡い光の中で、シュエルは静かに彼女の記録帳を閉じた。

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