【第十四章:寄る辺なき祈りの橋】
――風が吹き抜けた。
木々の隙間から漏れる淡い陽射しが、崖の縁を照らしている。
その先には、何もなかった。
ただ、ぽっかりと口を開けた断崖と、底知れぬ谷が広がっている。
「行き止まり、か」
息を切らせながら、シュエルがつぶやいた。
イリスは木の根を掴むようにして崖の縁で足を止めた。
背後から、複数の統率された足音が迫っていた。
振り返れば、来た道の向こうに複数の人影が浮かぶ。
制式装備の兵士たちと、傍らには先ほどの女記録官。
ノアに代わる語り部の姿はない。〝語り〟を警戒しなくていいのは唯一の救いであったが、退路を断たれ、背後に断崖を背負った状況は変わらない。
追い詰めた余裕からか、迫りくる者たちの足取りはやけにゆったりとして見えた。
そのためか――はやる鼓動の奥にふと、冷静な思考が滑り込んだ。
『記録局はまだ君の価値を買ってる』
『記録官イリスは〝対象A〟に指定されている――』
(もし、私が投降すれば――シュエルだけでも……)
〝語り〟を使って逃げるとき、彼がイリスの手を離さないのは、過去を書き換えることで塗り替わる〝今〟にイリスを取り残さないためだ。
シュエル一人なら、より自由に、より確実に追跡を逃れられるはず。
衝動が決意に変わるより先に、ふらりと足が動く。
――ふいに、そっと腕に触れる手があった。
「……言ったよな。道は俺が開く、って」
こちらの思考を読んだかのようなシュエルの言葉は、どこまでも静かだった。
「ですが……」
イリスが言い募るより早く、彼は崖の際へ一歩踏み出した。
「向こう側へ渡る道を――〝語る〟」
シュエルはそう告げて、断崖の向こう、はるか隔たれた対岸を見据える。
意識を今ではないいつかへ向けるように、淡く目を細めた。
「〝百年前、西の女王リュベシカが治めし時代、谷を結ぶ細い橋が築かれた。断崖に咲く薬草を求め、旅人は足を運び――〟」
語り部の瞳に灯ったほのかな光は、けれど、ほどなく霧散する。
過去は書き換わることなく、物語は今へと繋がらない。
深い谷は厳然とそこにある。
それでも、彼は言葉を止めなかった。
「〝五年前、真夏の嵐の夜、ひとつの雷があの大木に落ちた。横たわる幹は橋として、今も――〟」
しんと冷えた空気は沈黙を保ったまま、過去はなおも応えない。
足音が迫る。
――追いつかれる。
イリスは、拳をぎゅっと握った。
「……あるはずだ。在る、ここに、道が……」
耳朶を打ったのは、ひどくかすれた声だった。
それは、およそ〝語り〟として企図されていない。
ただ縋るような祈りが、そのまま零れ落ちたような言葉。
「……シュエル?」
イリスは、はっとして彼を見上げた。
過去を探るように薄く細められていたまなざしが、今はまっすぐに一点を見つめていた。
崖の先、何もない空間を――まるで、そこに何かが見えているかのように。
「……やがて過去となる〝今〟、歩む道は途切れてなどいない。この先へ、進まねばならない理由があるなら――」
明らんだ藍の瞳の奥に、ほんの一瞬――火の粉のような赤い光がきらめくのを、イリスは見た。
「〝言葉を導に、祈りを橋に――ここに道は在る〟」
その瞬間。
言葉が地を伝い、空気が震えた。
断崖に向かって風が走り、視界が白む。
白い靄が、谷底から静かに立ち上った。
それは確かに、ひとすじの橋だった。
幻のように揺らめきながら、それでもなお〝渡れる〟と語る、細く真っすぐな道。
「イリス」
ささやくように名を呼ばれ、強く手を引かれる。
ためらう間もなく、イリスは崖の先へと一歩踏み出した。
浮遊感を感じたのは、ほんの一瞬。
(――沈まない)
水面にも似た、柔らかな抵抗が足の裏に返ってくる。
踏み出すたびに、空間が応える。
踏み出すたび、その足元に、世界が書き換えられていく――。
「おい、消えたぞ!?」
気色ばんだ武装部隊が、足早に崖際へ駆け寄った。
覗き込んだ深い谷底に、二人の姿はない。
そこにはただ、うっすらと霧が立ち込めるだけ。
「落ちた、のか……?」
「……上の命令、生存確保だったよな……」
動揺と混乱が兵たちに広がっていく。
その中でただ一人――記録官の女だけが、深く思案するような面持ちで、じっと霧の向こう側を見つめていた。
*
崖下の岩陰に座り込んだ二人の間に、しばらく言葉はなかった。
傾き始めた陽が、谷底から立ち昇る霧を淡く照らしている。
対岸の崖はうっすらと霞がかり、影のようにぼんやりと浮かんでいる。
確かにこの足で踏みしめたはずの〝橋〟は今、どこにも見当たらなかった。
ほんの一瞬、夢でも見ていたかのような――けれど自分たちがこちら側にいるという現実は、ここに残っている。
「私たち……本当に、あの崖から渡ってきたのですよね……?」
つぶやく声が震える。
傍らから、応えはなかった。
ふと顔を上げれば、シュエルは膝をつき、地面に座り込んでいた。
額にはうっすらと汗が浮かび、肩がわずかに上下している。
「シュエル――」
名を呼んだ瞬間、彼の輪郭がふっと曖昧に揺らいで見えた。
(今、何が……)
イリスの呼びかけには応えず、視線は地面に落とされたまま。
その意識がひどく遠くにあるように感じられ、思わず鼓動が跳ねた。
手を伸ばし、肩に触れた瞬間――藍の瞳の奥に、ふっと光が戻った。
「……イリス。今、俺は……何を語った……?」
声はかすれ、ひどく心細げだった。
「自分が語った言葉が、思い出せないんだ。何を語って、あの橋が現れたのかわからない」
イリスは慎重に記憶を手繰り、口を開いた。
「……〝言葉を導に、祈りを橋に、ここに道は在る〟――記録官としての私の感覚が〝構文〟と認識したのは、そのような文言でした」
口にして改めて思う。それは語りの構文というにはあまりに異質だ。
過去を志向していない。まるで今、目の前の現実そのものを書き換えるかのような言葉。
谷底から、冷たい風が巻き上がる。
シュエルがゆるやかに顔を上げた。
「……〝語り〟じゃない」
ぽつりと口にしたのは、イリスが抱いた印象と全く同じ言葉。
「語ったつもりだったんだ。逃げるために、渡るために……書き換える過去を探して、言葉を選んで。けど、違う。あれは――〝語り〟じゃなかった。なのに、〝今〟が変わった。なんで……」
イリスは、返す言葉が見つけられなかった。
ただ彼の声だけが、静けさの中に溶けていった。