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【第十五章:白紙に記す道標】

 


 夜がすっかり落ちていた。
 岩場の片隅に、焚き火の橙色がぼんやりと灯っている。
 イリスは膝を抱え、両手を炎にかざしていた。
 浅く窪んだ岩壁を背にして火にあたれば、肌を刺すような夜風は幾分か和らぐ。それでも指の先はまだ冷えきっていて、いつものように筆記具を手に取るには、もう少し時間がかかりそうだった。
 火の粉のはぜる音に混じって、また別の小さく乾いた音が響いてくる。
 傍らで、シュエルが手にした木片にナイフの刃を滑らせていた。
 彫られていたのは、手のひらに収まる小さな箱のようだった。彼は旅の合間、こうした細工物を作っては、町の市で売ったり、必要な物品と交換したりしている。
 今夜もまた、その手は器用に木の繊維をなぞっていた。
 けれど、イリスにはわかる。――彼の心は今、そこには無い。
 どこか遠く――昼間、あの靄の上に現れた〝橋〟の向こうにでもいるような、そんな手つきだった。
 ナイフの刃先が刻む細かな文様を、そっと注視する。滑らかな円を連ねた独特の文様。今ではすっかり見慣れたその意匠は、彼の出自にまつわるものなのだろうか。
 尋ねたいと思ったことは、今まで何度もあった。
 けれど、どうしても聞けずにいた。
 灰の区画で出身地を問うた際、彼の瞳の奥に浮かんだ怒りとも痛みともつかない翳りを、今でもよく覚えている。
 そのとき――ひときわ乾いた音が耳朶を打った。
 目を向ければ、シュエルが細工していた木片に、大きな亀裂が入っていた。
 思いがけない破断に、彼は短く、低く嘆息した。
 そして、ぽつりとこぼすように口を開いた。

 

「昼間のあれ……今もまだ、自分の記憶として繋がらないんだ」

 

 それは、重い告白だった。

 

「一体、なんなんだろうな、この力は」

 

 澄んだ空気の中、その問いはしんと響いた。

 

「誰かの積み上げた過去を勝手に塗り替えて、名を奪う連中がいる。俺自身にも同じ力があるのなら、抗うために、取り戻すために使ってやる。それを〝語り〟と呼ぼうが何だろうが、どうだっていい。ずっと、そう思ってた。けど……」

 

 言葉は、そこで途切れた。
 シュエルは手の中の木片を握りしめていた。
 実体のある手触りを確かめるような、どこか慎重な仕草だった。
 迷い、悩みながらも、目の前の現実を手放すまいとするような――そんな姿にも映った。

 

「あなたの語る言葉には、塗り固められた偽りの〝正史〟を剥がし、奪われた名を取り戻す力がある。それは私自身もこの目で観測した、揺るがぬ事実です。……それ以上のことは、きっと――今すぐには、答えが出ないのだと思います」

 

 イリスは慎重に言葉を手繰った。

 

「もし、それがわかる日が来るとしても――それは、私たちが生き延びて、あなたが語って、私が記録して――その〝物語〟を、先に繋いだ時だけ」
「どっかで聞いたような台詞だな」

 

 シュエルは肩をすくめ、淡く微笑った。

 追っ手から逃れた霧の森で――イリスが自身の欠けた記憶に戸惑い、悩んだとき、何気なくかけられた言葉。
 こうしてふと口をついて出るほどに、それは胸の奥に残っている。

 

「記録局では『語り部を一人で語らせてはならない』と教え込まれます」

 

 炎を見つめ、イリスはそう切り出した。

 

「語りの私的な濫用を防ぎ、記録の正確性を担保するための規則です。……でも私は、それだけではないと思うのです」

 

 シュエルがこちらに視線を向ける気配がした。

 

「記録はときに、語り部を守る道標となります。書き換える過去と、書き換わる今の境界に立つ語り部が、〝今〟へ戻ってくるためのよすがとして、記録はある」

 

 ぱちり、と火が弾ける。
 イリスは顔を上げた。

 

「だから、シュエル。あなたの〝語り〟があなた自身をどこかへ連れ去ってしまわぬよう、私はすべてを記します。あなたを――決して、一人にはしません」

 

 シュエルの瞳がわずかに見開かれる。
 視線が交わり、数秒。
 彼は息を吐くようにふっと微笑った。

 

「なら……俺を庇って投降しようとか、妙な考えは起こすなよ」
「……やはり、気づいていましたか」

 

 うなずく代わりに、シュエルは小さく目を伏せた。

 

「なんであれ、勝手に書き換えられていく歴史を見過ごすつもりはないし、大人しく捕まってやる気は毛頭ない。なら――俺が語って、お前が記録して、消された名を取り戻していく。今、俺たちにできることはそれだけだ。……それだけ、なんだ」

 

 どこか自身にも言い聞かせるようにそう口にして、顔を上げる。
 そのまま、破断した木片を火の中に放った。

 

「……ありがとな。少し、気が楽になった」

 

 小さく告げて、彼は荷の中から新たな木片を取り出し、再び作業に取りかかる。
 胸の奥にそっと温もりが灯った気持ちで、イリスもまた、ようやく熱の通った指先をポシェットの中に差し入れた。
 使い慣れた帳面を取り出し、白紙の頁を開く。
 筆先は自然と、あの一節をなぞっていた。

 

 ――〝言葉を導に、祈りを橋に、ここに道は在る〟。

 

 記し終えると、見慣れた淡い金の光が宿る。
 けれど――ほどなくして、それらは文字そのものが光に呑まれるように消えていった。
 紙面にはかろうじて、ペン先の走った跡だけが残っている。
 どくり、と鼓動が跳ねた。

 

(やはり……これは、普通の〝語り〟じゃない)

 

 隣のシュエルに気取られぬよう、小さく息を詰める。
 動揺を鎮めるように、イリスはまた別の文を綴った。

 

 ――〝たとえ名を奪われ、筆を折られても〟
 ――〝記した想いは、消えなかった〟
 ――〝今も、遺された友の中に〟

 

 淡い金の光が、文字列をふわりと彩る。
 語り直され、塗り潰され、それでも大切な名を取り戻した若き語り部の横顔を思い出す。
 返された記憶を、想いを守るため、イリスはその構文を確かに記した。
 筆を止め、帳面を閉じる。

 

(……私は、信じている)

 

 イリスは胸の奥で言葉を結んだ。

 

(あなたの〝語り〟は希望を灯し、名を守るものだと)

 

 木を削る音がふと止んだ。
 シュエルは彫り終えた木片の一角を、確かめるように炎にかざしていた。
 橙の明かりに、何かを語りかけるような滑らかな文様が浮かび上がる。
 仕上がりに納得したように小さくうなずいて、彼は再び木片に刃先を当てた。
 炎に照らされた横顔は、冬めく夜気のように静かに澄んでいた。

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