【第十三章:忘却の綻び】
山道に分け入ると、冬の気配がいっそう強まった。
ヴァスロの町を離れておよそ二週間。森を鮮やかに染めていた紅葉はすでに遠く、落葉はほとんど地に降り尽くしていた。
裸になった枝々を、冷たい風が揺らしていく。
季節はすでに、冬の初めへと差し掛かっていた。
朝晩の空気は肌を刺すほどに冷たくなっている。それでもまだ雪は降らず、陽のあるうちの道はかろうじて凍らずにいた。
乾いた葉を踏みしめるように歩みを進めながら、シュエルはちらりと背後を振り返る。
イリスは、数歩後ろを黙々と歩いていた。言葉が少ないのは互いにいつものことだが、心なしか彼女の視線は足元に落ち、呼吸が速い。
一気に冬めいた空気に、知らず足取りを急かされていたのかもしれない。そう気づかされ、シュエルは少しずつ歩調を緩めた。
やがて、緩やかな斜面を越え、開けた場所に出た。
苔の生えた岩と、幹の太い楢の木が寄り添うように立っている。
葉の落ちきった枝の間から仰ぐ山の峰は、うっすらと雪をかぶっていた。
「ロクの村は……ちょうど、あの山の中腹辺りになりますね」
折り畳んだ地図を片手に指さすイリスに、シュエルはうなずいた。
「ずいぶん回り道になったけど……なんとか、間に合いそうだ」
ふっと吐き出した息が白く曇って、ゆっくりと空に溶けていく。
そのとき――ふいに、乾いた草を踏む足音が静寂を割った。
背後で、風を裂くような気配。
「……来る」
視線を向けた斜面の上で、金糸に縁取られた黒のローブがはためいた。
風の音に低く混じる〝声〟を捉えた瞬間――ぐん、と足元の地面が軋んだ。
枯草の下から無数の蔦が膨れ上がり、まるで意思を持ったかのように、ねじれながら急速に伸びていく。
一斉に生え広がった蔦の一端が、イリスの足元を襲った。
「っ――」
彼女はとっさに跳ねようとしたが、足首を取られ、その場に膝をついた。
「イリス!」
駆け寄ろうとしたシュエルの足元にも、蔦が絡みつく。
細い蔓はあっという間に親指の太さほどに育ち、縫い留めるように両足の動きを封じた。
「その蔦には毒がある、下手に素手で触らないほうがいいよ」
頭上から響いた声に、絡みついた蔦をほどこうとしていたイリスの手が止まる。
「記録官が利き手を損なうのはまずいでしょ?」
「……ノア」
ゆったりとした足取りで斜面を下りてきたのは、霧深い森で対峙した、あの若き語り部だった。
「……なるほどな。この辺りの植生を局所的に書き換えて、はるか昔に滅んだはずの種を〝喚んだ〟ってわけか。制度(そっち)の語り部にしては、面白いことをする」
シュエルの分析に、ノアはわずかに眉を上げた。
「おや、もう解析されたか。けど――いつまでそんな余裕でいられるかな?」
愉しげに口角をゆがめた語り部に、傍らに控える女記録官は冷ややかな視線を向けた。
「ノア、計画外の構文をあまり多用しないでください。記録の正確性を欠けば、長くは保ちません」
「保つ必要もないでしょう、僕たちの役割は足止めと時間稼ぎです。それに、書き換えられたってすぐ語り直せばいい。僕、それが得意なんで」
悪びれる様子もない彼に、記録官は小さく嘆息し、淡々とした所作で何かを取り出した。
次の瞬間、掲げた手から空に放たれたのは、赤い光を放つ発光弾だった。
乾いた破裂音が木々の間にこだまし、光の尾が細く空へと伸びていく。
「狼煙……」
イリスが低くつぶやいた。
それが意味することは明らかだった。彼らの他にも、自分たちを追う後続の部隊がこの山に潜んでいる。
あまり時間は残されていない。
(さて――どう崩すか)
シュエルは足元を見下ろした。膝の辺りまで巻きついた蔦は、動かそうと試みても緩む気配がない。覆すための〝語り〟の道筋は浮かんだが、間髪置かず相手も語るだろう。イリスと分断されている分、霧の森で相対したときより分が悪い。
再び顔を上げ、語り部を正面から見据える。
黒いフードの向こうに覗く、冷たく細められた鳶色の瞳。
ふと――見つめる先で、彼の輪郭がぶれた。
語り消された〝過去〟の呼び声。
それが、目の前の男の中に色濃く刻まれている。
(こいつ自身が、〝語られて〟いる……?)
まなうらに流れ込むのは、断ち切られた記憶の痕跡。
――ざらりとした新聞用紙の手触り。
――鼻を突くインクの匂い。
――活字の向こうで快活そうに笑う、一人の青年の姿。
『ライネル』
青年にそう呼びかけたのは、今よりも顔立ちに幼さの残る在りし日のノア。
鳶色のまなざしは、まっすぐに澄んでいた。
『僕は信じるよ。君の言葉は、きっとこの国を変えられるって』
――目を開ける。
意識を半ば過去へと向けたまま、シュエルは目の前の語り部に問いを投げかけた。
「あんた、なんで連邦の語り部なんかになったんだ?」
ノアは嘲笑を浮かべた。
「持って生まれた才で栄誉ある職に就く、そこに理由が必要かい? 少なくとも、君みたいにくだらない叛逆者を気取るよりはずっと合理的だと思うけど」
「そうかな。かつてのあんたは、言葉で何かを変えられるって信じていたはずだ」
「……何?」
怪訝そうに眉をひそめたノアに、シュエルは一つの名を告げた。
「〝ライネル〟」
そのたった一語で、彼の表情が、かすかに揺れた。
冷たく研ぎ澄まされていたまなざしが、瞬きひとつ分だけ曇る。
「この名前を、あんたは憶えているはずだ。――彼は首都の片隅で、新聞を作っていた。体制に抗う記事を書いて、ある日突然〝消された〟。あんたは、居なかったことにされた友の名を叫び続けた」
「耳を傾けるな、ノア」
記録官の声が、鋭く飛ぶ。
「あんたの言葉は、都合のいい秩序を均すためのものじゃない。たった一人の友の名を、その遺志を、語り伝えることができるはずだ」
「惑わされるな!」
「〝たとえ名を奪われ、筆を折られても――〟」
記録官の制止にかぶせるように、シュエルは〝語った〟。
「〝記した想いは、消えなかった。今も、遺された友の中に〟」
ノアの動きが、ぴたりと止まる。
唇が、かすかに震えた。
「ライネル……そうだ、あいつは……新聞を作って、捕まって……」
何かを思い出すように、彼は目を見開いたまま、その場に崩れ落ちた。
はずみでフードが外れ、やわらかな灰褐色の髪が風に揺れる。
「僕は、あいつを……なんであいつのこと、忘れて……」
膝をつき、虚空を見つめる鳶色の瞳が、波立つようにわずかに潤む。
それを一瞥し、シュエルは静かに目を伏せた。
「――〝彼は語らなかった。ただ、友の名を呼んだ〟」
ささやくように言葉を置いた、その瞬間。
辺りを覆い尽くしていた蔦が音もなく一斉にしおれ、やがて跡形もなく崩れ落ちた。
自由を得た足で、シュエルはすぐさまイリスのもとに駆け寄った。
「怪我はないか」
「ええ」
イリスは短く答え、土を払って立ち上がる。
「……再構成が崩れたか」
うずくまるノアを見下ろし、記録官が低くつぶやいた。
(――再構成)
その無機質な響きが、ふと耳に残った。
「急ぎましょう。すぐに追っ手が来ます」
イリスの静かな声にうなずき、茂みの向こうへと足を向ける。
視界の端で捉えた、若き語り部の腕をつかんで立たせる記録官の横顔は、ぞっとするほど冷たかった。
*
獣道を折れ、斜面を駆け下りる。足元の小枝がぱきぱきと鳴り、湿った土が靴の裏に貼りついた。
ある程度距離をとったところで、慎重に歩調を緩めていく。
黙々と歩みを進めながら、シュエルの胸の内にはずっと、苛立つようなざわめきがあった。
「……なあ」
道の先を見据えたまま、低く声をかける。
「再構成、って――さっき、あの記録官が言ってたよな。あれ、どういう意味だ?」
イリスは短く呼吸を整えると、静かに答えた。
「語り部として整えるため、当人に対して直接施される語りです」
「……整える?」
意味がつかめず眉を寄せる。
イリスは言葉を探すように、数歩分の間を置いた。
「あなたは、語り部がどのようにして語り部となるか、知っていますか?」
「……ある日突然、〝語り〟の力が目覚めるんじゃないのか。少なくとも、俺はそうだった」
イリスの眉がわずかに動いた。
「そのような例は、そう多くはありません。因子があったとしても、自発的には過去を書き換える〝語り〟に至らない者がほとんどです」
「その、〝因子〟ってのは?」
「声に力を宿し、媒介層に干渉できる資質――記録局は〝語り因子〟と呼んでいます。先天的な素質であり、これがなければ〝語る〟ことはできません。シュエル、あなたにもこの因子が備わっているはずです」
歩きながらも、イリスの語り口はよどみなかった。
「語り因子を持つ者は、時として〝正史〟と自分の記憶との間に齟齬が生じます。それによって不自然な発言や行動が出てくる。その違和をきっかけに、記録局に把握されるのです」
「つまり、あいつは普通なら忘れてしまうはずの消された友人の存在を頑なに叫んだことで、記録局に目をつけられた、ってわけか」
イリスはうなずき、わずかに目を伏せた。
「そうして局に把握された対象は、選別されます。自発的に制度へ組み込まれる者は、語り部候補として育成されます。記録局の養成所で構文構築の基礎と記録官との連携を叩き込まれ、正史を築くための〝語り〟の力を身につけていく。――〝語り部〟という職に就けば、当人の親族も含めて生活は保証され、身分も安定します。ゆえに、説得に応じる者も多いのです」
「……で、そうでない場合が〝再構成〟ってやつか」
「ええ。緻密に組み上げられた特殊な〝構文〟と記録でもって、当人を直接〝語り直す〟。制度への反発や疑念のもととなる記憶を取り除き、〝語り部〟として望ましい在り方に整えるための処置です」
そこまで言って、イリスはわずかに顔を曇らせた。
「灰の区画で……あなたにも、同様の処置が予定されていました」
「なら、お前のおかげで命拾いしたな」
軽い調子で放った言葉に、彼女の引き結んだ口元がわずかに解ける。けれどポシェットの肩紐を握る手には、きゅっと力がこもったまま。
かつて、自分もその制度の一部だったことを思い出しているのかもしれない――シュエルにはそんな気がした。
「再構成は、対象の〝語り因子〟が強いほど定着しづらい。その場合は何度も繰り返し、語り直されます。因子の強さは〝語り部〟としての才に比例しますから、局もそう簡単に手放しはしないでしょう」
「つまり……あいつが思い出した記憶も、結局また消されるってことか」
吐き出すようにつぶやいた。
奪われた〝名〟を呼んだとき、ノアの見せた表情が、脳裏に焼きついていた。
何かを取り戻した者の、瞳の奥に宿った一瞬の光と、感情の揺らぎ。
それがまた、奪われるのだとしたら――。
「それでも……あなたの言葉は、どこかに残るのだと思います」
澄んだ声が、逆立った心にふと触れた。
シュエルは、隣を歩く少女の横顔に視線を向けた。
灰の中心に空色を宿したまなざしは、まっすぐに前を見据えている。
「……私が、そうであったように」
彼女はそう言って、肩から提げたポシェットの内側にそっと手を入れた。そこに収めた帳面の感触を確かめるように。
「だから、私が記します。あなたが取り戻した名が、語り直しに抗えるように――」
そのとき、背後の森からかすかな足音が響いた。
まだ距離は遠いが、枯草を踏むように走ってくる複数の気配。
シュエルとイリスは短く視線を交わし、素早く駆け出した。
木々の合間を縫い、尾根道を越えていく。
陽の差す傾斜を登りきった先で、ぱっと視界が開けた。
そこにあったのは――無慈悲な断崖だった。