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【第十二章:泉の底に沈んだ名】


 空がうっすらと白み始めるころ。町は深い眠りの中にあり、石畳の通りも、人の気配を失っていた。
 シュエルとイリスは、そっと宿を出て、泉のある広場へと足を運んでいた。
 冷えた空気が肌を刺し、吐く息は淡い白を引いては、すぐに消えていく。
 真白い祠と泉は、薄灰の空の下、ぼんやりと浮かぶようにそこにあった。
 水の中にはまだ、夜の名残のような仄暗い闇が沈んでいる。
 シュエルはゆっくりと歩み出て、泉の前に立った。
 その傍らで、イリスは静かに筆記具を整える。
 シュエルはしんと凪いだ水面を見つめ、わずかな逡巡の後、口を開いた。

「――〝リーア〟」

 その響きの短さに、イリスは小さく顔を上げた。
 アイリーア・ラドミル。それが、語られるべき少女の名であるはずだった。
 彼が呼んだのは、家名といくつかの音を削ぎ落とした、偽りの名前。  

 

「今から、君の記憶をここに返す」

 

 ささやくように告げて、シュエルは真白い祠の前に膝をついた。

 

 ――薄汚れた町、飢えた人々、淀んだ井戸の傍らに
 ――まばゆい白を纏い、現れた一人の少女。
 ――その姿はさながら、天の御使い、あるいは聖女。
 ――けれどこれは神話でも、遠い昔の物語でもない。
 ――〝リーア〟と呼び慕われたその少女は
 ――確かに、ここに生きていた。

 

 冷えた空気の中、声はしんと響いた。
 応えるように、水面がわずかに波立つ。
 失われた過去と今のあわいを見つめるように、薄く開かれたシュエルの藍の瞳に、ほのかな光が揺れた。

 

 ――ある時はパンを分け与え
 ――あるときは病に伏せる者を見舞い
 ――子どもたちの輪の中で物語をうたった。
 ――数多を救い、そして同じだけ救われた。
 ――与えることで、与えられた。
 ――笑顔を、そして友を得た。

 

 その〝語り〟は、正しさではない。
 何かを変えるためでもない。
 ただ一人の少女の在った証を残すためだけに紡がれる言葉たちを、イリスは黙々と記していく。
 その筆先を追いかけるように、帳面の上で金の光が躍る。

 

 ――届かなかったいくつもの叫びも
 ――たったひとつの叶えられた願いも
 ――真実は黙せる泉の底に。
 ――それでも、君を忘れない。

 

「リーア」

 

 彼の声が再び、その名をなぞったとき。
 ――ふ、と。
 泉の傍らに、影のような光のような、淡い気配を感じた。
 まるで語られた少女が、そこに佇んでいるかのように。
 顔を上げたら消えてしまう気がして、イリスは帳面に視線を落としたまま、筆を走らせ続けた。

 

(私もまた、彼の呼んだ名を記す。彼女が――そう生きたとおりに)

 

 ――確かに、ここに生きていた。
 ――そして、君はここにいる。
 ――交わした言葉、触れた手の温度、想う人の心の中に。

 

 シュエルの〝語り〟の、最後の一文字を記し終えたとき――。
 風が吹いた。
 それまで漂っていた作り物のような静けさを洗い流す、確かな空気の流れ。
 泉の水面が、うっすらと光を帯びた。
 差し込み始めた朝日の反射とは明確に異なる、水底からほのかに輝くような淡い光。
 その光に目を奪われた、ほんのひとときの後。
 泉の傍らに佇む小さな祠は、その姿を大きく変えていた。
 光を吸い込むような、無骨な黒い石で覆われた祠。
 よく見ると、石の一つにはいくつかの文字が刻まれている。
 イリスは祠のそばに歩み寄り、わずかに風化の痕跡がある文字列を辿った。

 

 ――リーア。
 ――淀みの底に咲いた、美しき花よ。
 ――あなたを忘れない。

 

「あなたは、この祠に刻まれていた名を呼んだのですね。彼女の、本当の名前ではなく」

 

 祠を見つめるシュエルの横顔が、うなずくようにかすかに揺れた。

 

「そうじゃなきゃ、〝リーア〟としてここにいたあの子の記憶を、返せない気がしたから」

 

 彼はそう言って立ち上がり、泉の方をちらりと見やった。

 

「そのせいか……ちょっと、妙な景色にはなったけどな」

 

 イリスも肩を並べ、辺りをぐるりと見渡した。
 仮初の物語として謳われた、白く整えられた泉は変わらずそこにある。
 その傍らに正反対の黒い祠が佇む光景は、どこかちぐはぐでもあった。
 イリスはふと、腕の中の帳面に視線を落とした。
 彼が語ったのは、自身が記したのは、正確無比な史実ではない。
 けれどそれは、ここで呼ばれた名を、かつてその名を呼んだ者たちの想いを、守り続けていく。
 その実感がどこか、誇らしいと思えた。
 そんな思いで、紙面の上の淡く輝く文字列を見つめていると、ふと、シュエルの視線を感じた。

 

「全部、残ってるんだな。ここに」

 

 ぽつりと声が落ちる。


「ええ。それが記録です」
「そっか」

 

 吐息のような小さな相槌には、どこか安堵の色があった。

 

「いつかイリスは俺に訊いたよな。語ったことのすべてを憶えているのか、って」

 

 イリスはこくりとうなずいた。

「そうじゃなきゃ消えてしまうって思ってた、ずっと。……けど、今は少し、安心してる」
「安心、ですか?」

 

 張りつめた糸をわずかに緩めるように、彼は微笑った。

 

「語って、取り戻した記憶が、いつか俺という〝語り部〟が居なくなっても、お前が記した文字の中に残るってことだから」
「――」

 

 喉の奥がきゅう、と詰まった。 
 自分がここにいる意味を、認められている。必要とされている。
 けれどその充足感を、胸騒ぎにも似た違和感がかき消した。

 

「……居なくなっては、困ります」

 

 そのまま言葉にして伝えると、シュエルは一瞬きょとんとした表情を見せた。

 

「悪い悪い、言葉のあやってやつだ」

 

 彼は困ったように肩をすくめてみせる。
 イリスとて、そんなことはわかっていた。それでも、どうしても伝えておかなければいけない気がしたのだ。自身をそのように突き動かした衝動に、明確な理由は見つけられぬまま。
 滑り込んだ静寂の中で――ふと、かすかな足音が聞こえてきた。
 そろって視線を向ければ、朝焼けに照らされた坂の上から、一人の老婆がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
 腰は大きく曲がっているが、その手に杖はない。小さくも確かな足取りで坂を下り、一歩ずつ泉の広場へと向かってくる。
 坂を下りきったところで向こうがこちらに気づき、イリスは小さく会釈を返した。

 

「おや、こんな時間に旅の人なんて珍しい。寒いのにご苦労さんだねぇ」

 

 同じ場所で昨日、泉の花嫁の伝承を語り聞かせてくれたあの老婆だと――気づくのにしばし時間を要した。
 昨日、昼下がりの日差しの中で広場の片隅に腰掛けていた彼女は、老いた者特有のゆったりとした時間をまとい、優しげに垂れたまなざしはどこか曖昧にかすんでいた。
 けれど今、深くしわの刻まれた目元の、その奥にのぞく瞳は凛と澄み、語り口にも快活さがにじむ。
 彼女はそのまま、一歩ずつ、迷いのない足取りで黒い祠の前に立った。
 慎重に腰を屈めると、手にした小さな花を祠の根元に供える。

 

「ここは昔、この街を救ってくれた女の子のために建てられた祠なのさ」

 

 祠に視線を向けたまま、老婆はぽつりと語った。

 

「〝聖女リーア様〟……なんて、あたしは一度もそんなふうに呼んだことは無かったけどね」

 

 その言葉に、傍らでシュエルがはっと息を呑む気配がした。
 イリスも、少し遅れて理解する。

 ――彼女こそが、語り部の少女リーアが命を賭して守ったという〝親友〟なのだ。

 

「リーアはね、あたしには無いものを持った女の子だった。ひよわそうなお嬢さんだと思ったら、意外と負けん気が強くてさ。本当はずっと、あの子に憧れていたんだ。……あんな形で別れが来るんなら、もっと素直になっておくんだった」

 

 ふいに言葉の終わりがかすれたと思うと、老婆の目がじわりと潤んだ。

 

「……ああ、嫌だね。年をとると涙もろくなっていけない。久しぶりに、あんたの夢を見たからかしらねぇ。あたしはすっかり婆さんになったってのに、あんたってばいつまで経っても綺麗なお嬢さんのままなんだもの……」

 

 しわの刻まれた頬に、ひとすじの涙が伝う。
 祠に向かって、彼女の震える手がゆっくりと伸ばされる。在りし日の親友の姿を、そこに見ているかのように。
 イリスとシュエルはそっと視線を交わし、小さく頭を下げ、静かに泉をあとにした。

 

 坂を登ったところで振り返れば、老婆の小さな背は、まだ祠のもとにあった。
 失われた名を取り戻した者の、静かな悼みの姿。
 やわらかな朝日の中、返された時の重みが、確かにそこに灯っていた。
 

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