【第十一章:沈黙の語り部】
晴れ渡る空の下、火災の痕跡は、いまだ生々しく街の片隅に残っていた。
崩れた石壁は黒く炭化し、屋根を失った家々は空をむき出しにしている。
石畳にこびりついた煤は、踏みしめられるたびに乾いた音を立て、焦げた匂いを風が運んでいた。
煤けた通りを、一列の行進が進んでいく。
兵に囲まれ、縄を打たれ引き回されていく一人の少女――ラドミル公爵令嬢、アイリーア。
粗末な衣を着せられ、丁寧に梳られていた豊かな金髪は、見る影もない。
それでも彼女は毅然と顔を上げ、確かな足取りで歩いていた。
群衆が道の両脇にひしめいている。
ざわめきは低く、押し殺されていた。
『違う、あの子じゃない! あの子が火付けなんてするわけないんだ!』
ふいに、粗末な身なりの一団から声が上がった。
叫んだのは、あの焼け跡で兵士に取り押さえられていた娘。
『なあ、こんなのおかしいだろ? どうしてみんな忘れちまったんだよ?』
『忘れてなどいないさ。聖女リーア様は……いや、アイリーア様はたった一人、私たちのために抗ってくださったんだよ』
『娘として、最後まで悪魔公を諫めようとしてくださったのだろう』
『違う! あたしたちはみんな、悪魔公を打ち倒すために一緒に戦ってたじゃないか!』
『おいメル、物騒なことを言うんじゃない。お前まで連邦のやつらにしょっ引かれるぞ』
メルと呼ばれたその少女は必死にすがりつくが、人々は憐れみの目を向けるばかりだった。
彼女はくずおれるようにその場に膝をつく。
『……ちがう……本当は……本当は、あそこにいるのはあたしだったはずだ』
ふと――アイリーアがゆっくりと振り返った。
薄く開かれた唇から、言葉が生まれる。
『さようなら、メル。あなたとお友達になれて、わたくしは幸せでした』
ささやくような声は風にかき消され、友の耳には届かない。
けれど――続けて紡がれた〝祈り〟は、世界の根底を揺るがした。
『だから、どうか――〝わたくしのわがままを許してね〟』
アイリーアの涙をたたえた琥珀色の瞳が、ほのかに明らんだ。
『……リーア……どうして、あんたが……』
メルのまなざしから強い意志の光が消え、漠然とした憂いだけが残される。
――歴史は、確かに〝書き換えられた〟。
高く晴れ渡る空を仰ぎ、アイリーアは微笑んだ。
『ああ、ようやく……ようやく、わたくしの〝言葉〟は届いたのだわ』
幸福に満たされた、麗らかな乙女のように。
*
通りの片隅に佇む宿の二階。その一室へと通じる扉を、イリスはそっと叩いた。
しばらく待つが、応答はない。
今度はわずかにノックの勢い強めるも、変わらず沈黙が返された。
逡巡の後、イリスはそっと扉を押し開けた。
夕日の差し込む小さな部屋。その奥で、シュエルは開け放した窓枠に軽く腰掛けるようにして佇んでいた。
赤く傾いた陽に縁取られた横顔。まなざしは眼下の往来へと向けられていたが、その意識はどこか己の内側、あるいは遠い過去の中に在るように見えた。
そっと踏み出した足元で床が軋み、彼が振り返る。
「……悪い、気づかなかった」
「いえ」
短く答え、イリスは部屋の隅の書き物机の側に腰を下ろした。
机の上に設えられた小さなランプに火を灯し、ポシェットから使い慣れた万年筆と、革表紙の帳面を取り出す。
「聞かせてもらえますか。あなたの目に映った、この町の本当の過去を」
「……ああ」
帳面を広げ、万年筆のキャップを外す。
その一連の作業を待つように少しの間を置いて、シュエルが口を開いた。
「アイリーア・ラドミル。それが、この町を〝語った〟少女の名だ」
語られたその名を、イリスは即座に書き留めた。
「ラドミル……では、公爵家に連なる者ということですか」
「そう。〝悪魔公〟ヴェルナー・ラドミルの一人娘だ」
「そのような人物が存在したという記録は、どこにも――」
言いかけて、イリスはわずかに目を見開いた。
「消されたのですね。記録局の〝語り部〟たちによって」
シュエルは短くうなずいた。
「公爵令嬢アイリーア・ラドミルは、初めから〝居なかったことにされた〟。代わりにこの町に植え付けられたのが、〝泉の花嫁〟の伝承だ」
彼の視線が、再び窓の外へと向けられる。
「五十年前、あの場所に〝花嫁の泉〟なんてなかった。今は白く塗り固められたあの辺りは貧民街で、そこにあったのは水の濁った古い井戸。ここは、丘の傾斜がそのまま格差の象徴みたいな土地だった」
イリスは静かに筆を走らせていく。
「アイリーアは民の暮らしに心を痛め、父親の暴政を諌めていた。けれど、彼女の声は届くことはなかった。だから彼女は丘を下り、〝リーア〟と名を偽って、いちばん貧しい人たちが暮らす町の最下層へ通っていた。あるときは持てるだけのパンを抱えて、あるときは薬を携えて。そうしていつしか、貧民街の住人たちに聖女リーア様と慕われるようになった」
淡々と過去をなぞる語り口には、けれど、どこか血の通った温度があった。
「貧民街の住人たちに一人だけ、彼女の正体を見抜いた少女がいた。あんたは聖女なんかじゃない、ただの偽善者だと、少女は罵った。けど、アイリーアにとってはそれがどこか心地よかった。たった一人、自分に敬称をつけて呼ばないその少女と、いつしか身分を超えた親友みたいな関係になっていった」
シュエルはそこで、わずかに声を低く落とした。
「蜂起の計画と貴族の介入を知ったアイリーアは、親友を止めようとした。けど、間に合わなかった。だから彼女は〝語る〟ことで名を書き換え、因果を入れ替え、すべての罪を自分に引き受けた。そうして――貴族街の大火は〝ラドミル公爵令嬢の乱心〟ということになって、彼女は火付けの罪人として処刑されたんだ」
「――」
万年筆を持つ手が、思わず止まった。
「彼女が処刑場へと引き立てられていった道が――ちょうど、この下の通りだ」
「それが……先ほど、あなたが視ていた光景だったのですね」
うなずくように、彼の横顔がかすかに揺れた。
「……笑ってたよ、あの子は。最期まで。父親を諌めることも、親友も守ることもできなかった、無力な自分の言葉が、初めて〝届いた〟んだって」
声はどこか、痛みのようにかすれていた。
「この町には、アイリーアが過去の書き換えを試みた〝語り〟の断片が、いくつも残ってる。時を戻せるなら、もう一度やり直せるなら、あの火事を無かったことにできるなら――連邦のやつらが使う〝構文〟とはまるで違う、剥き出しの願いのような言葉がな。その中でたった一つだけ、彼女が望む〝今〟へと因果がつながったのが、自分自身を犠牲にする書き換えだったんだ」
シュエルの話はそこで途切れた。
イリスは筆を止め、自身の書き記した文字列を反芻するように読み返す。
「……わかりません」
こぼれ落ちたのは、純粋な戸惑い。
「そのような〝語り〟が……定められた構文にも記録にも依拠しない書き換えが成立し得る可能性は、理解はできます。あなたという特異例を、この目で見ていますから。だとしても――」
顔を上げ、目の前の〝語り部〟へと問いを投げかける。
「語り部とは、自分の命を差し出す〝語り〟を、成し得るものでしょうか? 意志を揺らがせず、感情に吞まれることなく、企図した歴史を語りきることが、本当に可能なのでしょうか?」
部屋の中に、しんと静寂が落ちる。
シュエルが口を開いたのは、数秒の後だった。
「……大事な人を助けたいって思った、語る声ひとつで届くなら、叶うなら、なんだってする。その気持ちは、俺にはわかるよ。失くしてしまったら、もう二度と、戻らないから」
まなざしは、暮れゆく街を映したまま。
静かな声の奥には、どこか、共感を超えた切実さがあった。
(シュエル、あなたにも……)
そのような、取り戻したい過去があるのか。
ふとよぎった問いを口にはできぬまま、イリスは小さく目を伏せた。
「あの泉の傍らにあった、小さな祠――あなたが見たという〝黒〟の祠は、彼女を悼むためのものだったのですね」
シュエルはうなずいた。
「何もかもが書き換わっても、人々は忘れなかった。かつて自分たちを救ってくれた〝聖女〟を、分け隔てなく向けられた笑顔を。自分たちが彼女に守られたのだと、きっと、どこかでわかっていたんだ」
「……だからこそ、消されてしまった」
低くつぶやき、イリスは帳面に視線を落とした。
「制度に属さない〝語り部〟が存在してはいけない。〝語り〟という力が、〝語り部〟という異能者の存在が露見してはならない。だから記録局は、あんなにも大がかりな〝泉の花嫁〟の伝承を植え付けたのでしょう」
「亡き聖女を慕う想い、悼む心を、体のいい信仰にすり替えてな。生き様も、散り際も、すべて人々の記憶から消された。けど……あの子はそんな幻想のために死んだわけじゃない。友を守るため、自分の意志で、その身を捧げたんだ」
シュエルの藍の瞳が、まっすぐにイリスを見た。
「ここに生きていた彼女を、彼女を慕った人たちの思いを、無かったことにさせはしない。――物語の底に沈められた少女を、彼女が存在した証を、この町にかえしたいんだ」
イリスもまた、そのまなざしに応えた。
「夜が明ける前に、あの泉へ行きましょう。あなたの語る真実を、私はこの手で記します」