【第8章:記されざる一夜】
灰の区画の看守塔の一角。聴取任務のために間借りしている部屋の中で、イリスは、机の上に並べた雑多な物品と向き合っていた。
使い込まれた濃灰色の外套の傍らに、簡素な背負い袋が一つ。その中から取り出した、小さく折り畳まれた地図、水筒や火打ち石、繕い物用の針と糸。
それらはすべて、拘束時に押収された〝叛逆の語り部〟シュエルの所持品だ。
〝語り〟に関わるものがあれば、記録の補助資料として持ち帰るよう指示を受けている。その最終確認のための作業だった。
旅人然とした無駄のない所持品が並ぶ中に、ふと、鞘に収められた一振りの小さなナイフに目が留まった。
木の鞘と柄は年季の入った飴色をしていたが、中に収められた刃はよく研がれていた。
鞘の表面には、円を連ねたような繊細な文様が彫られている。何かを語りかけてくるような、意志を感じる線の流れ。
同じ文様が、布に包まれた真新しい小箱や櫛といった細工品にも刻まれていた。中には作りかけと思しき木片も見受けられる。
(これは……彼の手によるもの?)
見慣れぬその意匠をしばし見つめ、改めて実感する。
――時間をかけて聴取を重ねてきたけれど、彼自身のことを、イリスは何一つ知らないのだと。
ナイフを鞘に収め、改めて机の上に並べた品々を見渡す。
いずれも資料としての必要性は薄いだろう。そう判断して、イリスはそれらを丁寧に片付け、元の袋に収めた。
イリスがここで為すべきことは、すべて終わった。
これから記録局へ戻り、書きためた記録を清書し提出すれば、記録官としての任務は完了する。
それらをもとに、国の語り部があるべき〝正史〟を再構成し、シュエルの語った言葉は――帳面の頁を剥がし取るように、歴史から消し去られる。
語られた名の一つ一つも、記憶も、感情も。
あるいは、シュエルという存在そのものさえも――。
『イリス』
名を呼ぶ声が、頭から離れない。
『あんたにとって、祈りってなんだ?』
思い出すのは、あの部屋で交わした対話の一欠片。
言葉は無二の軌跡であり、名は存在の証。
彼が呼び起こしたものは、誤謬でも歪曲でもなく、確かに、誰かの〝生〟そのものだった。
たった一つの存在を願う、祈りの形。
(あの人が語ったのは、〝祈り〟だった)
胸の奥でふるえた、ひとつの答え。
そして、ふと気づく。
(――祈り)
記憶の中に存在しないと思っていたその感情が――今、確かに自身の中に芽生えていることに。
(彼を、失ってはならない)
突き動かされるように、イリスは鞄の中から革表紙の記録帳を取り出した。
それは、判断ではなく――意志だった。
帳面をめくり、新しい頁を開く。
万年筆を手に取り、記すのは、誰かの語った言葉ではない。
――〝私は、あなたの存在を願う〟。
空白を生きてきた少女の、初めての〝選択〟だった。
*
足音を殺し、灰色の廊下を進んでいく。
向かうのは、最下層の拘置区画。
叛逆の語り部――シュエルが留め置かれた部屋。
見張りの兵士が一人、格子状の扉の前に立っていた。
「記録に重大な漏れがあったため、急ぎ対象に接触します」
表情ひとつ変えず、イリスは記録局の記章を掲げる。
兵士は眉をひそめたが、立場を示す記章を確認すると素直に頷いた。
腰に下げた鍵束の一つを取り出し、扉を解錠する。
カチリと音が鳴ったのを確認して、イリスは一歩踏み出し、静かな声で告げた。
「〝叛逆の語り部〟に関する記録は重要機密事項です。音声の届かない距離まで離れてください」
兵士は一瞬、迷うようにイリスを見たが、小さく頷いて数歩後退した。
照明の届かない廊下の角に、兵士の影が吸い込まれていく。
イリスは格子状の扉を押し開け、そっと足を踏み入れた。
中には、薄暗い灯りの下で静かに佇むシュエルの姿があった。
語りを封じる首環の光が、うっすらと喉元で揺れている。
彼は顔を上げ、イリスを見るなり皮肉げに口角を上げた。
「なんだ、記録官様直々に、最後の挨拶にでも来てくれたのか」
「……そうかもしれません」
淡々と答え、シュエルのそばへ膝をつく。
彼が怪訝そうに眉を寄せる気配には構わず、イリスは帳面を開き、万年筆を構えた。
あたかも記述を行っているような動作を装いながら、見張りの死角になる位置取りで、左手の袖口に潜ませた小鍵を手のひらに滑らせる。
帳面の陰で鍵を利き手に握り直すと、首環の施錠部へそっと手を伸ばした。
かすかに金属の音が鳴る。
ほどなくして、鋭い金の光がひとすじ、閉じた環の外周を駆け巡った。
首環が外れ、音もなく手の中に収まる。
シュエルが驚いたようにこちらを見た。
けれど、イリスはあくまで表情を変えず帳面をめくった。
現れたのは、ここへ来る前に記しておいた、灰の区画内部の簡易な地図。
その上に万年筆の先で現在地を示し、そこから階段、廊下、通用口……最後に裏門の方角へ矢印を引いた。
「……なぜ」
ささやくような、短い問いが漏れる。
イリスは答えた。
「あなたを、失ってはならないと思ったから」
その言葉を聞いたシュエルの顔に、あらゆる感情が一瞬にして去来した。
口を開き、何かを言いかけた彼を――廊下の奥から兵士の声が遮った。
「記録官殿、進捗状況はいかがですか?」
反射的にイリスが応じようとしたそのとき、シュエルが片手で制した。
「――俺に任せてくれ」
そうささやき、わずかに視線を伏せると――低く短く、何かを〝語った〟。
刹那、彼の瞳に宿る藍色が、ふっと、かすかに明らんだ。
光というよりは、灯りのような揺らめき。
扉の外、兵士の影が急にぐらりと揺れた。
続いて、鈍い音と共に、身体がゆっくりと崩れ落ちる。
数秒後、聞こえてきたのは、深く安らかな寝息だった。
シュエルは静かに立ち上がり、様子を窺うようにそっと扉際へ近づいた。
「こいつは、ここ三日眠れてないってことにした。少し気の毒だけどな」
冗談めかした口調で言って、肩を竦める。
そしてイリスを振り返ると、少しだけ真顔になって問いかけた。
「俺がこのまま逃げたら、あんたはどうなる」
「……わかりません」
「まあ、ろくな目には遭わないよな」
シュエルは静かに言い、それからほんのわずか躊躇したのち――そっと、右手を差し出した。
「どうする、一緒に来るか?」
その声は意外にも軽やかで、まるで、散歩にでも誘うような気安さだった。
イリスは数秒間、その手を見つめた。
この手の先にあるものが何なのか、予測はできない。
それでも――〝選びたい〟という感情が、強く湧き起こった。
誰かに命じられたわけでも、定められたわけでもなく。
ただ自分自身の意思で、何かを選ぶということ。
その端緒をくれたのは、目の前の少年だった。
イリスは、ゆっくりと手を伸ばした。
ざらりと荒れた皮膚の感触、血の通った温もり。
触れ合わせた手をそっと引かれ、立ち上がる。
選び取った一歩を、確かに踏み出した。
*
――記録官と、叛逆の語り部。
二人は足音を忍ばせながら、灰色の廊下を進む。
通路は時折、警報用の感知光がかすかに揺れ、天井には赤い警告灯が沈黙を保っていた。
シュエルは一歩進むたび、わずかに唇を動かす。音にはならないほどの低く抑えた声――けれど確かに、〝語られて〟いた。
行く手を遮るように緻密に張り巡らされた動体検知用の細い光線も、二人の進入を咎めることはなかった。
まるでその一夜だけ、世界の認識から二人がそっと外れていくかのようだった。
イリスは緊張で指先を冷たくしながらも、彼の後に続いた。
視界の隅をかすめた見張りの影が、ふと方向を逸らしていくのを見て、息を詰める。
通用口から建物の外へ出ると、閉ざされた裏門が見えた。
踏み固められた道を街灯がぼんやりと照らし、その光の境界に、鋼鉄の柵が黒く佇んでいた。
シュエルは門の手前で足を止め、小さく息を吸う。
そして――〝語った〟。
「――〝これは、記されざる一夜〟」
藍の瞳に、夜明け前のようなほのかな光が灯る。
「〝二つの足跡を見咎める者はない。その夜を語るのは、ただ一陣の風だけ〟」
ささやきとともに彼がそっと押し開けた門扉は、重く軋んだ音を立てた。
その音は、確かにイリスの耳朶を揺らしたはずだった。
けれど意識に刻まれたのは、風が運ぶかすかな葉擦れの音だけ。
観測した端から、静かに過去が書き換わっていく。
不思議と凪いだ心持ちで、イリスはシュエルの背に続き、開け放たれた門を潜った。
そして――。
「〝風は語る。二人はただ、心が示す道を歩んだと〟」
そっと振り返り、置き手紙のように落とされた言葉はどこか温かく、祝福のようだった。
門のセンサーが一つだけ、まばたきをした。
けれど作動音はなく、赤い警告灯も点らない。
その夜の記録は、静かに途切れていた。
まるで最初から、そこには何もなかったかのように。
(第一部「忘れられた名を語る者」Fin.)