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【第7章:case.5‐火の海に沈んだ町】

 帳面のまっさらな頁に、新たな見出しが記された。

 

「第五事例――」

 

 口にして改めて、その数字を意識する。
 聴取対象とされた事例は五つ。今日がその最後になる。
 それが意味する事実について、けれど今は意識を向けるべきではないとわかっていた。

 

「……旧ノルヴァ工区における爆発事故について、聴き取りを行います」

 

 視線を落としたまま、一定の調子で続ける。

 

「三年前、旧連邦直轄区画ノルヴァにて、規模不明の爆発が発生。周辺住民および関連施設は壊滅。事故後、速やかにこの事故の認識を〝正す〟ための語りを行い、人民の混乱と抗議の拡大は抑制される予定でしたが――」

 

 そこまで言って、イリスは手元の帳面に軽く指を走らせた。

 

「……以後、語りの定着に繰り返し失敗。現地では不可解な伝聞が広がり、未登録の遺品が時折発見されるほか、『亡くなったはずの住人を見た』という報告も継続的に寄せられています。記録局は現在、この地の〝正史〟を確立するため、過去に干渉した構文の特定と、その意図の把握を急いでいます」

 

 イリスは顔を上げた。

 

「記録局は、あなたの〝語り〟が干渉した可能性が高いと判断しました。……あなたがあの地で何を語ったのかを、確認させてください」

 

 静かな間があった。
 シュエルは、ゆっくりと息を吸い、それからつぶやくように言った。

 

「……あの町には、世話になった人がいた。親父さんと、小さな息子がいて……俺は、しばらく居候させてもらってた。もう何年も前の話だ」
「あなたは、その場に居合わせたわけではない?」
「事故を知ったのは、何か月も経ってからだ」
「その後、現地に赴き〝語り〟を行ったのですか?」

 

 シュエルは頷いた。

 

「事故そのものを、無かったことにしようとした」

 

 その言葉に、イリスの万年筆が、わずかに止まる。

 

「町がまるごと、無事だったことにして。あの人たちが、何事もなく今日も暮らしているように。……本気で、そう願ってた」
「そのような大規模改変は、複数の語り部と記録官が緻密に連携し、ようやく成立するかどうかというものです。何より――人の〝生死〟そのものを書き換える構文は、今日に至るまで確立されていないはず」
「それでも、確かに届いたんだ。あの日、あの瞬間の、あの場所に。……今度こそ、助けられるはずだった」

 シュエルの声には、奇妙な確信と痛みが同居していた。

 

(嘘を言っているようには思えない、けれど……)

 淡い胸騒ぎに、万年筆を握る指先が冷たくなる。
 ――〝語り〟とは過去を書き換える力とされているものの、連邦が制度として確立した体系は、実質的には過去における経過の修正や、人の認識や記憶に対する改変に限られている。
 例えば死者を出した武力蜂起を、同じだけの犠牲を伴う偶発的な火災に書き換える。あるいは誰かの死を、その人の存在の記憶自体を曖昧にすることで忘れさせる。そういった作用であれば、確立された構文と正確な記録によって安定的に実現できる。
 けれど、過去の出来事を大規模に覆す構文は、成功率が極めて低く、不完全な干渉は、因果の破綻を招く危険が高い。
 ゆえに、純然たる過去事象の改変はごく小規模な範囲に限られ、不確実な語りを個人の独断で行うことは、制度においては厳しく禁じられていた。
 けれど――制度に属さず、定型の構文も記録も持たない目の前の〝語り部〟には、そのような境界が存在しない。
 あらゆる事象に対して〝語り〟が届くと信じて疑わない――そんな危うさをはらんでいた。
 息を整えるようにわずかな間を置き、イリスは問いかけた。

 

「では、なぜ失敗したのですか?」

 

 しばしの沈黙ののち、シュエルは吐き出すように低く答えた。

 

「記録官なら、わかるんじゃないか。あんたら制度の語り部は、徹底的に〝それ〟を排除するように教わるんだろ」

 

 その言葉で、イリスはすぐに確信した。

 

「――感情、ですか」

 

 〝語り〟に携わる者にとって、それは最も遠ざけるべきもの、忌むべきものとされていた。
 感情の揺らぎは語りの作用を不確実にし、意図した結果を導かない。
 ゆえに、それらを排するために、定型の構文があり、記録官による記録が存在する――記録官の養成学校において、一番最初に叩き込まれる理念だった。
 イリスの答えに、どこか痛みを堪えるような表情で、彼は頷いた。

 

「怒りと、悲しみと、後悔と――その全部が、言葉を乱した」

 

 机の下で、かすかに拳が震えていた。

 

「最初に事故を否定した語りを試みたせいで、現実そのものがぐちゃぐちゃになった。俺の中のあの人たちの記憶すら、あやふやになりかけた。だから――なんとか、それだけは……名前だけでも、そう願って」

 

 視線を伏せたまま、絞り出すように言葉は紡がれた。

 

 ――ここに、帰る家があった。
 ――煤にまみれた温かな手があった。
 ――小さな笑い声があった。
 ――ゼイン、ミト。
 ――焼け落ちた壁に、あなたの名を刻む。
 ――たとえ物語になっても、どうかその一片だけは残れ。

 詩篇のような一節には、どこかこれまでとは質の異なる切実さがあった。
 それでも、この場所でイリスの取る行動は変わらない。淡々と筆を走らせ、そのあとをほのかな金の光が追いかけていく。
 紙面に刻まれた淡い光沢を見つめながら、イリスは静かに切り出した。

 

「記録には、事故当時その場にいたとされる住人のうち、その親子の名前だけが不自然に残されていました。……あなたの関与と、整合します」

 

 それを聞いたシュエルのまなざしが、かすかに揺れる。

「……そっか。それだけは、残せたんだな」

 その声には、かすかな安堵と、届かなかった祈りへの悔しさが、痛みのようににじんでいた。

 イリスは、ゆっくりと筆を置いた。

「以上で――すべての記録が終了しました」

 沈黙が落ちる。それはどこか、今までとは質の異なる空気だった。
 筆を持たぬ拳をわずかに握り込み、イリスは再び口を開いた。

「あなたに関する、最終処置の方針が通達されています」

 シュエルは目線だけを向けたが、言葉は返さない。

「当局の語り部たちによって、あなたは〝語り直し〟の対象となります」

 告げる言葉は、あくまでも冷静だった。
 けれど声の奥に、かすかな緊張が混ざっていた。

「あなたという存在を、歴史の上から根こそぎ書き換えるということです。記憶も、意思も塗りつぶされます。あなたの持つ〝語り〟の力は、意思を封じられたまま、国に資する形で使われるでしょう。――もしも、〝語り直し〟が成立しない場合は……処分される、そうです」

 しばらくの沈黙。
 その末に、シュエルは小さくつぶやいた。

「……そうか」
「怖くは、ないのですか?」

 その問いに、シュエルがうっすらと笑った。

「へえ。あんたが〝感情〟を問うなんて、意外だな」
「答えてください」

 イリスが発した声は、わずかに震えていた。
 シュエルは少し目を伏せ、それからゆっくりと語り出す。

「……俺は、〝語る〟ことで誰かの何かを書き換えてきた。誰かの時間、誰かの記憶、誰かの大切なもの。――それはいつか、俺自身にも返ってくるものだと思ってた」
「それが……語り部であることの、責任だと?」
「そうかもな。……それでも、もし俺が消されたとしても、あんたは俺を忘れない。すべて語り直されるのだとしても、あんたはきっと、全部覚えてる。それだけでも、意味があったと思う」

 再び、静けさが落ちる。
 そして、そっと名を呼ぶ声がした。

「イリス」

 何かを確かめるような響きだった。
 名前という一つの音に、残されたものすべてを込めるように。

「〝語り〟にならない言葉を、こんなふうに自由に使えるのは……あんたと話すのは、結構楽しかったよ」

 

 イリスはそれに応じず、ただまっすぐに彼を見つめていた。
 胸の奥、どこかつかみようのない場所で、何かが震えたような気がした。
 その感情に名前をつける術を、イリスはまだ知らなかった。

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