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【第6章:case.4‐名を奪われた村】

 扉の閉ざされた部屋は、ただ静かだった。
 イリスはいつものように顔を上げることなく、記録の開始を告げた。

「第四事例、地図上においては北緯51.5374、西経75.6512に位置する山岳地帯――」

 イリスはキャップをはめたままの万年筆の先で、机の上に広げた地図の一点を指し示した。

 向かいに座るシュエルの視線が、ゆっくりとその先を追う。

「かつてごく小規模な集落がいくつか存在しましたが、いずれも現住の確認されない廃墟です。この土地については、とある施設建設の用地として、当局の間で便宜上の仮称が共有されてきました。ですが……ある時期を境に、この仮称が一切の記録を受け付けなくなりました。このように――」

 イリスは万年筆のキャップを外し、筆先を地図の上に走らせた。
 インクで記した文字列は、けれど見えざる手に剥がし取られるかのように、端から消えていく。
 その不可思議な現象に、シュエルの瞳がわずかに見開かれた。

 

「……土地の呼び名に困ってるなら、もとあった集落の名で呼べばいいんじゃないのか」

 

 文字の消えた一点に視線を落としたまま、彼はぽつりと言った。

 

「その名前はすでに失われています」

 

 その返答に、シュエルは顔を上げた。

 

「ずいぶん他人事みたいに言うんだな。消し去ったのは他でもない、あんたらの語り部だろうに」

 

 藍のまなざしを正面から受けとめ、イリスは一つ二つと瞬きをした。

 

「……ああ、そうか」

 

 その反応に何かを悟ったように、シュエルがぽつりとつぶやいた。

 

「消された名前は、普通は思い出せなくなるんだよな。消したってことすら、いつの間にか忘れてる」
「――いいえ」

 

 イリスは即座に否定した。

 

「記録局はその発足以降、制度において行われた〝語り〟のすべてを記録に残しています。その記録を辿れば、いつ、どこで〝語り〟が行われ、過去が正されたのかを正確に辿ることができます」
「それは〝語り〟があった、無かったって事実の記録でしかないだろ。〝そこに何が在ったのか〟は、どこにも残らない」

 

 淡々と返された言葉に、イリスはしばし口を閉ざした。
 記録局は〝語り〟により書き換わる前の過去を、詳細には記録しない。それには明確な理由があった。

 

(〝今〟は、書き換えられた過去の上に成り立つ)

 

 過去を書き換えるとは、そういうことだ。語りの仕組みを知り、その構築に携わる語り部や記録官であろうとも、その摂理からは逃れ得ない。
 そうである以上、書き換わる前の過去は不要な誤謬にすぎない。それらに関する資料は、万一にも流出して人民の記憶に混乱を来さぬよう、厳重な管理のもとに一定期間保管した後、必ず破棄するよう定められていた。
 無論、その語りに直接携わった者の記憶には多かれ少なかれ留まるが、いずれは薄れていく。
 それを当然のこととして受け入れていた――今までは。
 けれど、なぜだろう。
 この少年と言葉を交わすたびに、どこか自身の足元がぐらつくような感覚がつきまとう。

 

「……記録に読み解ける範囲では、その土地の名はすべて、わが国の言語には存在しない音で構成されていました」

 

 かすかな動揺を押し隠すように、低く抑えた声でイリスは告げた。

 

「文化的統一の観点から、不要と判断された言語体系は、教育施策の対象となります。公用語への移行は、国家の統制維持のために――」
「必要だ、って言うんだろ」

 

 遮る声に怒りの色はない。ただ凪のように静かだった。

 

「あんたらの説く〝正史〟の前提だもんな、それ」
「その通りです。人民が等しく秩序と安寧を共有するために、語られるべき言語があり、そ

れを記すための文字があります」

 

 叩き込まれた模範解答を、イリスは眉一つ動かさず答えた。
 リューザ連邦における識字率は極めて高く、その施策は辺境にまで及んでいる。語り部の語った言葉を正史として記録するのみならず、公的な教育資料に整えることも、記録官の職掌とされていた。

 

「話が逸れました。――この〝仮称が拒まれる〟という現象に関わるあなたの語りについて、詳細を述べてください」

 

 一瞬の沈黙の後、シュエルは椅子にもたれかかるようにして視線を宙に向けた。

 

「……俺がその場所に足を踏み入れたのは、偶然だった。道に迷っていたら、数軒の古びた石積みの家が並ぶ集落にたどり着いた。もう誰も住んでいないのかと思ったけど――ひとりだけ、老婆がいた」

 

 万年筆の筆先が、滑らかに紙の上を滑っていく。

 

「彼女は俺の言葉がわからなかった。俺も、彼女の言葉が聞き取れなかった。けど……」

 

 シュエルの声が、そこで少しだけ低くなった。

 

「歌を歌っていたんだ。短い旋律を、何度も、何度も。まるでそれだけが、自分の中に残された命綱みたいに」

 

 イリスは筆を止め、顔を上げた。

 

「旋律、ですか?」

「そう。言葉はもう、誰にも通じない。けど、彼女はそれを繰り返していた。……それが、あの土地の言葉だったんだろうな。誰にも伝わらなくなっても、ただ繰り返し続けていた。きっと、自分が消えたあとも残るようにって」

 

 沈黙が、ひと呼吸ぶんだけ落ちた。

 

「俺は、それを覚えた。……というより、聞いたまま口ずさんでみたら、不思議と声に馴染んだ。言葉として意味はわからなかったけど、その響きだけは、耳に残って消えなかった」

 

 シュエルはそっと目を閉じると、ゆっくりと低く、歌うように口を開いた。

 ――ハリア・ルゥミア カサ・ミーヤ

 ――ルゥミア・ハリア カサ・エルナ

 

 その旋律はとても短く、単純だった。だが、空気の奥を震わせるような響きがあった。
 イリスはほんの一瞬、記録をためらった。
 これは〝語り〟の構文ではない。老婆が口ずさんだという歌をなぞっただけの、音の羅列。
 何より、公用語とはまるで異なる響きであるその音に、対応する文字がない。
 それでも、記さねばならないという強い衝動があった。
 導かれるように、何度も筆をさまよわせながら、イリスは彼が口にした音を一つ一つ記録した。

 

「記録官」

 

 静かに呼びかけられ、イリスは顔を上げた。

 

「その地に名前があったことを、国家はもう認めない。だけど、俺は確かに聞いた。彼女が歌った旋律の中に、それは織り込まれていたんだ。――〝ハリア〟。それが、あの場所の名だった」
「……正確な名称と認識するには、資料が足りません」
「資料なら、残した。俺の語りの中に。そして、あんたはそれを書き留めた。それが全てだ」
「ですが、公用語による記述では、音の記録としては不完全で……」

 

 イリスが言いかけた、そのときだった。
 文字列の一部に、淡い金の光が浮かび上がった。

 

 ――〝ハリア〟。

 

 歌われた音にできる限り正確にと書き記したその部分が、星座のようにつながり、光を放っていた。
 鼓動が跳ねた。
 語られた歌が、その音が、あの土地に真の名を刻んでいたのだ。
 仮初の呼称を拒むほどに強く、確かに。

 

「……あなたの語りが、かの土地の名を浮かび上がらせたという認識は、否定しきれません」

 

 胸の高鳴りを鎮めるように、イリスは慎重に結論を述べた。

 

「言葉ってのは、ただの記号じゃない。それが交わされた時間、呼ばれた名前――全部ひっくるめて生きてるものだ。それが消されるってのは、その人たちの〝在った〟って証ごと失われるってことなんだ」

 

 視線を逸らすことなく、シュエルは言った。

 深い藍の瞳には、はっきりとした痛みと、責任のような光が宿っていた。
 そのまなざしの色にふと、既視感を覚える。
 ――思い出すのは、この対話の始まりの日。
 彼の出身地を問うたときの、怒りとも痛みともつかない沈黙。

 

(この人は、誰かの存在そのものを守ろうとしている。……もう、誰も呼ばない名を)

 

 紙面の上に刻まれた〝名〟の淡い光沢を見つめながら、イリスの胸の奥に、かすかな熱が灯る。

 

(――あるいは、私にも)

 

 ふっと息を吐くように、こぼれ落ちた思考の欠片。

 

(欠けた記憶の底に、かつて誰かに呼ばれた名前があるのだろうか?)

 

 己の内に生まれた――おそらく初めて生まれたその疑問を、気づけばイリスは数秒の間、反芻していた。
 そして、そんな自身にひどく戸惑いを覚えた。
 感情を排し、記録対象と淡々と向き合うべき職務において、極めて主観的な思考に意識がそれるなど、記録官としてあってはならないことだった。
 乱れた筆跡に二重線を引き、無用な思考を振り払う。
 けれど――。

 

「イリス」

 

 まるで、その心の内を読み取ったかのように。
 彼の声が、そっと名をなぞった。

 呼ぶというにはあまりに淡い、何かを確かめるような気配がそこにあった。

 

「……どうしてあなたは、意味もなく私の名前を呼ぶのですか」
「さあ。意味がないからこそ、かもな」

 

 藍色の瞳の奥に、ふっと揺らぐような光が浮かぶ。

 

「今の俺は〝語り部〟じゃない。こんなふうにあんたの名を呼んだとして、何かを変える力もない。……正直、こっちのほうが息がしやすいかもしれない。何を変えることも、何を遺すこともないのなら――少し、気が楽だ」

 

 淡く浮かべた笑みの奥には、張り詰めた糸のような覚悟と、どこか弱音に近い吐露が入り混じっていた。

 

(彼は、〝語る〟ことで何かを背負っている)

 

 正史からこぼれ落ちた過去を掬い、存在を繋ぎ止めるために語る。それは、イリスの知る〝語り部〟の在り方とはあまりに異なっていた。
 制度においては、己の記憶や感情と〝語り〟を切り離すために構文があり、記録官による記録がある。
 語り部はいわば、語ることで記憶を手放していく。
 シュエルの在り方は、その真逆だった。

 

(記憶も、記録も――すべて、彼自身の中にある)

 

 ふと――ひとつの確信に導かれるように、イリスは記録帳の頁を遡った。
 紙面に記されたシュエルの〝構文〟は、例外なくすべて、語りとして歴史に刻まれたことを示す淡い記録光を帯びている。
 それは、彼がこの場において偽りを述べていないという証左であり、同時に――。

 

「……あなたは、自身が〝語った〟ことのすべてを、覚えている?」

 

 思わずこぼれ落ちたその問いに、シュエルの瞳がわずかに見開かれ、やがて淡く揺らいだ。

 

「さあな。消えないように、残すためにって語った言葉が、そのまま俺の中に残った。……多分、それだけだ」

 

 言葉はどこまでも淡々としていたけれど、その奥には静かな熱があった。
 誰もが等しく、語り記された〝正史〟の上に在る世界。
 けれど目の前の少年は、たった一人で、その摂理に抗うことを選んだ。
 忘れ去られた名を呼び、その記憶を繋ぎ続けるということ。
 それが彼にとって、どれほどの重さなのか――イリスにはわからない。
 記すべき言葉を持たぬまま、静寂だけが流れる。
 紙面の余白に、乾いたインクの匂いだけが残っていた。
 

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