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【第5章:case.3‐燃えさしの祈祷所】

 尋問室の扉が閉じられてから、数秒の沈黙が流れた。
 イリスは帳面を机に置き、ゆっくりと腰を下ろす。
 手にした万年筆の重さは変わらないはずなのに、なぜか今日は、指先に残る感触がやや濃く思えた。

「本日扱うのは、第三事例。対象地は旧マルドリス自治区、火の祈祷所跡に関するものです」

 

 資料に目を落としたまま、淡々と告げる。
 シュエルは机の向こう側で、いつものように肩の力を抜いて椅子に座っていた。

 

「かつてその地では、火を神聖視する民間信仰が存在していたと記録されています。現在では、正規教義の導入に伴い、旧信仰は排除され、民間の記録からも〝消去〟されています」
「……言い換えれば、異端は矯正されたってわけか」

 

 シュエルがぼそりと呟く。
 イリスは頷きも反論もせず、続けた。

 

「ですが三年ほど前から、消えたはずの祈祷所跡に『かすかな火の灯りを見た』という噂が、市井にささやかれるようになりました。同様の証言は、現地行政府の職員からも複数上がっています。民心の混乱を防ぐため、記録局はこの集団的幻覚を鎮静化させるための語りを複数回試みるも、いずれも媒介層が応答せず失敗……」

 

 イリスはそこで顔を上げた。

 

「同じ時期に、あなたと特徴の一致する人物の滞在が確認されています。――あなたがあの地で〝語った〟内容を、包み隠さず述べてください」

 

 しばらく、言葉を探すような沈黙があった。
 やがて、ふっと息を吐き出すように彼は語り始めた。

 

「……火ってのは、不思議だよな。薪が燃え尽きても、熱と、匂いと、赤い残り火がしばらくそこに残る。そいつらにはきっと、そういうものが視えたんだろう」

 

 イリスの万年筆を構える手が止まった。

 

「憶測ではなく、具体的な事実だけを答えてください。あなたの主観や感情は、記録の対象ではないと伝えたはずです」
「主観、ね」

 

 かすかな皮肉をにじませ、シュエルがぽつりと繰り返す。

 

「その火の灯りが幻覚にすぎないって判断自体、あんたらの主観だろ。――もっとも、たかが〝幻覚〟が視えたってだけであの辺境に語り部を何度も派遣するほど、記録局が暇人の集まりだとは思えないが」

 

 何かを確信しているかのような、まっすぐな視線。
 イリスは、わずかに目を伏せ答えた。

 

「旧信仰の再燃により、統治に支障が生じているのです」
「……へえ?」
「現地のとある高齢女性の葬儀に際し、不規則な集会が行われたとの報告がありました。正規教義に則った静粛な葬儀とは程遠い、さながら祭りの様相を呈した無秩序な集まりであったと。そのさなか、死装束を着せた遺体に火を放つという蛮行が――」
「それは〝火葬〟だ」

 

 遮るように、シュエルが言った。

 

「あんたらが無かったことにした、れっきとした弔いの形だ。……そうか、あの人はちゃんと送ってもらえたんだな」
「あなたは、その女性と接触したのですか」

 

 シュエルはわずかに頷き、答えた。

 

「その人は――バルミナばあさんは、かつてあの祈祷所に仕えていた巫女……最後の一人だった。俺が訪ねた時には、すでに床に臥せっていて、ほとんど話ができる状態じゃなかったけど――」

 

 何かを思い出すように宙を見つめ、彼は続けた。

 

「呼んでいたんだ、ずっと。火を灯すような所作、声にならない、かすかな唇の動き――それは〝祈り〟だった」

 

 イリスの万年筆が、静かに帳面の上を走り始める。

 

「己の名を捧げ、その空白の中にたった一つの火を灯す。それが、マルドリスの火に仕える巫女の習わしだった。けれど、連邦が機械的に整えた戸籍に彼女の名を刻んだことで、あの人は火を灯せなくなった。そうやって、あの祈祷所の火は奪われたんだ」
「あなたは、祈祷所の火が消されたというその過去を、書き換えたのですか?」

 

 その問いに、シュエルは静かに首を振った。

 

「消えてなんかなかった」

 

 短い返答には、確信が宿っていた。

 

「あんたらの記録の上じゃ、あの祈祷所も、そこに灯された火も、人々が寄せた願いも、全部無かったことになってるんだろう。けど、あの人はずっと、何十年もの間、あの火は消えてなんかないって信じていた。崩れかけたあの祈祷所の奥には、灯る火を信じる祈りが、ずっと燃え続けていた。――だから俺は、彼女が最後に灯した火の名を呼んだ」

 

 彼はそこで一拍置き、遠い記憶を掬うように低く語った。

 

 ――マルドリスの灯火よ。
 ――名なき巫女が託した祈りの灯よ。
 ――燃え尽きる前に、その名をもう一度、呼ばせてくれ。
 ――風にさらわれぬように。
 ――灰に埋もれぬように。

 

 イリスはただ静かに筆を走らせ、文字列を並べていく。
 記された文字を追いかけるように、淡い金の光が次々に灯る。

 

 ――祈りの灯よ。
 ――〝あなた〟は、今もここにいる。

 

 そのときだった。
 ――ふ、と。
 イリスの視界の端が、揺らいだ。
 机の上に置かれたランプの光が、ぼう、と膨張するように広がり、まるでろうそくの焔のように揺らめいた。
 次の瞬間、背後の壁に光がにじみ、そこに、仄かに赤みを帯びた何かの影が浮かび上がる。
 その奥から、音にならないかすかなささやきが響いた気がした。

 

(……あれは……)

 

 すぐに目を閉じ、呼吸を整える。錯覚だと、そう断じるしかなかった。
 けれど、机の上に戻した視線の端で、シュエルがかすかに眉を動かしたように見えた。

「……何か、見えたのか」

 

 その問いに、イリスは返答しない。
 万年筆を持つ手の指先が、かすかに揺れた。

 

(私に……何が起きた?)

 

 その瞬間、イリスはふと、内心で引っかかりを覚えた。
 わずかに顔を上げ、シュエルの首元に視線を走らせる。

 

(……あの抑制装置。今、反応しなかった)

 

 過去へ干渉を試みる〝語り〟の構文を検出すれば、即座に金の光が灯り、その作用を遮断するはずの首環型の装置。それが、今の彼の発語には沈黙を保ったままだった。
 けれど確かに、何かが〝届いた〟感覚がある。

 

(……構文を、媒介層を通さずに届いた? だとしたら、あれは本当に〝語り〟なの……?)

 

 イリスは静かに、顔を伏せるようにして帳面に視線を落とした。

 

「……あなたの語りにより、旧信仰に関連する幻視が生じた可能性があります。これは記録に留めておきます」

 

 そう口にしながら、イリスは己の声の揺れを内心で咎めていた。
 かすかな、けれど看過すべきではない明白な異常。
 ただちに局に報告すべきだと、記録官としての判断は告げていた。
 あの装置で彼の〝語り〟を制御下に置けるという前提のもとに、この聴取任務は成り立っている。その前提が覆るとしたら、話が変わってくる。
 それでも――いや、〝だからこそ〟。
 イリスはあの現象を「錯覚」と記した。

 

(まだ聴取は終わっていない。私がここで、最後までやり遂げる)

 

 自身を突き動かすのが任務に対する責任感なのか、あるいは別の何かなのか――イリスにはまだ、判別がつかなかった。

 

「……あんたにとって、祈りってなんだ?」

 ふいに、シュエルがぽつりと問いかけた。

「定義としての祈りですか。それとも、個人の感情としての?」
「どっちでもいいさ。……いや、後者だな。届かなくても、きっとそこに在ると信じて、ただ言葉を、想いを捧げ続ける行為を、あんたはどう思う?」

 

 それは、かすかな痛みの混じった声だった。
 イリスは答えかけて、ふと口を閉ざした。

 

(――祈り)

 

 たとえ届かなくても、言葉を、想いを捧げ続けること。
 そのような切なる感情を寄せる対象が、自分にあったのだろうか。
 イリスは、ふと首を傾げるように言葉を継いだ。

 

「……私は、覚えていないのです」

 

 シュエルが眉を上げた。

 

「何を?」
「祈ったことがあるのか。そのような想いを捧げる対象が存在したのか。そのすべてを、私は知りません。私には、記録官となる前の記憶がありません」

 

 それは事実の開示というより、報告に近いものだった。
 いつも通りの、感情を交えない淡々とした声。

 

「記録官なのに、自分の記録は残ってないってか」

 

 シュエルの口元に、皮肉のような、それでいてどこか悲哀を含んだ笑みが浮かぶ。

 

「……なんで話す気になった?」

「記録官として、記録の偏りを避けるためです。あなたの語る内容が、私の〝欠落〟と関係する場合、正確な記録に支障をきたす懸念があります」
「なるほど。正確な記録のため、か」

 

 そう繰り返す声には、もはや揶揄の色もなかった。
 沈黙が流れる。
 それは無機質な空白ではなく、どこか温度のある静寂だった。
 イリスは帳面を閉じ、万年筆にキャップをかぶせた。

 

「――以上で、第三事例の聴取は終了とします」

 

 立ち上がり、無言で一礼すると、記録官の証である記章を胸元で示してから背を向ける。
 部屋の扉へ向かって歩き出そうとした、そのときだった。

 

「――イリス」

 

 名を、呼ばれた。
 淡々と歩いていた足が、ごく一瞬だけ止まる。

 

「……まだ、何か?」
「いや、何でもない。ふと呼びたくなった」

 

 意図の読めないシュエルの返答に短く嘆息し、イリスはそのまま歩を進めた。
 けれどその響きは、胸の奥にかすかな波紋を生んだ。

 ただ与えられたはずのその名が、今、呼ばれたことで――初めて、自分が〝ここにいる〟と認められたかのようで。
 扉を出るとき、イリスは一度だけ、小さく息を吐いた。
 目に見えぬ何かが、己の内でそっと応えを返したような、ひどくかすかな吐息だった。
 

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