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【第4章:case.2‐白雪の騎士団】

 尋問室には、いつもの無機質な光と、沈黙だけがあった。
 イリスは机に記録帳を広げ、静かに万年筆を取り出す。
 インクの濃度を確認し、今日もまた乱れのない字が残せるよう、指先に一瞬だけ注意を込める。

 

「本日は第二事例、『白雪の騎士団』に関する聴取を行います」

 

 向かいに座る少年――シュエルは、身じろぎもせず椅子にもたれていた。
 細い喉元を囲む、鈍色の首環。
 その装置が、彼の声が世界に作用する過程を断ち切り、ここでの記録を可能にしている。
 イリスは万年筆を構えながら、淡々と続けた。

 

「『白雪の騎士団』はおよそ二十年前、北方のネジェ村で発生した武装蜂起です。周辺の村々を襲撃し、物資を強奪したのち、連邦軍の鎮圧によって壊滅しました。リューザ正史においては、〝法と秩序に敵対する非正規戦闘集団〟と定義されています。そもそも『白雪の騎士団』という呼称自体、正式な記録には存在しないのですが――」

 そこまで口にしてから、イリスは目線を上げる。

「……現在、その呼称とともに、当該地域においてまったく異なる認識が共有されています。かの『騎士団』は民の支持を受けた義勇団であった、という証言が複数の住民から確認され、現地では行政への不信が広がっている。――これは、あなたの語りによるものですか?」

 はっきりとした問いかけに、シュエルはわずかに目を細めた。

 

「そうかもしれないな。……その〝記録〟とやらを、少しだけ戻したんだ」
「正史に対する改変が、意図的であったと認めますか?」
「改変っていうのか、それ。もともと、無かったことにされた方がおかしいと思っただけだ」

 

 彼の声は冷たくもなく、挑発的でもない。ただ静かに、確信を帯びてそこにあった。
 イリスは筆を走らせながら、問いを重ねる。

 

「では、語った内容の意図と根拠を説明してください」

 

 しばし沈黙があった。
 シュエルは小さく息を吐き、天井を仰ぐように視線を逸らす。

 

「……あの村に立ち寄ったのは、三年前、雪の深い日だった。ひどい吹雪になって、何日も足止めを食らった。冬の真ん中の、いちばん食料の乏しい時期だ。それでもあの村の人たちは、わずかな麦を少しずつ出しあって、余所者の俺に粥を振る舞ってくれた。水みたいに薄くて、ほとんど味もしない。だけど温かかった」

 

 淡々とした語り口だったが、わずかにかすれた語尾に、淡い熱がこもっていた。

 

「屋根を貸してくれたのが、『騎士団』の首領として処刑された人の娘だった。〝正史〟の中では、父親は略奪を主導した大罪人だ。自分を罪人の子にした父親を、彼女はずっと憎んでいた。
それでもあの家には、かつての親子の暮らしの痕跡が色濃く残されていた。使い古した木椀、うんと低い柱の傷、庭の片隅に打ち捨てられた、手作りの虫籠……〝語り〟のきっか

けは、そういうものだった」

 

 彼はそこでひと呼吸置いた。

「それは、今から二十五年前――春が遅れて、食料が足りなかった年だった」

 

 声の調子が、わずかに変化した。
 遡った時の重みを、そこに滲ませるかのように。

 

「配給はあったが、まるで足りなかった。飢えて死んだ子どもが何人も出た。騎士団って呼ばれたのは、そのとき立ち上がった村の若い連中だ。武器を取って、他の村から物資を盗んだ。……けど、誰も殺しはしなかった。分けあって、生き延びようとした」

 

 語られる言葉たちを、イリスは淡々と書き留めていく。

 

「決行の夜、彼らは何も告げることなく、静かに村を発った。暗く絞った灯りが、深い雪に沈み込む足元をぼんやりと照らしていた。誰も言葉はなかった。張り詰めた白い息だけが重なった。
傷だらけの〝騎士〟たちが帰還した晩、広場に火をたいて、大きな鍋をかけた。持ってこられただけの麦とわずかな干し肉、野草で粥を炊いた。食料の出どころについて、彼らは何も答えなかった。何かを悟った者も、何も言わなかった。
遠くから、行軍の足音が聞こえていた。それでもあの火の傍らで、飢えを満たされた子どもたちの笑顔が、どうかその夜だけは曇ることがないように。……その願いだけは、皆、同じだった」

 

 ――気づけば、イリスは筆を止め、その話に聞き入っていた。
 語られる情景は、まるで彼自身の記憶の断片のように生々しかった。
 足跡の深さ、火を囲む人々の手のしぐさ、雪に沈んだ声の調子。

 

(……どうして、ここまで見える?)

 

 四半世紀も前の出来事であり、無論、彼はその当事者ではない。それなのに、あたかもその目で見てきたかのように、肌で触れてきたかのように、正史からこぼれ落ちたはずの過去を語っている。

 

(〝語り〟の痕跡を起点に、過去の記憶を辿っている?)

 

 語りの痕跡――すなわち、そこで過去の書き換えがあったことを感知する能力は、イリス自身も持ち合わせている。その正確さを買われたからこそ、この聴取任務を任されたのだ。
 けれどそれは、あくまでも〝語られた・改変された〟という事実の観測にとどまる。
 目の前の少年はそれを超えて、〝かつて存在したはずの情景〟そのものを視ている――そんな推測さえ浮かんでくる。

 

「あれが正義だとは言わない。けど、あんなにも強く、生きようとしていた形が……ただの略奪者として書き換えられていたのが、どうしても許せなかった」

 

 そう言って、彼は静かに目を伏せた。

 

 ――焚いた火を囲み、名を呼んだ。
 ――剣を取った理由も、隠しごとも、罪さえも。
 ――流された血さえ、降り積もる雪に呑まれるのだとしても。
 ――それでも生きようとしたあの冬を、誰かが思い出せるように。

 

 こぼれ落ちたのは、詩篇のような言葉の断片。
 けれどそれこそが、深い雪の底から一つの記憶を蘇らせた〝構文〟なのだと、イリスにはわかった。
 記録帳の頁をめくり、まっさらな紙面に筆を走らせる。
 その筆先の動きを、ごく淡い金色の光が追いかけていく。
 ふいに対面に座る少年の視線を感じ、わずかに手がこわばった。
 それでもイリスは、一字一句を乱れのない字で書き留めた。

 

「それが……あなたの見た、正しさですか?」

 

 筆を止めて発した問いは、ほとんど反射的なものだった。

 記録の正確性を企図したものではないと、自分でもどこかで気づいていた。

 

「俺が〝語る〟のは、誰かを正しいことにするためじゃない。ただ……忘れられるには、惜しかっただけだ」

 

 シュエルはそう答え、どこか遠くを見つめるようなまなざしで続けた。

 

「――あの日俺に差し出された麦粥は、かつて手を取りあってあの冬を越えた人たちの、たった一つの記憶だった」

 

 イリスの万年筆を持つ手が、反射的に帳面へと向かい、けれどすぐに思い留まった。

 

(これは、〝語り〟の構文ではない。彼の主観に過ぎない)

 

 頭はそう判断するのに、どうして手が動いたのか。
 ――書き留めたいと、思ってしまったのか。
 ためらいは、ほんの一瞬。それでも紙面には、消えないインクの染みがぽつりと残った。

 

「聴取は以上です」

 

 淡々とした声で告げ、万年筆を置き、帳面を閉じる。
 それは昨日と同じ動作であったはずなのに、どこか、ひどく疲れたように思えた。
 イリスは筆記具を所定の箱に収め、そっと息を整えた。

 

「記録官」

 

 静かな呼びかけに、イリスは顔を上げた。

 

「本当に、それでいいのか」
「……何が、ですか」

 

 問い返す声は、どこか硬い響きになった。
 深い藍のまなざしに、自身のためらいを見透かされたような気がして。

 

「あんたの記録が、誰かの生きた軌跡を塗り潰すことになったとしても。それが正しい歴史だと信じて、書き続けられるのか」
「――」

 

 よどみなく答えを返すはずだった。
 ――正史を記すことが、記録官の職務ですから、と。
 けれど、どうしてか言葉が出てこなかった。

 

「別に、とがめてるわけじゃない。あんたは、そう教えられてきただけだ。――過去を〝語る〟者さえ、自分が語った〝正史〟に呑み込まれていく。何も考えないほうが、連邦(ここ)では生きやすい」

 シュエルはそう言って、静かに目を逸らす。
 優しさだったのか、諦めだったのか、それともただの事実確認だったのか。イリスには判断できなかった。

 

「……これで、本日の聴取は終了です」

 

 イリスは立ち上がった。椅子がわずかに軋む。
 戸口に向かおうとしたとき、背後からふいに声が追ってきた。

 

「名前、聞いてなかったな」

 

 イリスは足を止める。

 

「あなたの側に、名は必要ありません。私は記録官として記録を取るだけです」
「それでも、聞いちゃいけないって決まりはないんだろ?」

 

 イリスは振り返らずに答えた。

 

「必要のない情報は、記録を乱すだけです」
「……ああ、そうか」

 

 静かな沈黙が落ちた。
 その場に満ちるのは、敵意ではなかった。
 ただ、互いの立場がきっちりと隔てられているという事実だけが、空気に浮かんでいた。
 けれど、イリスはその沈黙の中で、ほんのわずかに自分の指先が固くなっていることに気づいた。
 帳面を抱える手に、無意識の力がこもっていた。

 

「……イリス」

 ほとんど誰に向けるでもなく、吐き出すように言った。
 記憶の始まりとともに与えられたその名は、自身にとって、記録官としてのただの識別名でしかない。
 けれど、それを告げた瞬間。
 何かが、ほんのわずかに、内側で音を立てたような気がした。

 

「イリス、ね」

 

 呟く声に、感情の色はない。ただその名を受け止めた、というだけの音だった。
 イリスはもう一度だけ彼の姿を見つめ、それから無言で部屋を後にした。
 

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