【第3章:case.1‐埋もれた墓標】
「リューザ連邦東部の山間地帯、ディエラ。そこは地理上の標記、戸籍、行政記録のいずれにも該当のない空白地帯――すなわち、本来は名前のない土地でした」
イリスは手元の資料に目を落とし、よどみなく読み上げていく。
「ディエラという呼称が市井に浮上したのは、およそ四年前。ある町にはディエラの雨乞い唄なるものを歌う楽師が現れ、別の町にはディエラ伝来の果実酒を出す酒場、とある村には遠い祖先がディエラの薬師に命を救われたと語る者――存在しない土地にまつわる不可解な認識が、複数の地域で同時多発的に散見されるようになったのです」
紙をめくる乾いた音が、言葉の間に滑り込む。
「この現象を解明すべく、記録局は現地に語り部と記録官を派遣し、かの土地に制度外構文による〝語り〟の痕跡を観測。――後に、当該現象があなたの関与によるものと判断しました」
イリスはそこで顔を上げた。
「質問に答えてください。あなたは、ディエラという地の存在を、どのように認識していたのですか?」
数秒の沈黙が流れた。
その静寂の中で、シュエルの唇がゆっくりと動く。
「……人が、そこに暮らしていた。それ以上に、何が要るんだ」
「その人々の記録は存在しません。国家の歴史上、かの土地は未登録の無人地帯とされています」
「それが〝語られた〟歴史、ってやつだろ」
シュエルの声には、怒りでも皮肉でもなく、ただ静かな確信があった。
「語り部が『最初からなかった』と語れば、それが歴史になる。そうやって〝正史〟とやらを積み上げて、この国は拡がってきた。――けど、そこに確かにいた人間の足跡や、名を呼んでいた声まで、そう簡単に消えるもんじゃない」
「あなたには……記録にはないその過去が見えたと?」
その問いに、シュエルは浅く頷いた。
「残っていたんだ、そこに」
ふっと短く息を吐いて、彼は言葉を続ける。
「墓標だ。その土地の端に、半ば土に埋もれた石があった。誰の目にもただの石ころだったけど、近づくと……かすかに、文字の痕が残っていた」
「その文字を、あなたは読み取った?」
「読み取ったんじゃない」
シュエルは首を振った。
「呼んだんだ。そこには名があった。確かに、〝彼ら〟はあの場所に生きていた」
深い藍の瞳が、ふっと細められる。
「ディエラ。それははるか昔、地平の果ての何処かで滅びた国の名だ。逃げ延びた民がその地に根を下ろし、やがて絶えた。その国が何処にあったのか、どんな国だったのか、それはもうわからない。けど、その名を守り続けた人たちが、あの山奥に生きていた」
語り口はどこまでも静かで、けれど意識の奥に入り込むような不思議な強さがあった。
「朽ち果てた墓標の一つ一つに、その名前だけは、浮かび上がるようにはっきりと刻まれていた。〝ディエラ〟――その響きを起点にして、俺は、そこにいた人々の名を呼んだ」
どこか遠い場所へ思いを馳せるように、そっと目を伏せ、彼は語った。
――リセラ、君は望郷の想いを歌に編んだ。
――エイラン、君は懐かしい味を広め歩いた。
――トマ、君は王が愛したあの花を咲かせた。
――カスナ、君は故国の医術で異郷の民に手を差し伸べた。
――亡き国の名を抱いて、ここで生き、ここで果てた者たちよ。
――君が守り続けた国の名は、この丘に刻まれた。
――その身はこの土の下に、心は遠きディエラの空に眠る。
ひと呼吸の間を置いて、シュエルは顔を上げた。
「名は、残る。たとえ記録が消されても。誰かがそれを呼ぶ限り――忘れられないように、どこかに引っかかってるんだ」
静かな、けれどその内に確かな熱を秘めた声だった。
淡々と筆を運びながらも、イリスの胸の内にいくつもの疑問符が浮かぶ。
(……これが、彼の〝語り〟の構文?)
シュエルの発した言葉は、これまで記録してきたどの語り部の語りとも異なっていた。
構文の定型も宣言の様式も持たない。ただの回想、あるいは誰かへの呼びかけにさえ聞こえる、不規則な言葉の並び。
けれど――。
紙面に刻んだ文字列は、淡い金の光沢を帯びている。
その光こそ、彼の発した言葉が紛れもなく〝語り〟であったこと――確かに過去へと刻まれ、事象を書き換えた構文であることの証左だった。
記録官として、それを否定することはできなかった。
(しかも、この反応――〝すでに記録された過去〟を示している)
過去を書き換えた語り部の構文を記録する際、記録官の記す文字は、まばゆい金の光を放つ。その光が淡い光沢へと変じることが、語りが定着した証だった。
今、目の前の帳面に浮かぶのは、すでに歴史として刻まれた過去を示す、ほのかな光。
「ひとつ確認させてください。そのとき、その場に立ち会い、あなたの発言を〝記録〟した者はいましたか?」
その問いに、シュエルはひとつ瞬きをした後、呆れたように口元をゆがめた。
「そんなやつ、いたら一緒にお尋ね者だろ」
わかりきった愚問だった。
イリスは短く嘆息する。
「……語り部の構文が過去を書き換えることで〝語り〟は成立しますが、その語られた過去を歴史として固着させるには、記録官による記録が不可欠です。記録を伴わない語りは本来、不安定で弱い。ですが――」
紙面に宿る淡い光を見つめ、言葉を続ける。
「あなたの語った言葉は、すでに歴史として記録されている」
視界の端で、シュエルの目線がゆっくりと記録帳に向けられるのを捉えた。
言葉はない。どこか張り詰めた沈黙が空間を満たした。
「……記録もなく、定型の構文ともまるで違う。それでも確かに媒介層に干渉し、過去の書き換えを定着させた。であるならば――記録局の定義上、あなたの引き起こした事象は〝語り〟と称するのが適切なのでしょう」
イリスは視線を落としたまま、半ば自身を納得させるように淡々と述べた。
「どうだっていいさ。定義だの構文だの、どう呼ぼうがあんたらの勝手だ」
突き放すでもなく、ごく穏やかにシュエルはそう言った。
「俺にとっては、ただ、忘れられた人たちを、もう一度思い出したかっただけだ。……自分たちの生きた軌跡、大切にしてきたもの、誰かに覚えていてほしい、ほんの少しでも思い出してほしいって、あの人たちは願っていた。そういう気がしたから」
その言葉に、イリスは明確に顔を上げた。
「あなたの主観や感情は聞いていません」
それは拒絶ではない。ただ、そうするように定められている。
イリスにとって記録とは、感情を排し、構文のみに従う行為だった。
数秒の間があったあと、シュエルはわずかに目を伏せた。
「……ああ。わかってるよ。そういう役目なんだろ?」
柔らかくも、どこか遠い声だった。
かすかに覚えた戸惑いに、けれどイリスはそれ以上、意識を留めることはしなかった。
「以上で、第一事例の聴取は終了とします」
イリスは手元の帳面に最後の一文字を記し、インクが乾くまでの数秒をじっと見つめていた。
その動作にはためらいも感情もなかった。職務として定型化された、正確さのための間だった。
静かに万年筆のキャップを閉め、帳面を閉じる。
椅子を引いて立ち上がると、そのまま扉へと向かう。
警備兵に無言で一礼すると、記録局の記章を示して退出した。
後ろで、扉が静かに閉じる音がした。
そうしてこの日――ディエラという一つの名に結びつけられた記録が、確かに彼女の手の中に残された。