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【第2章:叛逆の語り部】

 灰色の廊下を、イリスは淡々と歩いていた。
 足音を響かせぬよう制していても、無機質な床にはわずかな反響が残る。
 リューザ連邦の非公開拘束施設、灰の区画。
 今日、記録官としてこの場所に足を踏み入れたのは、きわめて異例の対象に接触する任務のためだった。
 資料に記された名は、シュエル。
 〝叛逆の語り部〟と呼ばれ、国家の語りに抗う形で歴史を上書きした唯一の存在。
 数年にわたって追跡されてきたが、ついに拘束された。
 イリスに与えられた任務は、彼の語った五件の歴史改変について詳細を聴き出し、記録すること。
 用いられた構文を正確に解析し、国の語り部が正史を〝語り直す〟ための土台とする。
 前例のない任務だが、イリスにとっては何ら特別なことではなかった。
 記録官は、記録する。ただそれだけだ。
 扉の前に立ち、胸元の記章を一度確認する。
 見張りの兵に無言でそれを示すと、軋むような鈍い音とともに扉が開かれた。
 音もなく一歩を踏み出す。
 閉鎖された部屋の奥、光源の乏しい空間に、彼はいた。
 叛逆者という物々しい肩書に比して、どこか線の細い印象を与える少年だった。
 くすんだ灰金色の髪、上背はあるが痩せた身体。首元に鈍く光る無機質な首環以外に、拘束具の類はない。
 目を引いたのは、まっすぐにこちらを見つめ返す、深い藍の瞳。
 その奥に宿る光は、彼の内側に積み重ねられた言葉と記憶の深さを物語るかのようだった。

 

「……記録官か」

 

 その少年――シュエルが言った。
 声に、かすかに皮肉が混じる。だが、不必要な敵意や怒声はなかった。
 ただ、境界の向こうに己を置くような静けさが、言葉の奥に漂っていた。
 イリスは返答しない。淡々と机に帳面を広げ、筆記具を準備する。

 

「名を確認します」

 

 その無機質な声に、彼は一拍置いて、視線を逸らさずに応じた。

 

「……シュエル」

 

 さらりと頁をめくりながら、イリスは次の質問を投げた。

 

「年齢を」
「十七」
「出身地は」

 

 その瞬間、シュエルのまなざしに、かすかな変化が走った。
 怒りとも、痛みともつかない感情の色が、沈黙の底ににじんでいく。
 彼は何も言わなかった。目を逸らさずに、ただ答えを拒むように黙した。
 イリスは少しだけ筆を止めたが、やがて無言のまま資料をめくった。
 この項目は必須ではない――そう判断しただけだった。

 

「これより、聴取を開始します」

 

 イリスが準備を整えたその瞬間だった。
 シュエルが静かに口を開いた。

 

「……あの日の夕刻、山裾に落ちた影はまだ薄く、この身は、まだ縛られてなどいなかった。道を閉ざす声をかき消すように、朱に染まる路地を風は吹き抜け――」
「――っ、〝語り〟か……!」

 

 壁際に控えていた兵がにわかに気色ばみ、〝語り部〟の少年に素早く銃を突きつける。
 けれど、〝語り〟としての構文を含んだはずの言葉は、何も起こさなかった。
 空間は揺れず、記憶の縁も変化しない。
 ただ――彼の喉元を囲む鈍色の首環に、ほんの一瞬、淡い金色の光が浮かんで消えた。

 

「武器を収めてください。彼はここでは語れない。――記録局より、事前に通達があったはずです」

 

 表情一つ変えず、イリスは告げる。
 数秒の間の後、兵は不承不承ながら銃を下ろし、所定の位置へと戻った。
 シュエルは小さく息を吐き、視線を落とす。

 

「……どういう技術だ、これ」
「その装置は、語りの接続を遮断します」

 

 イリスは静かに告げた。

 

「構文の生成――思考や意思、言葉そのものは阻害されません。ですが語りが作用するには、その構文が正しく過去へと接続される必要があります」

 

 イリスは少しだけ間を置いて、補足するように続けた。

 

「正確には、語りは構文を通じて、過去を編んでいる層に作用します。私たち記録局は、それを〝媒介層〟と呼んでいます。そこに届かなければ、語りはただ空を打つだけの音でしかない」

 

 シュエルは眉をひそめ、首をひねった。

 

「悪いが、言葉が先で理屈が後の俺には、さっぱりだな」

 

 軽く嘆息して、首環を指先で弾く。

 

「つまり、あんたらの言い分だと――〝語り〟ってのは、俺がただしゃべったから起こるんじゃない。ちゃんと〝届く先〟があるってことか?」

 

 イリスはほんのわずかに目を細め、頷いた。

 

「その通りです。語りは、発された言葉だけで完結するものではありません。意思を構文に乗せ、それが媒介層――過去の編まれた地層のようなもの――に届いたとき、はじめて現実に作用する」
「で、これはその〝届く先〟を断ち切る装置……」

 

 シュエルは肩をすくめ、皮肉げに続けた。

 

「なるほど、厄介なもんをつけてくれる」
「ゆえに、過去の改変によってあなたがこの場から逃れることは、不可能と理解してください」

 

 その宣告に、藍の瞳がわずかに細められた。

 

「なんのために、こんな七面倒臭いことをする? お上に楯突く〝語り部〟が邪魔だというなら、とっとと処分すればいい」

 

 イリスは短く息を吐き、答えた。

 

「あなたの語りによって発生した歴史の歪みは、現在五件が特定されています。私はそれらをあなたから聴き取り、記録します。……国の語り部が語り直すための、正確な材料として」

 

 そう説明すると、シュエルはわずかに眉をひそめた。

 

「全部、無かったことにするってわけか」

 

 低く抑えた声だったが、その裏には明確な反感がにじんでいた。

 

「無かったことにされる。そう聞いて、俺が素直に話すとでも思ってるのか」

 

 イリスは少しだけ視線を動かし、静かに告げた。

 

「聴取が終わらない限り、あなたの置かれた状況は変わらないか、より悪くなるだけです。……できれば穏便に済ませたいと、当局も考えています」

 

 抑揚のない声音に、わずかな圧が潜んでいた。
 シュエルは短く息を吐いた。声を荒らげることはない。ただ、その瞳は鋭く光っていた。

 

「結局、話そうが黙ろうが、いずれにせよ処分するつもりなんだろ。なら――」

 

 彼は視線を外さず、ゆっくりと椅子の背にもたれた。

 

「せめて、あんたの中には残せ。いずれ消される記録だとしても、ちゃんと書き記してくれ。嘘偽りない、本当の話をな」

 

 イリスは言葉を返すことなく、静かに、最初の頁に筆先を置いた。

 

「では、聴取を始めます。……第一事例、存在しないはずの空白地域、ディエラ――」

 

 その言葉に、部屋の奥で椅子がかすかに軋む。
 シュエルの瞳が、少しだけ別の光を帯びたように見えた。
 

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