【第1章:空白の記録官】
空は雲一つなく晴れていた。
小都市の広場に設けられた仮設の演壇には、リューザ連邦の紋章を戴く旗が翻っている。広場に集められた民衆の表情には、どこか曖昧な緊張感が漂っていた。
「貴殿らが我らが同志となった在りし日より、この町は百年の平和を保っている。剣戟も、飢えも、分断も、すでに過去の影にすぎぬ。いまやこの地は、連邦の加護のもとに、繁栄の礎を築いたのである」
演壇に立つのは、金糸の刺繍が施された漆黒のローブをまとう〝語り部〟の男。
フードの下の容貌も、年の頃も判然としないが、その声は張り上げずとも不思議とよく響く。言葉を正確に響かせる訓練を受けている者の声だった。
「されど――このところ、とある流言が貴殿らを惑わせていると聞く。二年前、西地区において発生した火災が武装蜂起であったと。剣を取り、血を流す者がいたなどと――」
かすかに生まれたざわめきを制するように、男ははっきりとした声音で告げた。
「これは根拠なき虚言である。実際にあったのは、ただの失火による火災であった。痛ましい偶然の災いにより、尊き命が奪われた。それ以上でも、それ以下でもない」
「嘘だ!」
聴衆の間から怒号が飛んだ。
「俺は覚えてるぞ。西通りのパン屋のダンは、俺の目の前で連邦の兵隊に撃たれたんだ!」
「ああ、俺も思い出した。あれは火事なんかじゃなかった。全部無かったことにするために、あんたらが火をつけたんだろう」
壇上の語り部はそれらには言葉を返さず、ただ静かに祈りの姿勢をとった。
「……我らはその悲劇を深く悼む。ここに、火災によって亡くなられた方々への哀悼の意を表し、静かなる祈りを捧げよう――」
演壇の傍らで、記録官の少女――イリスは、筆記具を手に静かにたたずんでいた。
弱冠十八歳、顔立ちには年相応のあどけなさがいくらか残るが、冷静な眼差しと無駄のない所作が、それ以上の隙を全く与えていなかった。
濃灰色の髪は肩につかない程度にまっすぐ切りそろえられ、記録官の制服である濃紺のジャケットには、所属を示す小さな記章が留められている。
青みを帯びた灰色の瞳は、語られる出来事にも、聴衆の混乱にも、一切の感情の揺れを返すことはない。
ただ静かに、己の役目を果たす時が来るのを待っていた。
群衆の間に飛び交う怒号は勢いを増し、演壇に乗り込もうとする数人を、武装した兵士たちが抑えにかかる。
その混乱のただ中で――けれど、〝語り〟は粛々と始まった。
――リューザ暦百二十七年、第六期第三節。
――ティレヴァ西の地に火災起これり。
――その火災は、天候の異に因る自然の発火にして
――民の間に集う騒乱の形、これを認むることなし。
万年筆を構えるイリスの指先は、語り部の声から、必要な〝構文〟だけを一字一句、的確に拾い上げ、書き記していく。
これこそがこの演説の主たる目的であり、イリスが記録官としてこの場に立ち会う理由でもあった。
記録を終え、イリスは静かに筆を置いた。
ほどなくして――。
帳面に刻まれた文字列が、まばゆい金色の光を放ち始める。
インクや帳面に、何か特殊な細工が施されているわけではない。
それは語られた〝構文〟が過去を書き換え、それが記録によって定着したときに観測される事象だ。
光は次第に和らぎ、やがて、淡い光沢だけを残して紙面に定着する。
それを見届けると、イリスはゆっくりと顔を上げた。
民衆の間に広がるのは、まるで初めからそうであったかのような穏やかな静寂だった。
先ほどまでのざわめきは消え去り、不安や疑念の痕跡すら残されていない。
演壇の手前で取り押さえられ、怒気をあらわにしていた男さえ、毒気を抜かれたように穏やかな表情で姿勢を正していた。
――語られた〝正史〟は、確かに定着した。
それを確認するように、イリスは小さく息を吐いた。
「我らの同志に、とこしえの安寧があらんことを」
語り部の男とともに一礼し、静かに降壇する。
任務は完了した。
「お疲れさまでした」
定型の挨拶を述べ、その場を辞そうとしたイリスを、語り部の声が呼び止めた。
「記録官」
「……何か?」
「この街であんなに強く〝語り〟が効いたのは初めてだ。記録光も強く、安定していた。君の記録の的確さが寄与したのだろう」
「……そうですか」
イリスは淡々と答え、男に小さく一礼し、背を向けた。
自身の仕事を認められることにはかすかな充足感があったが、それを表情に出すことはない。
群衆の縁を回るようにして街路を抜け、鉄道駅を目指して歩く。
このまま首都へ向かう車上で報告をまとめ、記録局に提出する予定だった。
*
リューザ連邦における〝語り部〟制度は、すでに百年近い歴史を持つ。
〝語り〟によって過去を修正し、記録によってそれを歴史として確定させるこの制度は、他国には存在しない統治機構の根幹だった。
より多くの人民へ、より多くの幸福を――連邦はその理念のもと、あるべき正史を築いていく。
語られた正史は教育と宣伝を通じて民に浸透し、語られなかったものは、もとより存在しないものとして忘れられていく。
それが正しいかどうかなど、イリスは考えたことがなかった。
記録官となる以前の記憶を持たないイリスにとって、この職務こそが世界のすべてであり、思考の前提だった。
ただ、そうであるものとして、受け入れていた。
*
その日、記録局に戻ったイリスのもとに、上層部からの通達が届いたのは――沈みかけた日が、白亜の庁舎を赤く照らす頃だった。
呼び出しに応じたイリスが執務室に足を踏み入れると、上官の男はすぐに本題へ入った。
「戻ったばかりだったな。すまない、急ぎだ」
イリスはただ首を横に振って応じる。
「例の〝叛逆の語り部〟が、ついに捕らえられた」
淡々としたその一言に、イリスはかすかに瞳を瞬かせた。
「記録名、シュエル。当局が把握している限りでも、かの少年が行った語りにより、過去の事象が少なくとも五件書き換えられた。存在しない国の名、消えたはずの事件が再び噂され、市井に混乱が生じている。制度外における語り因子の発現事例はいくつかあるが……国の〝正史〟を塗り替えた例は、これが初めてだ」
男は机の引き出しから厚みのある紙束を取り出し、イリスの前に置いた。
それは拘束された少年に関する断片的な観測記録と、彼が関与したと思しき事例の概要、構文の分析を試みたと思しき書きつけといった、未整理の資料だった。
「本来なら直ちに、塗り替えられた過去に対する〝語り直し〟を行うべきだが、対象の語りは制度外の構文で成されている。当局の語り部では媒介層への干渉が不完全で、失敗すれば、人民の記憶と国の記録に齟齬を生じかねない」
〝語り〟の失敗。それは国家にとって最も忌避される現象だった。
「そのため、まずは対象から詳細な証言を引き出し、書き換えの〝核〟となった構文を識別する必要がある。――構文識別と記録の精度において、局内でお前の右に出る者はいないだろう」
男はそこで一拍置き、正面からイリスを見た。
「イリス、お前にしかできない任務だ。やってくれるか?」
イリスは、即座にうなずいた。疑念も、拒絶もなかった。
「かしこまりました」
まっすぐな姿勢で一礼し、紙束を静かに受け取る。
男は、その背に向けて一つだけ付け加えた。
「接触は明朝。場所は〝灰の区画〟だ。それまでに、その資料に目を通しておくように。……万全の状態で臨んでくれ」
イリスは振り返らずに応じた。
重みのある資料を抱え、足音を立てずに執務室を後にする。
リューザ連邦の非公開拘束施設――灰の区画。
そこは思想犯や特殊危険人物が隔離される、外界から閉ざされた場所。
その深奥へ、記録官として――ただ記すために、イリスは赴く。