最後の日、君を想う
今日は所謂「世界最後の日」だった。
「どこいくの?」
いかにも少女らしい高い声が、私の背中に問いかける。
朝の挨拶もそこそこに、彼女―――リルの服を着替えさせ
私も自身の身支度を進めていたときだった。
「おでかけ?するんだよね?どこにいくの?」
答えることなく、私はシャツのボタンを留め続けた。
「わーい、おでかけのじゅんびなんてひさしぶり!
まえにこんなことしたのはー、えっと、そうだ!
おとうさんとピクニックにいったときだ!」
何も言わない私にかまわず、部屋中をちょこまかと歩き回りながら
リルは独りで喋り続けた。
ああ、そうだった。
時計塔の隅にあるこの家を、彼女を連れて外に出るのは
ほんとうに久しぶりのことだ。
彼女のラーニング―知識と記憶をふやすこと、
それに伴う情緒の発達を目的として
彼女を森近くの丘に連れ出したのだ。
「とってもたのしかったなぁ。
あと、とってもきもちよかったの!
かぜもくさもみんなポカポカでね、
とりやうさぎさんやシカさんがそばにきてくれたよね。
わたしとみんな、きっとおともだちになれたよね」
囀ることを止めない鳥のような少女のその硬い手を引いて、
僅かな荷物だけを手に、部屋の扉を出る。
扉の外から見える世界の風景は一面、蒼暗く沈んでいた。
「……なんで?」
世界を見るなり、リルの口からその言葉が零れ落ちた。
「なんで、こんなにさむいの?
なんでみんな、こおりになっているの?
おとうさん、ねぇ、ポカポカのおひさまは、みんなは、
いったいどこにいっちゃったの?」
私は黙ったまま、半ば引きずるように彼女を階段へ向かわせた。
天空へ向かう階段をふたりで登ってゆく。
塔を構成する歯車はほぼ凍てつき
抗うかのような軋みの音が辺りに響いていた。
螺旋状に続く階段の、その窓から時折見える世界樹を見た
リルはつと、足を止めた。
「せかいじゅも……こおりになってる……?」
はるか遠くに見えるのは、神と同等の存在ともいえる樹。
この世界の創造の主と教えられ、彼女にもそう教えた存在。
それが蒼い竜のような、土から生えた何かに絡めとられ
白く変化していることが、ハッキリと見てとれた。
「……せかいじゅの、せいなの?
せかいじゅが、ダメになっちゃったから……」
リルの目線が移動し、私に向けられる。
まるで縋るかのような、その表情。
その手が私の上着を掴み、強く握った。
「みんな、みんな、いなくなっちゃうの?
とりさんも、うさぎさんも、しかさんも、みんなきえちゃうの?」
そう言って、その言葉で何か気付いたように、ハッとした表情をする。
「……おとうさん、も?」
「急ぐぞ」
彼女の言葉に被せるように硬い手を取り、繋ぎ直したそれを強引に引く。
前のめりになりながら必死に足を進める彼女を見かねて
私はリルを抱え上げ、階段を駆け上がった。
事実、蒼い氷塊は、すべてを凍てつかせながら、すぐそこまで迫っていた。
それから逃れるように必死に階段を駆けあがる。
やがて階段も途切れた。塔の最上階に着いたのだ。
息を切らしながら、抱えていたリルを立たせる。
私を案じているのが、リルの表情から見てとれた。だが、もう時間がない。
「リル、聞きなさい。この世界はもうすぐ終わる。
世界のすべてが氷に覆われて、すべての生き物は死に絶える。
君はーリルは人形だ。およそ、死ぬことはないだろう。
君はこのままここで眠るんだ。いつか誰かに起こされるまで」
「え……」
リルの表情が困惑から絶望に変化したのが手に取るように分かった。
「いやだよ!おとうさんも、おともだちのみんなも、だれもいないところで
ひとりぼっちでねむるなんて、そんなのいやだよ!」
そう叫んで、うなだれたリルの頭が、次の瞬間、跳ねるように上がった。
「そうだ!」
床から飛び上がらんばかりの勢いで立ち上がる。
「わるいやつをたおしにいこう!いつかおとうさんがよんでくれたえほんみたいに!
せかいをこおらせる、わるいまほうつかいがいるんでしょ?
そいつをたおしたらみんな、いなくならなくてもよくなるよ!」
凛々しささえ感じさせる顔で、私の手を両手で引く。
その必死さに、引きつっていた私の頬が思わず緩み、口角がわずかに上がった。
ああ、こんな時でも。
こんな時でも、君は。―――でも。
「誰のせいでもないんだ、リル。これは、仕方のないことなんだよ」
私が諭した瞬間、彼女は大声をあげて泣きだした。
泣いて、泣いて、泣いて。
いつしか、泣き声は苦しそうな嗚咽に変わった。
ひっく、ひっくと喉が鳴る。
まるで人形じゃないみたいだ。
「わかったかい?リル」
「……わかんない」
ぶんぶん、と強く首をふり、僅かにカールした綺麗な金髪が左右に振れる。
「わかんない、けど」
声が途切れた。口を尖らせて、我儘を言う時のように、言葉を続けた。
「みらいのせかいにも、きっと、いるよね。おともだち。あたたかいせかいで、あたたかいみんなと、きっとおともだちになれるよね」
「ああ、絶対だ」
真っ直ぐな視線とと真っ直ぐな言葉に押されるように、
間髪入れずに私は答えた。
瞬間、気温が急激に下がり
空気中の酸素が減少し始めた。
遂に、その瞬間が来たのだ。
「もうお眠り、リル」
彼女のまぶたを強引に閉じる。それがスイッチになっているのだ。
彼女の身体はスリープ状態に入り、永い眠りについた。
まもなくここは、死の星になる。
彼女以外の生き物は、すべて死に絶える。
「ありがとう、リル。
君に会えて、ほんとうによかった。
とてもいい人生だったよ。
願わくば……」
呟いて、私も目を閉じた。
おやすみ、リル。
また、明日。