Survenir
空の色がほのかに柔らかくなり、むせかえるほどの緑の匂いは遠くなる。夕暮れ時には時折涼やかな風が混じり、夜は少しだけ長くなったように思う。
そうしてふと、夏の盛りが過ぎたことに気づくとき、男の旅の目的地はもう決まっている。
何処の空の下に居たとしても、きまってその町を目指すのだ。
* * *
その年は、波の音すらかき消されそうな賑やかな港町でその季節を迎えた。
目的の町へは、ここから一月ほどで着くだろう。ちょうどその頃には季節の境目を過ぎ、秋の色合いが町に広がっているはずだ。
そこは男の故郷でもなければ、これといった用向きがあって訪れるわけでもない。栄えた街道からはやや外れた場所にあり、少し離れればその名を知る者がほとんどいなくなるような小さな町だ。
懐かしい気配を探し求め、ふらりと訪れたのはもう六年も前になる。それからは、気がつけば一年として欠かさず、秋のはじめにはあの町の広い空を見上げている。
そんな遠い町に思いを馳せながら、波止場へ向かうゆるやかな坂道を下っていくと、
「わぁい!」
空に突き抜けるような高い声に、ふと意識を引き戻された。
顔を上げると、向かい側から幼い少女が弾んだ足取りで歩いてくる。その手には、小さな紙包みがしっかりと握られていた。
「約束だからな。帰ったらちゃんと母さんの手伝いするんだぞ」
「うん! お父さんありがとう!」
何かしらを買ってもらいご満悦らしい少女は、後から追いついた父親に手を引かれ、そのまま街の奥へと消えていった。
その後姿に、何となく、これから向かう町のとある親子の姿が脳裏によぎる。小さな宿屋の主人と、その一人娘。
好奇心旺盛なその田舎町の娘は、男が訪れるたびに何度も旅先の話をねだった。そうなると店の手伝いも放り出して男の傍を離れないものだから、厨房から様子を見に来た主人と互いに顔を見合わせて苦笑したものだった。
それでも主人は、結局、娘がうつらうつらと舟を漕ぎ始めるまで男の話を聞かせてやっていた。
『あんたのことすっかり気に入っちまったみたいでさ。悪いが付き合ってやってくれや。こんな仕事じゃあろくに構ってもやれん、母親も居ない。寂しい思いをさせちまってるとは思うんだがな、どうにも』
終いにはすっかり寝入ってしまった娘を抱きかかえながら、そんなふうに頼まれたのを思い出す。
もっとも、それはもう何年も前の話だ。長じた娘は、好奇心の旺盛さはそのまま、けれど幾分か聞き分けの良い少女になり、店の片隅でまどろむ姿も今ではすっかり見られなくなった。
親子の来た方へ歩みを進めてみると、海を臨む少し開けた場所に、衣服や装飾品の露店が幾つも軒を連ねていた。街中の気取った雰囲気の店とは違う、素朴なつくりで値段も手ごろなものが並べられている。
その一角の、髪留めやリボンを並べた屋台に、ふと目が留まった。
屋台の柱から柱へと渡された紐に、色とりどりのリボンがかけられている。
成長するにつれて髪を伸ばすようになった宿屋の娘は、店に立つときなどはその髪をひとつにまとめ、リボンで結んでいた。
何とはなしに、気がつけば、淵にレースのあしらわれた臙脂色のリボンを手に取っていた。
「お客さん、お目が高いわ。それ、このところよく売れるのよ」
カーテン状になったリボンの向こう側から、艶やかなアルトボイスが響く。
顔を上げると、店の主人らしき鳶色の瞳の女が微笑んでこちらを見ていた。年の頃は二十半ばといったところか。複雑に編み上げた長い髪に、売り物の一つであろう髪飾りを挿している。
「贈り物のお相手は、この街の方?」
客を逃すまいとばかりに、女はすかさず上目づかいに尋ねてくる。
これといった考えはなしに何気なく手に取ったものであるが、あの少女への手土産にちょうど良いかもしれない。まんまと女の策にはまったものだと、胸中で苦笑した。
「いや、違う。土産にしようと思ってな」
「それならよかった。こういうのって難しいのよ。女の子は流行に敏感だけど、同じくらい自分だけの特別、が大好きだから」
そう言って女は妙に楽しそうな笑みを浮かべる。賑やかな街の露天商らしく、よく笑いよく喋る女だ。
これから向かう町の名を伝えると、彼女はやはり、知らないわ、と首を傾げた。
「そこの宿屋の娘で、町を出たことがない。だが、最近は妙に都会の流行りを知りたがるんだ」
「お年頃、ね。その子はいくつ?」
「十四……いや、今年で十五だったな」
「十五? あらあら、それじゃあそのリボンはいけないわ」
女は、どこか演技がかった仕草で首を振る。
「その年頃の女の子はね、だれだってちょっと背伸びしたいものよ。だから、あなたが可愛らしいって思うものじゃあ、駄目ね」
腑に落ちないという顔をすると、女はクスクスと口元を隠して笑った。
「うふふ。だってその子はあなたに、可愛いじゃなくて、綺麗って言ってほしいんだもの」
その言葉には、そういえば男は思い当たるものがあった。
あれは、一昨年のこと。いつものように開いたドアの先で、いつものようにお帰りなさいと微笑んだ少女に感じた、強烈な違和感。
それは、その唇にぽってりと塗られた紅だった。
蠱惑的な色合いのそれは、父親の目を盗んで近所の女に借りでもしたのだろうか。けれども、その紅の色だけが妙に鮮やかで、かえってあどけなさの残る顔立ちが際立ってしまっていた。
そんな少女の様子に何故だか妙に安堵して、思わず笑みがこぼれた。
『リンはほんと、変わんねぇなぁ』
しかしこの言葉が、彼女の機嫌を大いに損ねてしまったらしい。
ぷい、と奥の部屋へ引っ込んで、次に店へ出てきたときは紅をすっかり落としてしまっていた。それから、その日は一晩中目も合わせてくれなかったのだ。
なるほど、"可愛らしい"レースのリボンなど土産に持っていったならば、あの時と同じようにふてくされてしまうのかもしれない。
あたしもう子供じゃないもん、そんな風に言ってむくれる様が目に浮かぶ。
「覚えておくよ」
苦笑交じりに返して、そのリボンは元の場所へかけ直した。
しかし、どうしたものか。そんな微妙な年頃の少女のお眼鏡に適うものを、果たして自分に選べるのか。軽い気持ちで始めた土産物選びが、とたんに難題に変わる。
「よかったら、わたしが見立ててあげましょうか?」
そんな男の胸中を読んだかのように、女が問うてくる。
喜ばせようと思った土産で機嫌を損ねたのでは元も子もない。大人しく助け舟に乗ることにした。
「ああ、頼むよ」
「任せてちょうだい。ええと、その子の髪はブロンド?」
「ああ。それをいつもこう、ひとつに結んでる」
男の言葉を反芻しながら、女はいくつかの品物を手にとっては戻すを繰り返していく。
「そうねぇ、これはどう?」
そうして、最初に女が取り出したのは、深い藍色の生地に格子模様の編みこまれた、かなり落ち着いたデザインのものだった。
手渡されたそれを、じっくり眺めてみる。いかにも街の貴婦人らしい大人びた色合いではある。しかし、それを受け取ったとして、あの少女の顔はさほど輝かないように思えた。
悪いが、と首を横に振ると、女はなぜか満足げに微笑んだ。
「よく分かってるじゃない。女の子はね、そうはいってもやっぱり可愛いものが好きなの」
わざと選んだと言わんばかりの口ぶりに、男は閉口する。
「おいおい、からかうのはよしてくれ」
「あら、ごめんなさい。素敵な男の人とは少しでも長くお話していたいんだもの。ほら、これも女心よ」
「……かなわないな」
そう言って男が肩をすくめれば、女は身体を揺らして笑った。
「じゃあ、こんなのはどうかしら? 今度はわたし、かなり真剣よ」
そう言ってふわりと掌に落とされたのは、艶のあるさらりとした白い生地に、小さな赤い花が刺繍されたリボン。
ぽつりぽつりと控えめにあしらわれたその刺繍はまるで、秋のはじめにあの町を彩る花々を思わせた。そして、どこかあの少女自身にも重なるようで――。
手渡したならば、そのあどけない顔にぱっと花の咲くような笑みが浮かぶ気がした。
「どうやら、決まりみたいね?」
女の声に、はたと意識を引き戻される。
「ああ」
頷けば、女は満足げににっこりと微笑んだ。
「おかげで楽しい時間が過ごせたわ。ふふ、少しおまけしといてあげる」
リボンを手渡すと、女はそれを慣れた手つきで蝶々結びにした。
「恋人……ううん、違うな。妹さん、でもないか。……うふふ。なんにしても、きっとすてきな女性(レディ)なのでしょうね」
そうして結んだリボンを紙で包みながら、何やら楽しそうに呟いている。ちらり、とこちらに向けてくる視線を面倒くさそうに逸らせば、女はくすりと小さく笑った。
「だってお客さん、とっても良い顔をしてたわ。ふふ、その子に嫉妬しちゃうくらい」
* * *
それから一月ほどの月日が流れ、男はその町へたどり着く。
幾人かの顔なじみと挨拶を交わしながら、赤い花々に彩られた路地を進み、馴染みの宿屋の前で足を止める。
そうしていつものように開いたドアの先、いつものようにお帰りなさいと微笑んだ少女は――。
「えへへ、びっくりした?」
思わず言葉を失った男に、少女ははにかむように淡く微笑んだ。
「リン、その髪」
「うん。去年、ちょうどあなたが旅立った後くらいにね、ばっさり切っちゃった。それからは、ずっとこのくらい」
伸びるの遅いんだよね、とぼやきながら、束ねた毛先をたびたび引っ張るようにいじっていたのを思い出す。
それが今は、肩につくかつかないかの辺りで軽やかに揺れていた。
けれど、果たしてそれだけだろうか。
この少女がまとう空気の、明らかな変化は。
「確か、最初に会った時はそのくらい短かったっけな」
「そうだったかも。でも、あれから背もたくさん伸びたし、大人っぽくなったでしょう?」
「ああ、そうだな」
「もう、全然心こもってないー」
少女は、子どものするようにぷうと頬を膨らませたが、やがてふわりと相好を崩した。
――その、暮れかけた秋の日差しにも似た、柔らかくもどこか胸を締めつけるような切なさを秘めた笑み。
「ね、夕ご飯まだでしょう? あたし、作れるお料理が増えたのよ」
そう言ってぱたぱたと厨房へ戻っていく少女の背中を、男はただぼんやりと目で追いかけたまま立ち尽くす。
軽く茶化しはしたものの、正直なところ戸惑っていた。
かつてこの少女がこんな表情を見せたことがあっただろうか。
或いは、もはや少女と呼ぶのはふさわしくないのかもしれない。
そう思ったとき、何故か、心の片隅がかすかに軋むような感覚を覚えた。
まるで、気づかぬうちに過ぎ去っていた月日の重みがそこにのしかかるかのように。
その後、男が取り出しかけた土産をそのまま鞄に仕舞い込んだのは、もはや彼女の髪にそれが用を成さなくなるからでは決してない。
ばつが悪そうにそれを手渡したとして、彼女はきっと心から喜んでくれるのだろうから。
それでも、今の彼女にそれを渡すことはどうしてもできなかった。
すっかり持て余してしまったそのリボンは、町を去る朝、"サルビア通り"の片隅にわずかに咲き残った一輪にそっと結んだ。
名残惜しげに振り返れば、それはまるで墓標のようにも見えた。いつの間にか姿を消してしまった、ある少女の。
一月前、あの港町の露店で脳裏に思い浮かべたあどけない少女は、もう居ないのだ。
代わりに、時折はっとするほど大人びた顔で、短い髪を揺らし微笑む女を思う。
胸の奥に広がる不可思議なざわめきに、そのときはまだ、気づかないふりをした。