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Sunset orange, Rainy blue

3.

 

 そんなふうにリルは、今もその前髪を飾るヘアピンの由来を俺に語り聞かせてくれた。
 すっかり色褪せてしまったそれは、おそらく昔は金色に近い輝きを放っていたのだろう。
「じゃあ、リルのそのピンは世界にたった一つしかない、お父さんからのプレゼントなんだね」
 そう言うと、リルはあっという顔をして茜色の瞳を二度、三度と瞬かせた。
「……うん」
 ふわりと口元を綻ばせ、はにかむようにそっと目を伏せる。
 その表情に、ひととき目を奪われた。――こんなふうに笑えたんだな、この子は。
 ヒトのような心を持った人形。噂に聞いたときはとても信じがたい話だと思ったけれど、こうして今、目の前にいるリルは、語りかける言葉や目に映るものにさまざまな反応を見せ、意思の宿った言葉を紡ぎ、くるくると表情を変える。
 夕焼け空のような大きな瞳が硬質な硝子玉であることや、小さな掌が人肌の温もりを持たないこと。いっそそれらの方が何かの間違いであるように思えてしまうほどに。
 ふっと会話の途切れた静寂に、打ち付ける雨音が滑り込む。明け方から降り始めた雨は、昼下がりの今も一向にやむ気配がない。
 こうして俺たちが雨宿りをしている場所は、もう動かなくなって久しい錆び付いた電車の中だ。世界樹を望む丘の麓へと、この線路は続いているという。リルと出会ったラトポリカの街から、線路を辿るように旅をしてきたけれど、この雨では氷樹ひょうじゅ に覆われた大地は歩けない。おかげで今日はこの廃車両の中で、いつになくゆったりとした時間が流れていた。
 リルの語った思い出は、この電車がまだ走っていた頃の話だ。それこそ、俺が生まれるよりずっと前の。
 知の都と呼び称されたラトポリカの中心に立つ時計塔で、リルの時間は何十年も止まっていたという。ふとしたはずみで目覚め、変わり果てた街に一人きりでいた時間がどれほどだったのかはわからない。少なくとも、この笑顔をすっかり失わせてしまうほどに、この子にとっては長い時間だったのだろう。
 お父さん、と躊躇いなく口にするようになったのも、つい数日前のことだ。それまでは頑なに父と称することを拒み、ひどく硬い声音で私を作った人、と呼んでいた。
 捨てられたのだと、不要になってあの時計塔に置き去りにされたのだという不安が、リルの心の奥深くに巣食っている。けれどもその裏には、そうじゃないんだと信じたい思いが勿論あって、こうして温かな昔話を語り終えた今でも、硝子の瞳の奥には複雑な葛藤が見え隠れしていた。
「リル」
 行き場のないその思いを掴まえるように、俺はリルと正面から目を合わせた。
「初めて会ったときに話したこと、覚えてる?」
 質問の意図を探るように、リルは小さく首をかしげる。
「寂しい、寂しかったってリルは言ったんだ。あのとき初めて、寂しいっていう気持ちを知ったんじゃない?」
 リルははっとした表情で俺を見て、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「だとしたら博士は、お父さんはリルのことをとても大切にしていたんだよ。君が一度も寂しいっていう気持ちを知ることがなかったくらいに」
 「寂しかったね」と俺が声をかけたとき、ほんの一瞬、虚をつかれたような表情を見せたのが印象的だった。「寂しい」という言葉に、感情に、生まれて初めて出会ったのだと言わんばかりに。
 滅び去る前のあの街でこの小さな手を引いていた人は、一点の曇りもない愛情を注いでいたに違いないのだと、そのときから思っていた。そしてリルの話を聞いて、いっそうその確信は強まった。
「優しかったよ、とても。お父さんはなんでも知ってたし、いろんなことを教えてくれた。朝はなかなか起きてくれないし、料理もお洗濯も全然ちゃんとできないけど、でも、すごい人なんだよ。お父さんのこと、私は……」
 ――だいすきだよ。
 そんなふうに言うのだと思った。けれどもリルは躊躇いがちに唇を引き結んでしまう。
 代わりに、口にしたのは。
「お父さん、どこに行ったのかな」
 思わずこぼれ落ちてしまった、というような小さな呟きだった。
 話を聞く限り、何十年と時が流れた今はもうルフ博士が存命でない可能性が高い、ということまではリルは受け入れているようだった。それでも、ほんの少しでも彼の辿った足取りを知りたいと思うのは当然だし、心のどこかでは万に一つの奇跡を、再会を願う思いもあるのだろう。
 かつて海の向こうまでその名が聞こえるほどだったという稀代の科学者のその後の消息は、不思議なことに全く知られていない。氷の氷樹うみ の何処かで息絶えたのではないか、というのが通説になっているけれど、そんなことを間違ってもリルに話せるはずがなかった。
 廃墟と化したあのラトポリカの街で、ただ一つ生きていた時計塔。そこで彼が愛する娘の手を離さなければいけない理由があったのだ。それは、あるいは――。
「……ヒース?」
  硝子の瞳の奥に不安げな色が映り、はっと我に返る。
 一つの憶測が鮮明に像を結ぶのは、俺自身が〝そう〟であるからでしかない。たとえそれが正しかったとしても、この子を悲しませるだけの答えに意味は無い。
「ごめんね、ちょっと考え事」
 なんでもないよ、と微笑って首を振った。
 君はちゃんと愛されていたんだ。大丈夫だよ、リル。それだけは間違いないから。
「雨、やまないね」
 取り成すように窓の外を見やれば、リルも身を乗り出して覗き込み、こくりと頷く。
「リルは雨乞い、って知ってる?」
「あまごい?」
「そう。雨がなかなか降らないときに、昔の人は色々なやり方で雨を願ったんだって。歌だとか踊りだとか、たくさん人が集まって」
「お祭りみたいに?」
「そうだね。さっき話してくれたラトポリカのお祭りとは、ちょっと違うけど」
 こんな雨の日に、決まって口ずさみたくなる唄がある。
 ふらせ、あめふらせ、めぐみのあめを、だいちにふらせ。くさがおどり、はながわらう、めぐみのあめを、このちにふらせ――。
 樹海の向こうに伝わるそれは、リルにとっては聞き慣れない響きだったのだろう。とても興味深そうに耳を傾けていた。
「これ、たぶん俺が生まれた町の雨乞い唄なんだ」
「たぶ、ん?」
「はっきりと覚えてるわけじゃないからさ。だけど、なんとなく懐かしい感じがして。そういうのって案外あてになったりするんだよ」
「でじゃぶ、っていうの?」
「あー、そんな感じかな。よく知ってるね、リル」
 曇った窓を戯れに指先でなぞる。あらわになった透明な硝子には、細い氷樹の枝がびっしりと張り付いていた。
 繊細な硝子細工のような、透き通った深い青色の枝葉。世界を蝕む脅威であるのに、こんなにも美しい。
「雨乞いって、子どもの頃からずっと不思議でさ。雨は降った端から凍ってしまう、氷樹を育てるばかりで、厄介なものでしかない。だけどこの唄はこんなにも真っ直ぐに雨を願うから。草が躍り、花が笑う……いつか、そんな風景を見てみたいって思ってた」
「ラトポリカにまだ氷樹が少なくて、人がたくさん居た頃は、雨は凍ったりしなかったよ。それで、地面の上で水たまりになるの。花壇の花は、うん、雨が降ると嬉しそうだった。それから、雨の日にしか見かけない虫なんかもいた」
「そっか、リルは覚えているんだね」
 相槌を打ちながら、リルの語った風景に思いを馳せていると、ふいに、小さな手がぎゅっと服の裾を引いた。
 視線を向ければ、何か決意のような強い光をたたえた茜色の瞳が、そこにはあった。
「きっと、見られるよ。世界樹の見える丘の上はとても綺麗な場所だった。あの丘には氷樹がないっていうのなら、花だって今もちゃんと咲いてると、思うから」
 大切に、紡ぎ合わせるように連ねられた言葉の一つ一つが、小さな手を懸命に伸ばして、希望の灯をともそうとするようなその様が、どうしようもなく胸を打つ。
 わしゃわしゃと頭を撫でると、リルは不思議そうに目を瞬かせた。「ありがとね」と小さく笑うと、リルもほのかに口角を緩めた。
「ヒース。さっきの唄、もう一回聴きたい」
「雨乞いの?」
「うん。私、あの唄好き」
 雨にけぶる硝子越しの風景をぼんやりと眺めながら、遠い、今はなき町の唄を口ずさむ。
 不思議な感覚だった。俺は氷の樹海の向こう側にいて、何十年も前に作られた人形の少女と、こうして同じ時間を過ごしている。
 何か一つでも違ったらあり得ないはずの光景だった。人の生きる時間なんてそんなことの積み重ねだと、言ってしまえばそれまでなのだろうけれど。
 今、ここにいてよかった。なんとはなしに、そんな思いを抱く。

  *  *  *

 ことん、と腕の辺りにかすかな重みを感じたのは、ちょうど唄がひと巡りした頃だっただろうか。
「リル?」
 そっと面をうかがえば、茜色の瞳は瞼の奥に伏せられている。
 ……人形にも子守唄ってあるんだろうか。他愛もない思考を巡らせながら、いとけない寝顔に、思わず笑みがこぼれた。
 雨の日はどこか気だるく眠たいのだと、今朝方リルは話していた。ラトポリカの人形師の緻密な設計のもとにそのように作られたのか、ただ単に彼の気まぐれであるのかは、今となっては知る由もない。……さっきのリルの話を聞くにどうも後者な気がしてならないけれど、なんて言ったら怒られるだろうか。
 ぱきり、ぱきりと窓越しに、地に落ちた雨粒の凍りつく音が響く。凍てる大地に降る雨はそうして、青く透き通った氷の枝葉をゆっくりと育んでいく。
 それに呼応するかのように、視野の端に霞がかった深い青が揺れた。それは水面に落ちた雫のようにさっと広がって、視界を暗く濁らせる。
 錆びた網棚、規則的に並んだシート――目に映るあらゆるものが青に染まり、輪郭が歪む。それは、まるで世界が氷の樹海に沈んだような光景。
「……間に合う、かな」
 重く深い息を一つ吐いて、瞼を閉じた。

 タイプ・ブルー。それがどういう病であるのかは、嫌というほどに知っていた。氷樹と同じ深い青色に染まっていく眼は、次第に青く霞んだ世界ばかりを映すようになる。身体の器官が不可逆的に変質し、いつか呼吸が、あるいは鼓動が止まる。物心ついたときから暮らしていた街で、そうして命の灯火の尽きていく人たちを幾度となく見てきた。
 だからだろうか。症状をはっきりと自覚したときも、不思議と冷静だった。ああ、ついに俺の番なのか、と。先に逝った見知った顔が、幾つも脳裏をよぎった気もする。――恐れや怒りや悲しみや、およそ死に対し抱くべき感情は、彼らを送るうちにとうに擦り切れてしまっていたのだと思う。
 淡々と日々は流れた。そうしてあるとき、虚しいな、とだけ思った。
 あるいはこの眼がただ一つの色を除いて何も映さなくなり、手が、足が凍りついたように動かなくなったときに、執着めいた思いが生まれるのかもしれない、とも。
 けれども、それ以上に考えたのは、そうなったとき俺はここに居たくはないな、ということだった。
 初めてその最期を看取ったタイプ・ブルーの罹患者は、街の路地裏で、俺みたいな生みの親を知らない子どもたちの母親代わりを一手に引き受けていた人だった。
 薄暗く寒い部屋の片隅に、どうにかしつらえた粗末な寝台。塗り込めたような青い瞳には光が希薄で、もう身体を起こすこともかなわなくなった彼女が、冷えきった指先で、すがりつくように俺の手をとって言った言葉。 
 ――ころして、と。
 たった一度きり、それもほとんど息だけの掠れた声だった。だから何かの間違いだと、聞き間違えたのだと思って、思いたくて、骨ばった手をただ握り返した。今にも壊れそうなあの感触を、鮮明に覚えている。
 だけど、それが彼女の心からの望みであったと、今では思う。ただでさえ貧しく寒いあの路地裏の家で、ありったけの毛布をかき集めて看病したところで、時計の針は戻らない。あの人は命の灯火が尽きる最後の瞬間まで、それを心苦しく思っていたに違いなかった。
 ここに居たら、あの日の俺と同じ思いを、傍にいてくれる誰かに与えることになるだろう。
 だから氷樹で住めなくなった街を離れるという日に、皆と違う方向へ歩き出した。世界樹の方角へ、氷の樹海の向こう側へ。
 願いを叶えると古い伝承にうたわれる、空へ浮かぶ世界樹。それを道標にと決めたのは、本当に気まぐれだった。なんだってよかった。残されたそう長くもない時間に、少しでも意味を与えられるならば。

 そんな気まぐれのままに、凍てた知の都でこの子の手をとってしまったのだと思う。

 ただ、笑ってほしいと思った。
 固く閉ざされた心が痛々しくて、その分、ほのかに垣間見えたあどけない真っ直ぐさがいとおしくて、気づいたら手を伸べていた。深く根差してしまった寂しさを、少しでも埋めてあげられたらいいと思った。
 けれども、それはただこの衝動の矛先が変わっただけだ。淡々と尽きていく時間に意味が、この眼を蝕む青とは違う色彩が欲しいと。
 いつか呼吸が、心臓が止まる前に、この小さな手を放さなくてはいけない。
 それならば、少しでも暖かい場所へ。それが、ただ閉じていくだけのこの無意味な物語に巻き込んでしまったことへの償いになるだろうか。
『お父さん、どこに行ったのかな』
 リルが抱く問いの答えを、俺は知っている気がする。どこまでも憶測の域を出ないはずなのに、なぜだろう、不思議と強い確信があった。
 ラトポリカの人形師――あるいは彼にも、この深い青に沈んだ世界が見えていたのではないか。いつ止まるとも知れない時計の針を恐れながら、リルをあの時計塔へと導いたんじゃないだろうか。
 小さな手を引いて、塔の階段を一つ一つ上がっていく。不思議そうに見上げるあどけない茜色の瞳は、あるいはもう彼の眼には映っていなかったのかもしれない。そんな風景が鮮やかに脳裏に浮かぶ。
 ――そのときあなたは、このいとけない人形に心を、感情を与えたことを悔いたのだろうか?


 固くつむった瞼を解いてみれば、世界は元の色彩を取り戻していた。
 未だ夢の中にいるリルの髪をそっと梳きながら、窓の外、分厚い雲の向こう側に浮かんでいるであろう世界樹へ祈った。
 軋み始めた時計の針が凍りつく前に、この子を希望の丘へと導けるように――今は少しでも早く、この雨がやめばいいと。

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