top of page

​レイニーブルーの朝に

 

 

 ぱちりと目を開けて、一、ニ、三秒。
 そうしたら朝を告げる時計塔の鐘の音がラトポリカの街中に響き渡り、私は寝床を抜け出して、お父さんを起こしにいく。
 時計塔と私。お父さんの設計したものにはいつだって一寸の狂いもなく、その間隔がずれることは決してない。
 時計の止まったラトポリカの街に一人きりでいたときも、街から遠く離れた今も、私の目覚めのリズムは全くといっていいほど変わらぬままだった。
 けれども、今朝。
 宿代わりにした、打ち捨てられた列車の車両で目を覚ましたとき、傍らで眠っていたはずのヒースの姿は既になかった。
 びっくりして飛び起きてみれば、窓硝子の外側にびっしりと張り付いた青い氷の枝から、ぽたり、ぽたりと透明な雫が滴り落ちていた。
 それは、ラトポリカを発って初めての雨の朝だった。
 どういうわけか、雨の日は身体の感覚が普段と違って、頭の奥がぼんやりとする。目覚める時間も、いつもより少しだけ遅くなってしまう。雨が降るときまってそうなるのだから、きっとお父さんが、そのように私を作ったのだろう。その理由を尋ねることは、もう叶わないけれど。


「ヒース……?」


 がらんと縦に広い空間に、不安げな自分の声だけがこだまする。
 その感覚はどうしたって、時計塔で目覚めた日を――お父さんがいなくなったあの日を思い出させた。
 座席の片隅に残された、ヒースの荷物。私の両目は確かにそれらを捉えているのに。
 居ても立ってもいられない不安に駆り立てられて、私は隣の車両へと駆け込んだ。
 果たして、そこに彼はいた。
 安堵して名を呼ぼうとし、はたと思いとどまる。
 雨にけぶる薄明るい窓辺で、ヒースは両の掌を胸の前で合わせ、じっと瞑目していた。
 ラトポリカの人々がしていたものとは幾分か違うけれど、それは祈りの仕草だとすぐにわかった。
 窓の外、ちょうどあの雲の向こう側に世界樹が浮かんでいるはずだ。空を貫く世界樹へ思いを馳せ、人々は祈りを捧ぐ。それはラトポリカでも、樹海の向こうの町でも、変わらぬならわしなのだろう。
 小さな足音ひとつでその静謐な空気を壊してしまう気がして、私はじっとその場に立ち尽くしていた。


『リル、一緒に行こう。俺をその丘まで連れて行ってくれる?』


 旅の始まりに思いを馳せるときは、いつも足元がぐらつくような感覚を覚える。
 彼があの世界樹を目指し旅をする本当の理由。それはきっと、私の知らないところにある。そんな予感が、ずっと離れずにいた。
 どうしてヒースは、私を連れ出したのだろう。どうしてあのとき、温もりを宿さない作り物のこの手を取ってくれたのだろう。
 朝、目覚めて、傍にいなかった。それだけで不安に押し潰されそうになったのは、この時間がとても儚いものだとわかっているから。


「おはよう、リル」


 静寂を割った声に、はっと意識を引き戻される。
 思考の淵に沈むうちに、気づけばヒースがこちらを振り返っていた。


「ごめん、びっくりさせたよね。向こうに一人で置いてきちゃったから」


 優しく細められた青い瞳に、心の中に抱いた不安を全部見透かされているようで落ち着かない。


「ううん、だいじょうぶ」


 とっさにそう答え、ヒースの隣に並んだ。


「雨、止みそうにないね。今日はここで足止めかな」
「そう、なの?」


 思いがけない言葉に、きょとんとする。ラトポリカを発ってから今まで、ひとところに留まった日など一日としてなかったから。
 けれども私の反応に、ヒースも同じくらい意外そうな顔を見せた。


「だってすっごく寒いし、リルが滑って転んだら危ないでしょ?」
「……転ばないもん」


 小さな子どもに言い聞かせるような口調に閉口する。
 どれだけ時を経ても変わることのない、幼い容姿と小さな身体。だからヒースは、こうして言い返す私にさえ、微笑ましそうに相好を崩し、ふわりと頭を撫でる。
 その温もりに身を委ね、ひそやかに願う。
 たとえこれが、限られた時間だとしても。どうか少しでも長く続けばいい、と。

bottom of page