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​人魚姫の砂時計

 

 

 白で構成された小さな部屋に射し込む陽射しが、少しずつ、少しずつ傾いて、オレンジ色を帯びていく。
 あたしはベッドの上で白いお布団にくるまったまま、もう何度目か分からないお決まりの手遊びを繰り返す。お布団から腕だけを出して、小さな宝物を傾きかけた日の光にかざして。
 あたしの小さな宝物。それは、エメラルドグリーンのガラスの中に、とろりとした青色の”液体”を閉じこめた砂時計。――そう、本当は”砂時計”って呼ぶのは少し間違っている。
 けれどあたしはそれを、”人魚姫の砂時計”って呼んでいる。誰にも話したことはないから、それはあたしの心の中でしか使われない名前だ。
 あたしはそれを幾度と無くひっくり返しては、青い液体が小さな泡の玉になって落ちてゆくのを眺めていた。
 鉛のように重たい感情も、左胸にたえず宿る痛みも、そうしている間は忘れられる気がするの。
 ”人魚姫の砂時計”。それは、あたしのこのちっぽけな世界の中で、俊ちゃんの次に大切なもの。


 俊ちゃんがあたしにそれをくれたのは、ちょうど一年前のこと。
 残暑厳しいといわれた夏の終わり、だけどそんなものとはすっかり隔離され、人工的な涼しさに満ちたこの部屋で。


「これ、愛菜にやるよ」


 そう言って俊ちゃんは、小麦色の腕でその”砂時計”をあたしの前に差し出した。
 俊ちゃんの手からそれを受け取る瞬間、そこに重なったあたしの日焼けを知らない白い掌は、まるでオセロみたいだと思った。
 起こしたベッドに背中をあずけたまま、あたしはその”砂時計”を、窓から射し込む日の光に空かしてみた。澄んだ青と緑の光が、白いシーツの上にキラキラと降り注ぐ。
 砂でなく不思議な液体の入ったその”砂時計”は、傾けると小さな泡が生まれ、上の空間から下の空間へ、ぽろぽろとこぼれおちる。
 後から後から生まれ落ちる丸い泡たちは、やがて互いに溶けあって、再びなめらかな液体へと戻ってゆく。
 卵のような小さな泡たちの、たった一分間の誕生と死。
 そのなんともいえない儚さは、一瞬であたしのお気に入りになった。


「人魚姫みたい」


 白いベッドの上から俊ちゃんを見上げて、あたしは言った。


「へ? 人魚姫?」


 俊ちゃんがぽかんとした顔であたしを見る。


「人魚姫は、泡になって消えちゃうでしょ。きっとこんな感じだったんじゃないかなぁ」


 あたしは再び、青い”砂時計”を傾けてみせた。
 こぽこぽと絶え間なく落ちていくまあるい泡を、じっと見つめる。
 これが、ゆっくりと海に溶けていく、いのちの欠片だとしたら。なんて美しい風景だろう。


「こんな風に綺麗に死ねたら、幸せね」


 あたしの呟きに、一瞬だけ沈黙が落ちて。


「ばか!」


 俊ちゃんの大きな声に、あたしは思わず肩を震わせた。
 優しい俊ちゃんがそんな風に怒る声を、あたしはこの時初めて聞いた。


「死ぬなんて、簡単に言うな!」


 おそるおそる見上げると、そこには、怒っているはずなのに、なんだか今にも泣き出しそうな俊ちゃんの顔があった。
 その瞬間、あたしの心はきりきりと締め付けられた。
 病気のせいなんかじゃない。もっとずっと違う痛み。


「あたしはただ……すごくきれいだって言いたかっただけだよ」
「愛菜」
「ね、俊ちゃん。あたし、これ気に入ったわ」


 何か言いたげな俊ちゃんをさえぎって、あたしはにっこりと笑ってみせる。


「……そっか。よかった」


 そう言ったときには俊ちゃんはもう泣きそうな顔はしてなくて、あたしは安心した。
 ”人魚姫の砂時計”。
 心の中で、あたしはこの綺麗な宝物にその名前を付けてあげた。
 俊ちゃんには教えない。きっとまた怒られちゃうから。

 


「沖縄の海って、すげぇんだぜ! すげぇ綺麗なんだ」


 と、俊ちゃんはしきりに「すげぇ」を連発してあたしに語ってくれた。
 夏休みの終わりに、家族旅行で沖縄に行ったのだそう。”人魚姫の砂時計”は、そのお土産なのだという。


「ふつうの海とは全然色が違うの。ほら、ちょうどそのガラスみたいな色でさ。青っていうより、ちょっと緑っぽい水色。な、外国の海みたいだろ?」


 俊ちゃんの黒目の大きな澄んだ瞳が、きらきらと輝いてる。


「うん」


 曖昧な相づちをうった時、ほんの少し胸の奥が痛かった。
 ――でも俊ちゃん、あたしは沖縄じゃない”ふつうの海”もあんまりよく知らないんだよ。
 喉まで出かかったその言葉を、あたしはそっと呑み込んだ。
 そんなことを言ったら、俊ちゃんを困らせてしまうのが分かっているから。


「ね、俊ちゃん。いつかあたしも行ってみたいな」


 だからあたしは声を弾ませて、あたしに出来うる限りのとびっきりの笑顔をつくってみせるんだ。
 そうしたら俊ちゃんも、思い切り歯をみせてにかっと笑ってくれるから。
 あたしが何よりも大好きな、夏の太陽みたいなまぶしい笑顔を見せてくれるから。


「じゃあ、俺が連れていってやるよ」
「ほんとに?」
「おう。だから愛菜、早く元気になれよな」
「うん!」


 きりきりときしむ、この、いつ壊れるとも知れない心臓を抱えて。
 そんな未来なんてきっと来ないと分かっていたって、それでもあたしは俊ちゃんのためならこうして笑ってみせることができるの。
 俊ちゃんの笑顔が見たいから。俊ちゃんの笑顔を見られるだけで、胸の奥が温かくなるから。
 俊ちゃんに笑ってほしいから、あたしは笑う。
 俊ちゃんがいなかったらあたしは、きっと今の半分も笑っていないのだろう。


  *  *  *


 小さな青い泡の玉がこぼれ落ちては溶けてゆく、こぽこぽと。
 窓から降る淡い光をとりこんで、きらきらと。
 くるりとひっくり返しては、また逆さにする。掌の中で、生まれては死んでゆくたくさんの泡。
 部屋を染めるオレンジ色がまた少し、濃くなっていることに気づいた。


「よっ、愛菜。元気してるかー?」


 そして、ずっと待ち望んでいたその声があたしの耳をくすぐる。
 あたしは首だけ動かして、病室の入口を振り返った。
 着崩した半袖の白いカッターシャツに、黒のスラックス。制服姿の俊ちゃんが立っている。そっか、もう学校始まってるんだ。


「はは、またそれいじってる。よく飽きないなぁ、お前」


 あたしの手の中にある”人魚姫の砂時計”を見て、俊ちゃんは笑った。
 学校指定だという黒いショルダーバッグをべこべこ言わせながら、俊ちゃんがあたしのベッドの方へ歩いてくる。
 あたしはゆっくりと身体を起こす。ずっと横になっていたから、頭が少しくらくらした。


「寝てていいよ。無理すんなって」


 ぶっきらぼうに言って俊ちゃんは、ショルダーバッグを床に降ろし、ベッド脇の丸椅子に腰掛ける。


「俊ちゃん」
「ん?」


 微熱にうるむ視界に、それでも俊ちゃんの顔をしっかりと映す。
 あたしは俊ちゃんの目の前で、”人魚姫の砂時計”を逆さにしてみせた。
 そして。こぼれ落ちる青い泡と、その向こう側にある俊ちゃんの瞳とをまっすぐに見つめながら、あたしは言った。


「この泡の玉が全部下に落ちるまで。それが、あたしの残りの寿命」


 この時のためにずっと心の中で用意していた言葉を。ひどく感情を押し殺した声で。


「だったら、どうする?」


 問いかけながら、はっと息を呑む音を聞いた。澄んだ大きな瞳が揺れるのを見た。


「ばか! な、何いってるんだよ! そういう縁起でも無いことを簡単に言うなって俺、言ったろっ?」


 一年前と同じ、ううん、一年前よりもっと、今にも泣き出しそうな子供みたいな顔で、俊ちゃんは言った。
 ひどく取り乱したその目は――あたしを見ていなかった。
 ……ああ。俊ちゃんは将来浮気とか絶対出来ないタイプなんだろうなぁ。
 いちばん最初に浮かんだのは、そんな場違いな感想だった。
 ごめんね俊ちゃん、あたし分かってたんだ。
 パパやママやお医者さんは何を訊いても曖昧な微笑みを浮かべるばかりだけど、自分の身体のことは自分がいちばんよく分かるの。
 なんとなく予感していたことを、俊ちゃんの泣きそうな顔を見て確信しちゃった。
 ――あたしの病気、もうあまり良くないんだってこと。


「そんな顔しないで、俊ちゃん」


 いつものように、あたしは笑う。きりきりと痛む左胸をきゅっと押し隠して。


「冗談。もしも、の話だよ。……あはは、俊ちゃんは相変わらずだなぁ」


 だって、これ以上俊ちゃんにそんな顔されたら、あたし泣いてしまいそうだから。
 あたしは俊ちゃんからそっと目を背けた。出来るだけさりげなく見えるように、窓の外の景色を眺めるふりをして。


「ねえ。もしも、もしもの話ね。あたしがあと一分で死んじゃうとしたら、俊ちゃんはあたしのために何をしてくれる?」


 その姿勢のまま、ぽつりと問いかける。”人魚姫の砂時計”を、ぎゅっと両手でにぎりしめて。
 もしもの話、と。あたしはちゃんと明るく言えたかしら?
 ふっ、と沈黙が滑り込む。
 死んじゃう、と言ったあたしを、けれど俊ちゃんは今度は叱らなかった。


「愛菜が、いちばん叶えたい願いを叶えてやる」
「俊ちゃん……」


 おずおずと振り返ったあたしを、見つめるそのまっすぐな眼差し。
 それが愛しくて。とても愛しくて。
 気が付けば、俊ちゃんの小麦色の手にあたしの白い手を伸ばし、ぎゅっとにぎっていた。


「愛菜?」
「こうやってずっと一緒にいて。最後の最後までずっと、あたしのこと放さないで。それが、あたしのいちばんの願いだよ」


 息が詰まって、いつもみたいに上手く笑えなかった。
 右手で俊ちゃんの手を強くにぎったまま、左手に持った”人魚姫の砂時計”を逆さにする。
 ――生まれ落ちた最初の泡がガラスの底に弾むのと、俊ちゃんがあたしを強く抱き寄せたのと、どっちが早かっただろう。
 とんっ、とあたしの頬が俊ちゃんの胸にあたる。晩夏の一日を過ごしてきた俊ちゃんの白いカッターシャツからは、酸っぱい汗のにおいがした。健康的なそのにおい。
 そのじんわりとした温もりの中で、あたしは声を上げて泣いた。涙が止まらなかった。
 そして、強く思った。
 ああ。この温かさを手放したくない。一分と言わず、これからもずっと、もっと。
 あたしは俊ちゃんのために笑ってるんだと思ってた。
 でも、違う。俊ちゃんが傍にいてくれると幸せだから、だからあたし、笑ってた。笑えてたんだ。
 泡になって消えてしまうのなんて嫌。
 あたしはもっと俊ちゃんと一緒にいたい。もっと一緒に、いっぱい笑っていたいよ。


  *  *  *


 月影の落ちる窓辺をみつめて、”人魚姫の砂時計”をそっと両手で包み込んで。
 その夜あたしは、ずっと迷っていたとても大きな決断をした。
 人間の足を手に入れるためにその声を捨てた人魚姫と同じくらい、大きな決断を。
 でもあたしは泡になんかならない。生きてみせる。
 今はどんな小さな可能性にだって、賭けてみたいと思えるの。

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