top of page

フローリアと箱庭のうた

 

 公国領の南端、根曲がりの人参のような形をした半島の先っぽに、シュドメールという港町がある。海の向こうの異国から、あるいは大陸から、たくさんの人が訪れてはまた去っていく。入り組んだ海岸線に沿って無秩序に寄せ集めたような町並みは、いつだってどこか騒がしい。
 一年を通して気候は温暖で、生まれてこの方、雪というものを目にしたことがない。どんな季節に訪れても、深い青色をした空と海、そこかしこに咲く、ふわりと芳しい色鮮やかな花たちが迎えてくれる。
 そのシュドメールの片隅で、わたしは生まれた。
 かつてその美しい風景をこよなく愛し、この町へ住み着いた流れ者のパパは、だからわたしに"フローリア"という名前をつけた。海の向こうの異国の言葉で"花が咲く"という意味があるのだという。

 ママは"魔女"だった。
 かつて町じゅうの男たちを、そしてパパをとりこにした、透き通るような琥珀色の瞳と、次々と不思議なものを創りだすその指先から、"魔女"と呼ばれたわたしの自慢のママ。
 シュドメールいちと謳われたその美貌こそ受け継がなかったけれど、小さなわたしにもちゃんと"魔法"が使えた。
 町角に咲く花、通りを行き交うひとびと、ママのお手製の指輪やポーチ、お気に入りの古びた雑貨。それらのささやく"物語"が、わたしには聞こえてきた。
 たとえば、月明かりの優しいまち、星空を臨むふたりだけの秘密の丘、空から舞い降りた小さな天使。遠く東の果ての国では、はかなく美しい薄紅の花が散る。――ここではない何処かの"物語"。
 そっと耳を澄ませ、かれらのうたう風景を思い描く。それだけでわたしは、何処へだって飛んで行けた。ここではない何処かの、わたしではない誰かの物語が、手に取れそうなほど鮮やかに流れ込んできた。
 パパは冒険家で、世界一すてきな歌うたいだった。
 だから小さなわたしは、たくさんの歌をパパに教えてもらった。はるか昔にうたわれた愛のうた、どこかの町のわらべうた、海の向こうの知らない言葉のうたも。
 小さなわたしは、パパのように広い世界へ冒険に出かけることはできなかったけれど、シュドメールの町じゅうに"物語"は溢れていた。めまぐるしく表情を変える海や、うつろいゆく季節の花、訪れては去っていく見慣れぬひとびと。
 大きくなったら、わたしの"物語"を歌にして、世界中のひとびとに聞いてもらうのが夢だった。


 そんな日々も、今は遠い昔話。
 “魔女”と呼ばれた美しいママも、わたしに歌を教えてくれたパパも、もう居ない。
 十四になったわたしは、いつしか"魔法"が使えなくなった。
 たったひとり、何処へも行けないわたしには、住み慣れたシュドメールの町はひどく狭くなった。
 昨日の続きの今日を、変わり映えのない一日を重ねながら、時おりふと魔が差したように、海
の向こうの広い世界を望んでみたりする。


 * * *


 港町シュドメールの朝は早い。朝日も顔を出さぬうちから、市場にはたくさんの人が集まってくる。
 けれど、わたしの朝はいつだってのんびりだ。起きる時間は、部屋にひとつだけある小さくな窓から差し込む光に任せている。曇りの日やとびきり寒い冬の朝なんかは、少しだけゆっくりしてしまう。
 その日は朝から気持ちの良い快晴で、窓から覗く空は、秋らしい澄んだ青色をしていた。
 眠い目をこすりながら一階のキッチンへ降りて、薄切りのチーズをのせたバゲットと、少し濃いめの紅茶を一杯。それから、漸く"お店"を開ける準備にとりかかる。
 住居も兼ねているうちの雑貨屋は、繁華街からゆるやかに続く、つづら折り状になった坂道の一角にある。そのまま道なりにくねくねと上っていけば、辺り一帯を一望できる丘に出られる。シュドメールを訪れる旅人たちは、絶景と評されるその景色を目当てに、この長い坂道を登っていく。帰りがけに、あるいは休憩がてらに立ちよってくれる彼らが、うちの主要なお客さんだ。
 かつて”魔女”と呼ばれたママが開いた小さな雑貨屋。一年前の冬にママが死んで、今はわたしのお店。
 ママの頃と違って、開店時間は気まぐれだ。観光目当ての旅人たちが坂を登ってくるのはもう少し日が高くなってからだし、差し迫って生活に必要なものを扱っているわけでもないので、町の人々が訪れることはそんなに多くない。
 お店のドアを開けると、ハーブと雑多な花の香りの混ざり合った匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。裏庭で育てた花や、町はずれの野や森で摘んだ花が、そこかしこに吊るしてあるのだ。乾いたら、木のつるに編み込んでリースを作ったり、香りのよいものはポプリにしたりする。
 薄暗い店内には、まだ昨日の気配がぼんやりと残っている。カーテンを開け、外へと続く扉を開け放てば、まぶしい日差しとつめたい潮風が一気に舞い込んできた。
 わたしは、すっかり朝らしくなったお店の床を箒で掃き清め、かたく絞った布巾で商品の並べられた棚やテーブルをひとつひとつ拭いていった。
 一通りの作業を終えると、カウンター代わりの小さな机の下から、お店の名前の刻まれた掛け看板を取り出した。外へ出てこの看板を吊るせば、いつでもお客さんを迎えられる。もっとも、いつもの通り、お昼頃までは閑古鳥で暇を持て余すのだろうけれど。
 掛け看板を手に、まだ人通りもまばらな通りへと出る。そのまま看板を軒先にぶら下げようとしたわたしは、ふと、伸ばしかけた手を止めた。
 ポロン、と。楽器の音色が風に運ばれてきたからだ。
 キタラの音だ、とすぐに分かった。
 坂の中腹にあたるうちのお店の前は少し開けた空間になっていて、道脇に並ぶ花壇をベンチ代わりに、丘へ登る人々がしばし足を休めて行くことがある。
 その花壇に浅く腰かけ、飴色のキタラを抱く一人の男のひとが居た。
 キタラ、あるいは遠い国のことばでツィタラとも呼ばれるそれは、丸っこい胴と細長い柄に、太さの異なる何本かの弦を渡した楽器だ。
 傍らには、使い古された様のナップサック。潮風になびく深い黄金色の髪と、浅く焼けた肌。歳の頃は、わたしよりいくらか上だろうか。
 彼はキタラの弦をひとつずつ爪弾き、響く音色にそっと耳を寄せている。音合わせの途中なのだろう。
 ――海の向こう、遠い南国からやってきた歌うたい。頑なな想い人の心を開かせるために、世界にたったひとつの"うた"を探し旅をしている。
 ふと、そんな"物語"がわたしの中に流れ込んできた。
 小さな頃はこうやって、通りを行き交う見慣れぬひとびとに色々な"物語"を与えたものだった。このごろはすっかり忘れ去っていた感覚だ。どうして今そんなことを考えたのだろう、と不思議に思うくらいに。
 ふわ、とひときわ強い潮風が髪をなぶっていく。それで、わたしは漸く外へ出た目的を思い出した。きゅっとつま先立ちをして、看板を軒先へ吊るす。
 異国の刺繍のほどこされた外套、精悍な横顔、潮風にゆるく弄ばれる短い髪。慣れた手つきで構えたキタラと、その向こうに覗く、シュドメールの明るく澄んだ海。まるで、子どもの頃に好きだった冒険譚の挿絵のよう。物語の生まれそうな光景だ。ひどく久しぶりに"あの感覚"が蘇ったのも、きっとその所為なのだろう、と思う。
 奏でられる音色は、きっと美しいものに違いない。
 そんなことを考えながら、わたしはお店の中へ戻った。机の下から、編みかけのカゴを引っ張り出す。これを仕上げながら、今日の最初のお客さんを待つことにしよう。あの歌うたいの奏でる音に耳を澄ませながら。
 やがて――風に乗って流れ込んだのは、なんとも調子っぱずれな音だった。
 曲にのせられた歌声こそ伸びやかな良い声であるのだけど、奏でられるキタラの音の出来は、はっきりいって、酷い。調和のとれていない音の重なり、がたがたのリズム。随所でぷつりとつっかえては、また何事もなかったかのように演奏が始まる。
 わたしは、軽くため息をついた。
 期待するんじゃなかった、などと胸中にぼやきながら、作業にとりかかろうとしたわたしだったけれど――どうしたわけか、怒りにも似た苛立ちがむくむくと身体の中をせり上がってきた。
 きっと、下手くそながらもそれが、わたしの知っている"あの曲"だと分かったせい。
 意を決したわたしは、編みかけのカゴを机の上に放りだすと、ふたたびお店の外へ飛び出した。

 大股でずんずんと近づいていくわたしに、歌うたいの男のひとは気づく様子はない。相変わらずつたない演奏を、けれどやけに楽しそうにのびのびと続けている。わたしは、その数歩手前で足を止めると、すぅと息を吸った。


「ひどい音。お客さん逃げちゃうじゃない」


 仁王立ちで言い放ってやると、はたと曲が止む。
 歌うたいはのろのろと顔を上げた。明るい海の色をした瞳がわたしを捉える。そして、


「うーん、やっぱり?」


 へらっと情けなく眉尻を下げて、そのひとはわらった。
 見知らぬ小娘の生意気な物言いに腹を立てるでもなく、かといって傷ついたふうでもない。こちらが拍子抜けするくらいの、清々しい笑顔。
 つい先ほど傍目に眺めた時は大人のお兄さんという印象だったけれど、こうして真正面から向き合ってみると、くりっと丸い瞳がどこか少年めいて見える。


「これでも、弾きはじめて三年は経つんだけどねぇ。なかなか上達しなくて」


 ちらり、と彼の腕の中のキタラに目を向けた。木で造られたそれは、確かにそれなりの歳月の染み込んだ色をしている。三年というが、奏でた回数もなかなかのものなのだろう。それで、あの音。


「……お兄さん、きっと才能がないんだ」


 ぽつり、と思わず口にしてしまった言葉を、わたしはほんの少しだけ後悔した。そんな辛辣な言葉を他人にぶつけたことに、自分でも驚いたくらい。それでも、いまさら謝ったりなんてしないけれど。
 八つ当たり、なのだと思う。――だって、"あの歌"。どうしたって、思い出を踏みにじられたような気持ちがして。


「言うなぁ、きみ」


 お兄さんは相変わらずへらっとした調子で笑いながら、飴色のキタラをそっと花壇の脇に立てかけた。


「ね、ちょっと借りてもいい?」


 彼の手を離れたキタラを指さし、わたしは尋ねる。


「うん? 構わないけど」


 その返事を聞くか聞かないかのうちに、わたしはキタラを拾い上げ、花壇のふちに腰を下ろしていた。
 左手で弦を押さえ、右手で爪弾く。指の腹を押し返すかたい弦の感触が、ひどく久しぶりだ。
 キタラの弾き方はパパに教わった。わたしがまだ小さな頃に突然新しい冒険へ出かけて、そのままずっと帰ってこない。パパより上手なキタラ弾きに、わたしは未だ出会ったことがない。
 慣らすようにいくらか弾いてみると、指先は自然と記憶の中の譜面をなぞりはじめた。さっきまでお兄さんが弾いて――弾こうとしていた曲。へぇ、とお兄さんの感心したような声が漏れた。


「きみ、この歌知ってるの?」
「むかし、パパが教えてくれたの」


 海の向こう、パパの生まれた国で作られた歌だという。
 やがてお兄さんは、わたしの奏でる音色に重ねて歌い始めた。わたし自身も一字一句違わず覚えているその歌を。
 "フローリア"、とお兄さんの低く伸びやかな声が歌い上げるとき、少しだけ胸の奥が熱くなった。
 うたわれるその響きは、もちろんわたしの名前ではない。"花が咲く"、という海の向こうの国の言葉だ。
 ――フローリア、お前とおなじ名前の歌だよ。そう言ってパパが教えてくれたこの歌は、わたしが初めて弾けるようになった曲だ。
 ふと顔を上げてみれば、通りすがった何人かが、足を止めて耳を傾けてくれている。一曲終えると、ぱらぱらと拍手が飛んだ。


「凄いや、きみ。こいつ、こんなに気持ち良さそうな音で歌うんだ」


 海色の瞳をきらきらと輝かせて、お兄さんは言う。そのあまりに屈託のない笑みに、わたしは戸惑った。


「……そうよ。ちゃんと弾いてあげないと可哀相」


 思いがけず高鳴る鼓動を押しこめるように毒づいて、キタラをお兄さんに返す。


「ところで、さっき言ってた"お客さん"、って?」


 キタラを布でくるみながら、お兄さんが尋ねる。わたしは、お店の方を指差してみせた。


「そこの雑貨屋。うちのお店なの」
「それじゃあ、せっかくだから何か買わせてもらおうかな。さっきのすてきな演奏のお礼」


 そう言うとお兄さんは身軽い仕草で立ち上がり、キタラの包みと、重そうなナップサックをひょいと背負い上げる。
 思い立ったら何とやら、とばかりにそのままお店の方へ歩きだした彼を、わたしは慌てて追いかけた。……なにかと調子の狂うひとだ、と思う。


「どうぞ、いらっしゃいませ」


 先回りして、お店の扉を開け放つ。どうも、と微笑んで、お兄さんは足を踏み入れた。今日の最初のお客さんがまさかこのひとになろうとは、つい先ほどまで思いもよらなかった。


「へぇ……色々あるなぁ」


 お兄さんは、きょろきょろとお店の中を見回している。


「狭いお店だけど、ゆっくり見て行って。――あ、荷物ここ置いていいよ」


  床に並べられた大きな籠や置物の類をざっと脇に寄せ、お兄さんの荷物が一式収まりそうな隙間を作った。商品の並べられた棚やテーブルがぎっしりと空間を埋めてしまっている店内は、人ひとりがやっと通れるくらいの余裕しかない。
 ありがとう、と言ってナップサックとキタラの包みを下ろしたお兄さんは、早速、テーブルに並べられた小さなぬいぐるみやポプリなどを物色し始めた。
 わたしは、店番時の定位置である丸椅子に腰掛け、しばしその様子を眺めていた。


「お兄さん、あっちの国のひと?」


 お兄さんの、蜂蜜にも似たとろりと深い黄金色の髪と、目鼻立ちのくっきりした顔立ちは、海の向こうから来る人々に共通する特徴だ。


「うん。これから、久しぶりに故郷の町へ帰るところなんだ。ちょうどいい手土産が見つかりそう」
「久しぶりって、どのくらい?」
「そうだね、かれこれもう四年……いや、五年近くこっちの大陸をぶらぶらしてるかなぁ」


 テーブルの一角に並べられた、ラベンダー染めのスカーフの一枚をふわりと広げながら、お兄さんは答えた。


「きれいな色。これ、きみが作ったの? こっちのぬいぐるみとか、この耳飾りなんかも」
「うん。そこのテーブルに並べてあるのは、全部わたし」


 草花染めのハンカチやスカーフ、さまざまな動物を模したぬいぐるみ。ガラス玉の指輪や貝殻の耳飾りに、季節のリースやポプリ。ママに教わったものもあれば、自分で考えたものもある。


「器用だなぁ。こんなちっちゃいの……」


 ガラス玉を細い糸で編みこんだ指輪をしげしげと覗きこんで、お兄さんが感心したように呟く。
 それからお兄さんは、テーブル脇の小さな棚に並べられた仕掛け箱のひとつを、おもむろに手にとった。鍵穴もないのに、どうしたわけか開けることのできないその箱を、お兄さんは熱心にためすつがめつしている。
 やがて、むむむ……と小さく唸り始めたのを見かねて、わたしはぽつりと声をかけた。


「赤色を右、黄色を左、最後に黒を手前」
「え?」
「その箱、赤く塗られた部分だけ動くでしょ。それを右に動かすの。あとは黄色を左、黒を手前」
「赤を右、黄色を左……わぁ、開いた! 不思議だなぁ、どうやって作るんだろう」
「さぁ、わたしにも分からない。その仕掛け箱はママが作ったの。そこの棚に並んでるのはぜんぶ、ママが作ったものよ」
「きみのお母さんも凄い人なんだなぁ」
「だって、"魔女"だもの」
「魔女?」


 目をぱちくりと瞬かせるお兄さんに、わたしは思わず小さく吹き出した。


「さっきの箱みたいな不思議なものを作るのと、びっくりするくらい綺麗なひとだから、"魔女"って呼ばれていたの。もう死んじゃったんだけどね」


 そのとき。はた、とお兄さんの動きが止まる気配がした。ちらりとうかがえば、ほのかに曇る海色の瞳。心の奥が、ざらっと濁る。……そんな顔しなくたっていいじゃない、ついさっき出会ったばかりのわたしに。
 ママが死んで、わたしは一人になった。寂しくて哀しくてどうしようもない時期なんてもう、とうに過ぎている。そうしなきゃ、生きていかれない。だって、一人ぼっちになったんだもの。


「ねぇ、どうしてキタラを始めたの?」


 だからわたしは殊更に明るい声音で、そんなふうに問いかけてみる。


「うん? そうだなぁ、色々あったんだけど……一言でいうなら、恋をしたから、かな」


 お兄さんは少し考え込むような仕草を見せたあと、照れくさそうに答えた。
 恋、と聞いて、さっき初めてお兄さんを見た時に浮かんだ"物語"が脳裏によみがえる。キタラの腕前こそからきしだったけれど、"物語"の方はあながちはずれじゃないのかもしれない。


「お相手は? どんなひと?」


 そんな期待も入り混じって、思わず身を乗り出して尋ねていた。お兄さんはそんなわたしを一瞥し、淡く微笑んだ。小さな妹を眺めるような穏やかな笑みに、少しだけ頬が熱くなる。


「とてもきれいなひと。一目惚れだった」


 それから。お兄さんは懐かしそうに目を細め、ゆっくりと語り始めた。ちょうど今と同じ、秋のはじめの頃。そのひとに出会ったのは、ここよりずっと北の、うんと小さな町だった。鮮やかな赤い花がそこかしこに咲いていてね――。
 お兄さんの語る情景が、瞳の奥にふわりと広がっていく。シュドメールみたいにごちゃごちゃと騒がしくない、のどかな田舎町。乾いた風にゆれる、咲き並んだ赤いセージの花。こじんまりとした温かい宿屋、どこか遠くを見つめる女将さん。


「それで、どうなったの?」


 勢いこんで尋ねたわたしに、お兄さんは困ったように軽く肩をすくめた。


「どうもこうも、彼女は僕の想いすらきっと知らない」


 あっさりと示された結末に、わたしはぽかんと置いてけぼりになる。


「……なんだ、つまんないの」


 つまらない。あのとき流れ込んできた心躍る"物語"なんて、結局、欠片もなかったじゃない。
 ――だけど、どうしてだろう。
 期待はずれでぽっかりと空いた穴に、それでも、お兄さんの語ったその遠い遠い町の情景が、やけに鮮明に残っていた。なぜだか、胸がどきどきする。


「ねぇ、他には? お兄さん、いろんな町を旅してきたんでしょう。お話、聞かせてよ」


 その不思議な高揚感の続きを追いかけてみたくて、わたしはねだった。


 熱のこもったわたしの言葉に、お兄さんは少し驚いたように目を見開く。それから、ふわりと淡く微笑んで。


「それじゃあ、お店の邪魔しちゃわないように手短にね」
「へいき。こんな朝早くにうちへ来るお客さんなんて、お兄さんくらいよ」


 それを聞いたお兄さんは、あれれ? というふうに悪戯っぽく小首を傾げてみせた。しまった、とわたしは唇を噛む。
 ――"ひどい音。お客さんが逃げちゃうじゃない。"
 ぷぅ、とむくれたわたしに、お兄さんはまたにこにこと朗らかに笑った。

 


 それから。お店の品物をあれこれ覗きこんだり、手にとってひとつひとつ眺めたりしながら、お兄さんは色々なお話をしてくれた。
 わたしは、机に放り出してあった編みかけのカゴの続きを仕上げながら、お兄さんの話に耳を傾けた。
 そうして、どれくらいの時間が経っただろう。
 気がつけばわたしは、カゴを編む手もすっかり止めて、語られる何処かの風景にただぼんやりと思いを馳せていた。


「ごめんね、そんなに面白い話はなかったね」


 そんなわたしの様子に気付いたのか、お兄さんが困ったように笑う。わたしは、ぶんぶんと首を横に振った。


「ううん、そんなことない。とっても」


 ――すてきだった。
 その言葉を、どうしてか胸の奥にしまい込んだ。多分、そう……悔しかったんだと思う。
 確かに、びっくりするような大事件もなければ、心躍る珍しい出来事もなかった。けれど、お兄さんがその瞳で見て、その足で歩いてきたという、わたしの知らない世界の欠片たち――お兄さんの口から語られるそのひとつひとつが、光を受けた水面のようにきらきらと輝いていた。生き生きとしていた。
 故郷の町を発って五年、と話していた。それなら、わたしくらいの歳の時にはもう、お兄さんは自由気ままな旅人だったのだ。


「……わたしも」


 気づけば、うわ言のように呟いていた。ちらり、とお兄さんがわたしを見る。


「わたしもね、旅に出るんだ。……そう。ママの遺したものがぜんぶ売れたら、この町を出るって決めてるの」


 決めてる、なんて真っ赤な嘘。それは、お店の片隅でどうしようもなく暇を持て余した時なんかに考える、白昼夢みたいな空想だ。だって、ひとりぼっちのわたしは、もう何処へ行くのも自由だ。たとえば、ママの作ったものが全部売れてしまったら。そうしたら、思い切ってこのシュドメールの町を出て行こう。そんなふうに。
 そんな思いつきで描いた落書きのような空想だけど、こうして言葉にしてみると、不思議と力が湧いてくる。
 そのまま突き動かされるように、わたしは続けた。


「子どもの頃、わたしね、歌うたいになりたかった。わたしの描いた"物語"を、世界中のひとに聞いてもらうのが夢だった」
「ものがたり?」


 そう、とわたしは頷いて、そっと瞳を閉じた。ちょうど子どもの頃、ママのお店の片隅でそうしていたのと同じように。


「お兄さんがさっき手にとってみてたあの小さな竪琴はね、特別な竪琴なの。ずっと昔に、深い森の奥にしか育たない不思議な木で造られた、かみさまのためのうたを奏でる竪琴。選ばれたたったひとりの男の子にしか弾けなかった」


 ゆっくりと目を開けて。それからわたしは、壁に掛けられた、ちいさな鍵のついた首飾りを手に取った。


「この鍵は、ふるいお城の鍵なの。お城には、美しいお姫様が眠ってる。お城に鍵をかけたのは、お姫様を守るナイト。壊れかけたお姫様の心を守りたくて、とびきりしあわせな夢の中に閉じ込めた」


 うたうように、滑らかに。わたしの唇は"物語"を語る。
 そのひとつひとつに、お兄さんは楽しそうに耳を傾けてくれるから、わたしの声は弾んだ。
 そう、この感覚。ずっと忘れていた、"物語"を描く感覚。どんな世界へだって飛んで行ける"魔法"。そこには、小さな頃のわたしが居た。パパもママも一緒だった、あの頃の――。


「……ちがう」


 ぽつり。零れ落ちた雨のしずくのような、ほのかな、けれど確かな違和感。


「え?」
「こんなの、わたしの物語じゃない」


 その一言で、"魔法"はすっかり解けた。輝いていたはずの"物語"は、花の枯れるように色褪せて。あとに残されたのは、途方もない虚しさだけ。
 小さなフローリアは、もう居ない。とびきり美しい"魔女"と、世界一すてきな歌うたいの一人娘はもう、何処にも。
 あの子はとっくに居なくなっていた。
 ――だって、ママは"魔女"なんかじゃない。パパはきっともう二度と帰ってこない。


「どうして?」


 お兄さんは不思議そうに首をかしげ、そしてなぜだかとても悲しそうな瞳をする。


「こんな綺麗な物語、きっと君にしか創れない」
「……きれ、い?」
「そう。たとえていうなら、このお店にそっくりだ。きらきらした綺麗なものや温かいものがたくさん並んでいて、夢が広がっていく気がするよ」


 日だまりのような笑顔で、お兄さんはこんなにも温かい言葉をくれる。それなのに、わたしの胸の奥にぽっかりと空いた穴は、じくじくと広がっていくばかりだ。
 綺麗。夢。キレイな、ユメ。……そうよ、とひどく冷えた声で、わたしは答えた。


「そう。だって、ニセモノだもの。造りもののお花がずっと、ずっと綺麗なのと、おんなじ」


 綺麗なもの、優しいもの、温かいもの。大好きなものだけを集めて並べた、わたしだけの箱庭。
 どこへも行けないわたしの代わりに、"物語"の中に空は広がった。だけどそれは全部、作り物の空だ。シュドメールの海の向こうにある国を、そこに咲く花を、風の匂いを、わたしは知らない。なにひとつ。
 思い描いた誰かの"物語"のなかに、わたしの居場所なんてない。わかっていた。もうずっと前から。
 お兄さんの話してくれた物語の主人公は、他でもない、お兄さんだった。何処にでもありそうな、届くことなく終わった恋だって、それは世界にたったひとつのお兄さんだけの物語。その心の奥に焼きついた、ほんとうの風景、ほんとうの匂い。
 そんな確かなものを持っているお兄さんには、きっと分かりっこない。分からなくていい。なのに、馬鹿みたい。行きずりのお客さんに、こんな癇癪。みっともないったらない。
 押し込めるようにぎゅっと目を瞑って、ぱちり。わたしは、微笑った。


「それより、ね。お土産、そろそろ決まった?」


 お兄さんは何か言いたげに口を開きかけたけど、きゅっと結んで、ふわり微笑んで頷く。決まったよ。
 机に並べられたのは、小さなくまのぬいぐるみがふたつ、白い貝殻の耳飾り、花染めのスカーフ。それから、


「はい、これで全部」


 そう言って最後に持ってきたのは、ママが作ったあの小さな仕掛け箱。ママが遺した変わり種の品物がお客さんの手に渡るのは、随分と久しぶりのことだった。
 古びた算盤をはじいて、お兄さんに示す。お兄さんはベルトに提げた小さなポーチから財布を取り出して、代金分の銅貨を机の上に置いた。確かに、と受け取って、わたしはお兄さんを見上げた。


「もう少しだけ待ってて。とびきりすてきな贈り物にしてあげる」


 わたしは机の引き出しを開け、色とりどりの包み紙やリボンの納められた箱を取り出した。
 さすがにお店の中はもう見飽きたのか、お兄さんは開け放した扉に背を預け、少しずつ賑わい始めた通りや、その向こうに見える海を眺めたりしている。
 ――足取り軽く、何処へでも行けそうな風をまとっているからか。
 お兄さんは、記憶の中のパパにすこしだけ似ている。
 いつだってあの海の向こうを見つめていたパパ。ある日突然、ママとわたしをこの町に置き去りにして、風に吹かれて何処かへ飛んで行った酷いひと。
 かなしいくらいに鮮やかな思い出と、捨てられない"名前"だけをわたしに残して。
 パパが居なくなっても、ママはわたしにとって誰よりも強く美しい"魔女"だった。ふたりきりの生活に不自由したことなど一度もなかった。
 けれど――いつだったろう。小さな頃は自慢だった、ママにつけられた"魔女"という称号。それが、ひどく寂しい境界線だと気付いたのは。どこか人間離れした、強くて美しい高嶺の花。だけど、ねぇ。"魔女"だってふつうの女のひとのように恋をして、心が苦しくなったりするわ。病気にだってなるわ。"魔女"の呼び名をつけたシュドメールのひとびとに、あるいは海の向こうの何処かにいるパパに、届くものなら声を張り上げて叫びたかった。
 生まれ育ったこの町でもどこか疎外感を感じていた、美しすぎたママ。流れ者だったパパの、その何物にも縛られない途方もない自由さに惹かれたのは、きっと必然だった。
 それならこんな結末だって、はじめから分かっていたのかもしれない。それでもママは、ずっとパパの帰りを待っていた。信じていた。パパの愛したこのシュドメールの町で、パパの旅立ったあの海の向こうを見つめながら。
 そしてそれは、一人きりになったわたしも同じなのだと思う。パパのことなんて嫌いなのに、大嫌いなのに、遺された思い出を大事にしまっている。"フローリア"――たとえば、あの歌。
 いつだって何処へだってもう行けるのに、行ってしまいたいのに、きっとわたしもぐずぐずとこの町を離れられない。ママが遺した変わり種はめったに売れないの、分かってる。
 最低のパパと、置き去りにされた可哀相な母娘。それが、"物語"では覆い隠せなくなった、わたしの現実。見たくなかった、ほんとうの現実。
 そうして、見えなかったものが、見たくなかったものが少しずつ見えていくほどに、描けたはずの"物語"はどこかへ消えてしまった。
 パパもママも"物語"さえも失って、わたしには何もない。昨日の続きの今日を、今日の続きの明日を、変わり映えのない一日を重ねながら、時おりふと魔が差したように、海の向こうの広い世界を望んでみたりしながら、けれどそこへ踏み出すことは決してないまま。
 それが大人になることだと思っていた。見えなかったものが少しずつ見えていくこと。世界が小さくなっていくこと。昨日と今日、今日と明日の違いが少しずつ薄くなっていくこと。"魔法"を忘れていくこと。
 ――でも。
 お兄さんが選んだお土産のひとつひとつと向き合いながら、海の向こうで彼を迎えるであろうあたたかい家を思った。お兄さんが歩いてきた広い世界を思った。
 ――わたしだって、わたしだってひとつくらい見つけたい。
 品物の最後のひとつにリボンをかけ、乾いた小さな花を一輪添えた。
 ――造りものの綺麗な"物語"じゃない。わたしだけの物語を。


「お待たせ」


 扉口に佇むお兄さんに声をかけ、わたしは立ちあがる。


「すてきな旅を」


 シュドメールを訪れ、あるいは去っていく旅人たちへ送るお決まりの挨拶とともに、わたしは品物まとめた紙袋をお兄さんへ手渡した。


「ありがとう」


 お兄さんは、にっこりと笑ってそれを受け取ると、お店の隅に置いていたナップサックとキタラを背負い上げた。
 それじゃあ、とひらひらと手を振って背を向けた、たくさんの見知らぬ風景を連れたひと。
 ――きらいだ、と思う。下手くそなキタラの演奏から始まって、本当にぐるぐるとわたしの心をかき回していったひと。調子の狂うような朗らかな笑みと、どこか子供っぽい仕草。それから、語られたたくさんの旅の軌跡。眩しくて羨ましくて、悔しくて。
 それなのに、どうしてか。気がつけばわたしは、すっと背伸びをして、その肩に手を伸ばしていた。すがりつくように。


「あのね、お兄さん」


 頭一つぶん高い背中が、ゆっくりと振り返る。なあに、と優しくわらった。
 きゅっと拳を握って、わたしは続ける。


「才能ないっていったけど、嘘。きっと上手くなるよ、キタラ」


 不思議そうに首をかしげたお兄さんに、わたしはぽつりと返した。……似てるから、と。


「お兄さん、少しだけパパに似てるの。わたしにキタラを教えてくれたパパ」


 ――ふわ、と。
 突然、頭の上に柔らかな温もりが降りてきた。それがお兄さんの掌だということに気づくのに、少し時間がかかった。
 お兄さんはそのまま、小さな子どもにするみたいに私の頭をくるくると撫でた。


「……なに」


 突然のことにびっくりして、振り払うきっかけを逃してしまったわたしは、そのままされるがままになっていた。その温かさに、思わず目の奥が熱くなってくる。わたしの心の中にぐるぐると渦巻く思いのなにひとつも知らないくせに、どうしてこのひとの掌はこんなに優しいのだろう。
 溶かすような柔らかい熱は、やがて、ゆっくりと離れていった。見上げた先で、お兄さんはにっこりと笑って言う。

「すてきな旅を」

 ――風が。
 風が吹いたような気がした。行っておいで、フローリア。そんなふうに、優しく背中を押す風。
 遠ざかっていくその背中の向こう、青い海のかすかな切れ端が見えた。
 どこまでも広く、大きな世界へとつながる海が――。

 きっとわたしは、今日のことを忘れない。落書きみたいな空想が、たしかな決意に変わったあの朝を。あの下手くそな音色も、フローリア、とうたったあの声も。
 けれど、あのひとに会うことはもう無いのだろう。
 ――すてきな旅を。
 行きずりの旅人さん。あなたはいったい誰だったのかしら? そんなことを考えるのは、なんだか可笑しいね。

 ねぇ。わたしにも、ちゃんと見つけられるかしら?
 丘を下り、港から船に乗って、あの水平線の向こうへ。思い描いたたくさんの"物語"のような、綺麗なものなんて一つもないのかもしれない。ご機嫌斜めな海、歩きにくいでこぼこ道、変わり映えのしない景色。うまくいかないことも、きっとたくさんあるのだろう。
 だけどそれは、どんな一瞬だって愛おしい。他の誰とも違う、自分だけの物語になればいい。


  *  *  *


 やれやれ。すっかり忘れられちゃってたなぁ。
 おまけに"ニセモノ"だなんて、ひどい話だよね。
 まぁ、いいや。君が忘れてしまったって、"僕たち"は僕たちでそれなりに毎日楽しくやってるから、さ。

 ――行っておいで、フローリア。

 忘れ去られてしまった"物語"は何処へ行くと思う?
 たとえば、そう。あの子の言葉を借りるなら、"ニセモノ"の"物語"たちの行方さ。……え? 違う違う、他人事なんかじゃないよ。あなたにだって、少しばかり心当たりがあるんじゃないかな?
 答えはかんたん。何処へだって行かない。今でもちゃんと、あの子の中に息づいている。……まぁ、あの子がそれに気づくことは、きっと無いのだろうね。
 ――寂しいか、って?
 いいや。だってあの子はきっと、とびきりすてきな大人になるよ。
 けれど――そうだね、せっかくだから。せめて、この扉を開けたあなたに聴いてもらうことにしようか。あの子には、秘密だよ?
 かつてあの子が紡いだうた。箱庭の中の、小さな"物語"。
 ひょっとしたらその中には、いつかあなたが思い描いた"物語"も、混ざっているのかもしれないね。

bottom of page