the 14th Summer~鮮やかな残像~
乗換駅から三つめのホームを過ぎると、車窓を彩る景色は一気に見知ったものになった。
夏の日差しに輝く、青々とした田園風景。乗客もまばらな二両編成の単線電車は、風を連れて走っていく。
古びた木造りのホームに降り立った瞬間、迫りくるじわりとした熱気と、蝉たちの声。
帰ってきたのだ、と思った。
大学進学とともに生まれ育った町を離れて、気づいたことがひとつある。
空の色、だ。
切り取られた薄っぺらい空じゃなくて、どこまでも青くて青い。それが、私が十八年間過ごしたこの町の空なのだと。
まっすぐに突き刺さる日差しと、並木道に降り注ぐ蝉しぐれ。時おり鼻をつく濃厚な草いきれ。
幾度となく味わってきたこの町の夏の空気に包まれて、歩き慣れた家路をたどる。
ほんの数ヶ月前までは、この小さな町が私の手の届く世界のすべてだった。
昨日と同じ今日を、今日と同じ明日を。この穏やかな空気に包まれて、顔見知りばかりの町並みで過ごしてきた。
生まれ育った町は、好きだと思うより前に、当たり前のようにそこが私の生きる世界だった。
――けれど十四の夏、たった一度だけ、あの時だけは違った。
『ハルのこと傷つけるこの町なら、私だって捨てられる』
あの頃、手を伸ばせば届きそうなこの小さな町が私の世界のすべてだった。
その小さな世界の中で、永だけが真夏の太陽のようにきらきらと強く光を放っていた。
私だけに向けられるその笑顔を守るためなら、何だってできると思った。
十四の夏、生まれて初めての恋だった。もっともあの頃はただただ夢中で全力で、身体中を余すところなく満たしたあの感情に名前をつけることなど出来なかったのだけど。
『私、一緒に行くから』
あの夜、不器用な口づけとともに交わした約束は、けれど果たされることはなかった。
今でも夢に見ることがある。幾度となく、同じ夢を見る。
よく晴れた真夏の朝、窓から差し込むほのかな日差しで目を覚ます。それは永と約束したあの日で、だから私は、はやる鼓動を抑えながらそっとベッドを抜け出す。目覚まし時計は鳴り出す前にスイッチを切って、夜のうちにまとめておいた荷物を片手にそっと家を抜け出す。誰もいないいつもの通学路を抜けて、小走りに駅へと向かう。
けれど、私の目の前であの電車は行ってしまう。
いつだって私はあの電車に乗ることはできなくて、そこで目が覚めるのだ。
あと一歩のところで意地悪に降りた遮断機の向こう、くすんだ橙色の車両はゆっくりと加速しながら通り過ぎていく。約束の場所で私を待っているはずだった永を乗せて。
そうして何度も何度も思い知らされる。
永ひとりだけがあの線路の先へ行ってしまった。
この小さな町に、私の世界の中に、永はもう居ないのだと。
「みちる」
声が、響く。あの人の声が聴こえる。
この町の誰よりも私の名前を正しく呼んだ、あの心地よくざらついた低い声が。
はたと足を止めた私を、大好きなあの笑顔が見つめている。約束をしたあの木の下で。
アスファルトから立ちのぼる陽炎のゆらめき、その向こうに――。
……永?
一歩踏みだしかけたその瞬間、それはゆらりとかき消えた。
「ハル」
小さく声に出して、私はあの人の名前を呼んでみる。
四年という歳月は、決して短いものじゃない。それでも、同じ季節、あの頃と何一つ変わらないこの道を歩くだけで、私はこんなにも簡単にあの日に引き戻されてしまうのだ。
あなたは今、どんな街並みを歩いているだろう。
* * *
"最後の夜"は、じっとりと汗ばむ熱帯夜だった。
花火をしようと言って永は、いつものように私を自転車の荷台に座らせてあの川原に連れ出した。
約束の日の一日前。だからそれは、私がこの町で過ごす最後の夜になるはずだった。私が永と過ごした最後の夜、ではなく。
空はもうすっかり暗くて、けれど地上には相変わらず昼間の熱気が滞留していた。
あの夏、ふたりで町を出よう、という話をしていた。それはそれは真剣に話し合った。
家出だとか駆け落ちだとか、そういう名前は付けたくなかったし、何かが違うと思っていた。
私たちは一緒に居なくてはいけない。だから、私たちが一緒に居られないこの町を出ていくというだけ。
顔見知りばかりで閉じられたこの小さな田舎町は、余所者の永を少しも受け入れてはくれなかった。東京もん、不良、妾の子。
赤、白、緑。めまぐるしく色を変える光の中に浮かび上がる永の横顔は、その光と同じくらいキラキラと輝いていた。
この町の誰も、永のお母さんだってきっと知らない。このひとがこんな風に笑うのを知っているのは、私だけ。このひとがこんな風に笑える場所は、ここだけ。
「ほら、これでラスト」
そう言って永は、最後の一本になった線香花火を私に持たせてくれる。
カチリ、と長い指先がライターで火をつける。
ちりちりちり、とオレンジ色の光がのぼっていき、やがて小さな玉を結ぶ。私たちは何も言わずにじっとその様を覗き込んでいた。
ぱちぱち、ぱちぱち。はじけて踊る、小さくてあたたかい光。
「なぁ、みちる」
線香花火の先っぽを見つめたまま、永が私を呼ぶ。
永に名前を呼ばれるのがたまらなく好きだった。美知留、という大げさな綴りの名前を、生まれて初めていとしく思えた。
「なに?」
「やっぱ、中学は卒業しとけよ」
それは、頭を強く殴られたかのような衝撃だった。
永は私の三つ上で、法的には学校へ行く義務のない年齢だ。私とは違う。
「約束したじゃない。永のこと傷つけるこの町なら、私だって捨てられる」
身にまとった真っ白なセーラー服が恨めしかった。
受験対策だといって三年生に課される夏季補講に通っているのだって、家族や友人に怪しまれないようにするためでしかない。永と出会う前の、おとなしい片田舎の優等生を続けるつもりなんて微塵もないというのに。
そして何よりも、そんなことは永だって分かっているはずなのに。
「私、一緒に行くから」
念押しのように呟いた、刹那。
その勢いのまま、オレンジ色の玉は何の前触れもなくぽとり、と落ちた。
私たちを優しく照らしていた淡い光は一瞬にして消え、世界は再び暗闇に落ちる。
残されたのは、白く立ちのぼる煙だけ。
――“私、一緒に行くから”
辺りを埋め尽くした夜の闇。
もしかしたらそれが永の――私たちの答えなんじゃないか。
ねえ、今ハルはどんな顔をしてる?
根拠のない不安に押しつぶされそうで、私は大好きな人の名前を呼ぼうとする。
けれど私の声は、音になる前に塞がれて、消えた。
「――っ」
つよく引き寄せた勢いのまま、湿った温もりが押し当てられる。
不器用に絡められた熱は、とろけそうな甘さと、それでいて胸をしめつけるような苦しさを持っていた。
つぅ、と長い指が頬を優しくなぞった時、初めて自分が涙を流していたことに気付いた。
ぽろぽろとこぼれおちる涙の止め方が分からない。だって今どうして泣いているのか分からないから。悲しいのか、嬉しいのか、怖いのか。
震える手できゅっとその肩を掴んだら、そのまま強く抱き寄せられた。
重なるふたつの鼓動の音は速く大きく、いつしか一つになってしまったような気さえした。そうなればいいと、心の底から思った。
たぶんあの時、心の片隅で気づいていたのだと思う。
たとえば、そう。突然「花火をしよう」なんて言い出すのは、普段なら私の方だった。
たとえば、そう。あんな風に胸が苦しくなるような口づけをされたのは、あの時が初めてだった。
いつだったか私の祖母は言った。どんなにささやかでも、いつもと違うことが積み重なるのは、きまってよくないことの前触れなのだ。
「また明日」
帰り際、わざといつも通りの挨拶をした。明日から始まる日々を思い、高鳴る鼓動を抑えるように。
永もいつものように頷いてくれた。
――そうして、それが最後になった。
* * *
昨日から今日へ、今日から明日へ。
変わり映えのない日々をやり過ごして、いつしかあの頃の永の歳も追い越した。制服というものを卒業して、この小さな町を離れた。
あの頃、永はどんな思いで私を見ていただろう。真白いセーラー襟の夏服に身を包んだ、ただまっすぐに自分を見上げる十四歳の少女を。
――あの時永は、私の可能性を奪うことを、私以上に恐れていた。
今なら分かる、とはまだ言えない。
それでも、あの日の永の視線の先にあったものがぼんやりと見えかけているのは、私自身もこの町を離れたからだろうか。
家族に友達に、見知った人々に囲まれて、どこまでも穏やかな日々を過ごした。永が望んだように、私はそうして歳を重ねてきた。
ここにはいない永が、今の私を作った。この日々は、永が守ってくれた。
……たとえば、今こうして家路をたどる私を。
もしもあの時、永と一緒にあの電車に乗っていたら。
今私の手の届くほとんどのものを失って、永だけが傍にいる。二人語り合ったあのどこまでも幸福な町へ行けたのだとしたら……。
永は今、どんなふうに暮らしているだろう。私の知らない街並みを歩く、あの広い背中を思い浮かべてみる。
いま、どうか少しでも、あの人が笑顔で居られる場所がありますように。